PUPA

なすみ

1話:ビーカーとインスタントコーヒー

 自分で言うのもおかしな話だが、わたしの見た目はとても地味な高校生として、周囲に映っているだろう。実際、ミディアムロングの黒髪を、学校ではそのままストレートに降ろしているし、メイクだってナチュラルな程度にとどめている。眼鏡だってお洒落なもの、というよりはむしろ野暮ったい、大きなものだし、スカートの丈にしたって、みんながやっているように、短く折ったりしていない。

 悪目立ちしたくないのだ。

 それでなくても、わたしのこの病気は、目立つ要因になるのだから。だからわたしは、思い出してみると中学に上がった頃から、だろうか。あまり周囲から浮かないように、目立たないように、その他大勢の一人になれるよう、努めて心がけていた。

 場面緘黙症。特定の状況下において、主に学校などの人が大勢集まる場所で症状が現れる、心因性の病である。その症状とは、一言で表すならば、口が利けなくなる。喋られなくなるのだ。勿論、わたしだって話したいと思っている。だが、話せない。わたしは、そんな症状が現れることに対して、強い羞恥心を抱いていた。それこそ、文字通り赤面してしまう程、この病気が、心底恥ずかしかった。だからいつも、周囲の人たちの反応に合わせて、せめて笑顔で過ごすように、心がけていた。

 何を言われても、笑顔。頑張れば、首を縦に振ったり、横に振ったり、そういった意思疎通は出来ないことも無いが、その『出来ないことも無い』の度合いは、例えば普通の人が街中でいきなり大声を出してみたりだとか、ズボンとシャツを逆に着て、家の周りを歩いてみたりだとか、それくらいの度合いである。

 ただ、そんなわたしでも、学校という場所の中、話せる環境が全くないというわけでもなかった。その先生と完全に二人きりで、誰かに話しているところを見られたり、聞かれたりしないような環境である、というのが厳密な条件ではあるのだが、それでも何故か、わたしはその先生と二人きりで居るときだけは、家にいるのとまったく同じように、話せていた。我ながら、何故かは分からないのだが。

 その先生のことはとても尊敬しているし、大好きだったが、それにしても不思議な話だった。

 秋月先生。

 彼女は、理化学の授業を行っている先生で、わたしのクラス、2-Bを担任する先生でもあった。そして、わたしが秋月先生とだけ話せる。ということから、彼女はわたしを心配して、月曜日と水曜日、それから金曜日の放課後に、カウンセリング――というほど堅苦しいものではないけれど、そういった話す機会を設けてくれる先生でもあった。

 そして今日は、金曜日。つまり、先生とのお話をする日である。わたしは、終礼が終わり、先に荷物を片して教室を後にする先生を横目で追いながら、一人、机の荷物を学生鞄へ、急いでしまい込む。勿論、先生もこの後の片付けなどが少なからずあるし、それこそ理科室でもやることがあるのだから、何も急いだところで変わらないと、分かってはいる。しかしこれは、先生へ迷惑をかけないようにとか、そういう気持ちで急いでいるわけではない。

 ただ、楽しみだった。先生と、こうしてお話をする機会というのが、どうにも好きだった。

 廊下を他の先生に怒られない程度の早歩きで進み、そのまま三階の北側、その突き当りまで進む。そこには、先生の使っている理科室があった。そこへ近づいていくにつれて、わたしは顔が自然とにやけてしまう。そのだらしなく緩んだ口角を、手で触って隠すようにして、すれ違う他の生徒や先生に、見られないようにする。

 しかし、扉の前に立つ頃には、もうどうしようもないくらい、気持ちが昂っていた。心臓は緊張やら嬉しさやらで、早鐘を打つように鳴っているし、呼吸も落ち着かない。手には緊張で汗が滲んできて、指先が冷える感覚を憶える。

