第七篇 乙女ゲー主人公

 その日は本当にたまたまスマホの目覚ましが鳴るよりも早く意識が覚醒して、本当にたまたま二度寝をする気が起きなくて、本当にたまたまいつもよりも早く学校に行こうという気が起こって、本当にたまたま朝練をしている運動部の掛け声が聞こえてくるような時間帯に校舎に到着して、本当にたまたま、僕はその女子生徒の姿を目撃してしまった。

 教室には、たった一人、いつもより早く登校した僕よりも早く登校している女子生徒が、いた。

 その女子生徒は優雅に鼻歌を歌いながら、そのポニーテールを犬のしっぽのように揺らして、スカートをふわりとはためかせて、教室の机の上を飛び回って、バレエのように腕と脚をしなやかに伸ばして、踊っていた。

 白い靴下で、机の上を滑って飛んで、踊っていた。

 僕はしばらくその女子生徒の踊りに見惚れていた。いや、驚いて、身動きがとれなかった。

 なぜならその踊りは、僕の抱いていたクラスメイトとしての彼女の印象からは、およそかけ離れたものだったからだ。

 その彼女、玉川たまがわ香菜かなさんにはおそらく友達がいない。

 高校二年生に進級して約二か月が経過するが、彼女が教室内で誰かと話している様子はほとんど見たことがない。たまに事務的な会話をしていることはあっても、誰かと親し気に話していることはないし、そもそも玉川さんの笑顔を僕は一度も見たことがない。

 玉川さんは休み時間になると両耳にイヤホンをはめ込んで外界の音を遮断し、そして本を読むことによって意識も遮断している。おまけに表情も仏頂面だから、もうそれは、『私に話しかけないでください』と書かれたプラカードを掲げているのとほぼ同じようなもので、もちろん誰も、男女ともに玉川さんには近寄らない。

 クラスに一人はいるような、群れることが嫌いな一匹狼、という印象だった。女子で、しかもポニーテールという活発そうな髪型なのにそういう性格をしているのかと、クラス替えの直後は意外に思ったりしたけれど。

 しかし今はそのときの五倍ほど意外だった。

 彼女はあろうことか笑顔で、楽しそうに、見た目のイメージ通り活発に、踊りまわっていたのである。

 僕が口を半開きにしてその姿に見惚れていると、彼女は僕に気づいて急に動きを止めて、いつもの仏頂面に戻って、机の上で仁王立ちをして、教室の扉付近で立ち止まっている僕を睨んだ。

「……なに?」

 彼女はポケットから出した眼鏡を耳にかけながら、冷たい声で言った。

「……そこ、僕の席、なんだけど……」

 僕がおそるおそる言うと、玉川さんは表情ひとつ変えずに机の上から飛び降りて、上履きを履いて、自分の席の椅子に座った。

 玉川さんの席はちょうど教室の中央あたりにあって、そして俺の席は玉川さんの席から二つ後ろにある。

「……ダンス、上手なんだね。昔、習い事かなんかやってたの?」

 二人っきりの教室で、しかもあんなダンスを見た後でお互いに沈黙したままなのは僕の精神力では耐えられなかったので、僕は若干震えた声で玉川さんに話しかけた。今日は珍しくイヤホンをはめていないから、僕の声は届いているはずだけど。

「…………」

 一分以上待ってみても玉川さんからの返答はなかった。あんな、自分のイメージに全く沿わないような踊りを偶然僕にに見られてしまったのだから、顔を赤らめて僕の胸ぐらを掴んで「このことは誰にも言わないでよねっ!」ぐらいのことは言ってもいいと思うけど。

 彼女の丸い背中は、凍り付いたように動かない。

「この時間は、いつも踊ってるの?」

 無視されたからといって沈黙するよりも、独り言のような形になってもずっと喋り続けているほうが僕の精神的に楽だったので、そうすることにした。

「…………うん」

 危うく聞き逃してしまいそうなほどか細い声で、彼女は言った。

「そうなんだ。ごめんね、勝手に踊ってるとこ見ちゃって。今日はたまたま早く目が覚めちゃってさ」

「……別に、人に見せるために踊ってるから