 一度深呼吸して、扉を軽く叩く。すると程なくしてすりガラス越しに人影が現れ、扉が音を立てて開いた。

「やっほ、いらっしゃい」

 秋月先生だ。

 先生はいつも通り、温和な口調でわたしを出迎えてくれる。だが、わたしはいざ先生を目に前にすると、ついつい黙ってしまう。これは元の性格だ。咄嗟に下を向いて、スカートの裾を両手で握り締める。先生は、そんなわたしを見て、小さく笑うと手招きした。

「ほら、入って」

 そういって、ゆっくりと踵を返して、室内へ戻る。その後を追うようにして、わたしも中に入って、理科室の扉を閉めた。その瞬間。

 まるで魔法が解けたかのように、唇が開くようになる。この感覚は筆舌に尽くし難い。ただ、わたしは扉から手を離すと、再び先生の元へ振り返った。

「……お邪魔します」

「はいよ。あ、鍵、閉めといてね」

「は、はいっ」

 こちらから鍵を閉めていいかお願いするより早く、先生はそう言ってくれる。本当はあまり、教室の鍵を閉めたりするのは、防災の観点からよろしくないらしいのだが、しかし先生は、それよりもわたしの事情を優先してくれるらしい。

 わたしは三度、扉に振り返ると、鍵を閉める。その手は少し、緊張で震えていた。やはり、どれだけカウンセリングを重ねても、緊張してしまうらしい。

「か、鍵かけました」

「ん、ありがとー。じゃ、こっちで話そっか」

 そういって、先生は黒板の裏にある、理科準備室への扉を開けて中に入る。多分、他の生徒にとって、その部屋は危険なやっく罪なども保管していたりするので、道の領域なのだろう。実際、基本的に立ち入りは禁止されているくらいだし、わたしも最近、ここに入れてもらえるようになったくらいだ。だが、先生が無暗に他の生徒をこの部屋へ入れたがらないのには、もう一つ理由があることを、わたしは知っていた。

 理科準備室は、それこそ危険な薬剤などもあるため、専用の通気口が取り付けられた、大型の換気扇がある。授業で使った薬剤などの処理には、これを運用しているらしい。そして、その換気扇は、一部の先生たちにとって、喫煙所としても使用されていた。

 勿論、学校に無断で、という訳ではない。ただ、生徒に教師が喫煙しているところを、あまり見せるべきではないという考えのため、せめて吸うならここで。という風に、決まったらしい。

 ちなみにこの部屋の広さは大体、理科準備室を二つに区切ったくらいの面積しかない。その中へ、様々な教材や、薬剤の並んだガラス戸の棚、前述したフード付きの換気扇、実験台に水道、ビーカーなどなど。秋月先生らしい、ごちゃごちゃとした空間だった。

「あ、適当に座ってね」

 その空間の隅の方に寄せられた、理科室でよく見る椅子を先生は示す。それから換気扇の下に向かって、煙草に火をつけた。正直、これでは何のために生徒から煙草を吸っている姿を隠すため、この換気扇を使っているのか、全く分からないが、しかしわたしはこの適当具合が、とても好きだった。わたしのことを、病気だからとか、友達が少ないからだとか、そういう『かわいそうな子』という目で見ていない。この自然な雰囲気が、きっと話しやすいんだろうと思う。ただ、それでも約束は守ってくれるし、わたしの話を他にしたりしない。そういう誠実な所も含めて、好きだった。

「じゃ、じゃあ、ここに……」

 そういってわたしは丸椅子を両手で抱えながら、換気扇の元に立ち、煙草を吸っている先生の側まで寄る。そして、そのまま真横に椅子を置くと、座った。

 見上げると、驚いた様子でこちらを、咥えタバコで見つめている先生と目が合う。

 少し考えて、わたしは口を開く。

「……あ、お邪魔します?」

「違う、別にその言葉が無いことに驚いてた訳じゃない」

 近くない?

 そういって、先生はようやく笑い出した。

「いやいや、確かに、適当って言ったけどさあ、なんでこんな真横? 煙たくないの?」

 そういって、しかしわたしから離れるでもなく、そのまま隣の丸椅子へ、先生も足を組んで座る。その細く長い脚に、わたしは思わず見惚れる。なにせ、だらりと着崩れた白衣から伸びる、パンツルックの足。その太ももは、まるでモデル化と思う程、長く、細く、すらりと伸びていた。

「てか、煙たいでしょ、やっぱり」

「あ、いえいえ、大丈夫です。お父さんも煙草、良く吸ってた……から」

 むしろ好きなんです。そういうと、先生は少しの間、首を傾げて悩んでいたが、やがて納得したように眉を下げ、煙を細く吐く。

「まあ、望月がそういうなら、わたしは遠慮なく吸うけどさ」

 そういうと、先生は煙草をくわえたまま、近くにあったノートパソコンを引っ張ってくる。それを開いて、カタカタと子気味のいい音を立てて、文字を打ち込み始めた。

 本日の日付と、時間。いつも作っている、カウンセリングのレポートだろう。

「じゃ、始めよっか。……まあ、ただの世間話だけど」

 そういって、先生は悪戯っぽく笑う。

 それからしばらくの間、わたしと先生は本当にただの雑談に近い会話を続けていた。最近の好きなこと。勉強について。家での過ごし方。テレビの話題。そういった何気ない会話が一段落ついたところで、先生はおもむろに立ち上がると、近くの棚へ足を運ぶ。それを気になって眺めていると、戻ってきた先生の手には、アルコールランプ、ビーカー、そして三脚と石綿金網があった。

 わたしは、それより前に投げかけられていた話題について、返答をしながら、それを引き続き見つめている。すると先生は、おもむろにアルコールランプを、煙草を吸うときにも使っていたライターで着火し、何故かビーカーで水を温め始めていた。

「……あ、あの、先生?」

 わたしは思わず気になって質問する。

「なにか、実験でも、するんですか?」

「え、ああ、これ?」

 先生は二本目の煙草に火を付けながら、慣れた手つきでガラス棒を使い、水を掻き回す。

「まあ……インスタントコーヒーも、科学の産物だからね。そういう意味では、実験、かな?」

 その言葉通り、先生はそれからしばらくして、沸騰したお湯を二つのマグカップに注ぎ分ける。それから、粉を入れて混ぜ、うちの一つをわたしへ手渡してくれた。

「はい、実験成功。んで、これ望月の分ね」

「あ、ありがとうございます……」

 わたしはその暖かいマグカップをしばらく眺める。ちなみに、そのマグカップのデザインも、元素記号がイラストで描かれたものである。わたしのは、Mg。つまりマグネシウム。ちなみに先生のは、U。ウラン。……体壊しそう。

 ではなくて。

 ともかく、わたしはコーヒーカップを口に付け、飲む寸前で、やはり我慢できずに言ってしまう。

「……実験じゃないですよね?」

 すると先生は、そんなわたしの様子に、にやりと笑った。

「いやいや、立派な実験だよ。なにせインスタントコーヒーの製造方法には、それはもう色々と科学の原理があっつ」

 すぐに口元からカップを離し、息を吹きかける。狭い部屋に、コーヒーのいい香りがじんわりと漂っていくのを感じながら、わたしは口を付けた。

 まあ、確かに熱いと言えば熱い。そりゃあ出来立てなのだから、当たり前である。

「先生、猫舌なんですから、いきなり飲もうとしたら駄目ですって」

 もう一度、今度はより味わうようにコーヒーを口に含む。先生の入れてくれたコーヒーは、インスタントとは思えないほど、美味しく感じた。コーヒーの香ばしい香りが、鼻からふんわりと抜けて、気持ちが落ち着く。先生は、すでに飲み頃であるはずのコーヒーを、未だに熱い熱いと言いながら、啜っているところだった。

「いやあ、熱いコーヒーは好きなんだけどね? でも、やっぱり熱いの飲もうとしたら、ほら、舌が火傷しちゃうじゃない。人間の口の中って、粘膜だから熱には敏感だし。それに、火傷したら痛いし。……ちなみに、飲み頃とされている温度は、大体68度から70度くらいって言われてるらしいよ。このコーヒーは何度かな?」

 そういって、先生は温度計を引き出しから取り出すと、アルコール綿で消毒した後、コーヒーの中へ入れる。

「……先生、普段は適当なのに、こういうところはやっぱり理科の先生って感じですね」

「え、待って、褒めてるようで褒めてないよね、それ」

「いえ、褒めてます」

「嘘つけ」

 不満そうに眉を顰めてこちらを睨む先生を、わたしは嗤いながら見つめ返す。丁度温度計も、推移が落ち着いたらしい。

「うん、89度。そりゃあ飲めないよ」

「わたしは飲めてますけどね」

 そういって見せつけるようにコーヒーを啜る。事実、それほど熱いとは思わない。丁度飲み頃と言ったところだろうか。だが先生は、その様子を見て、ありえないといったように首を振る。

「人間の身体は、大体70度以上の熱に晒されると、一秒で火傷に至るんだよ。だから、それを踏まえて考えると、望月の身体が強靭なだけって結論に至るよね」

「それも化学ですか?」

「いやこれはわたしの僻み。猫舌治したい」

 そういって、再びふーふーと息を吹きかける先生。大人しく、氷でも入れたらいいのに。と思いながら、わたしはコップを置いた。

「先生って、絶対猫舌じゃないって感じなのに猫舌奈野、かわいいですよね」

「え、褒め、てる?」

「褒めてます」

「子供っぽいな、この人。とか思ってたりしない?」

「思っ……てないです」

「思ってるし褒めてないな」

 カウンセリングレポートに、猫舌を幼稚だって笑われたって書いておく。そういって、先生は頬を膨らませていた。

  その後、私と先生が理科室を後にしたのは、カウンセリングが始まってから一時間が経った頃だろうか。あの後、それなりに悩み相談などをして、コーヒーカップの片づけを二人でして、一緒に部屋を出た。

 理科室のカギを締める先生を、わたしは鞄を肩に掛けて待つ。生徒たちは、まだ部活に励んでいるらしく、グラウンドの方から元気な声が、窓越しに聞こえていた。

「それじゃあ、明日は学校は休みだから、家でゆっくり休むなり、夜更かししてゲームするなりするんだよ。先生は、これから帰ってゲームするから――ちょっと待って」

 教室を一歩出ると、途端に話せなくなるわたしの方を見て、先生は鍵を指でくるくると回しながらそう言った。だが、そこでわたしの顔をじっと見つめ始める。

 わたしは思わず、そんな先生の反応に対して、いつもの笑顔が少し強張るのを感じる。なんで凝視されているのかは定かではないが、それでも人に顔をじっと見つめられると、喋れないわたしとしては、どうしたらいいかとても不安になる。思わず目を瞑って、俯いてしまうほどには、緊張してしまう。だが、そんなわたしの気持ちをよそに、先生はゆっくりと手を伸ばしていたらしい。唇の端に指で触れられた感覚を憶え、思わずびっくりして目を開けてしまう。先生は、ハンカチをひらひらとさせていた。

「危ない危ない、口の端にコーヒーついてた。バレるところだったじゃん」

 そういって笑うと、先生はそのまま、廊下を進んでいく。

「じゃ、気を付けてね、お疲れさまー」

 その背中に、わたしは他の人が見ていないことを確認して、手を振るのが精いっぱいだった。

 が。

 そこで先生は急に後ろを振り返ると、思い返したようにこちらへ近づいてきた。それから、耳元に口を寄せる。わたしは今度こそ、顔が恥ずかしさで真っ赤になるのを感じたが、先生の一言で、一気に青ざめることになる。

「言い忘れてたけど、耳のそれ、ばれないようにね」

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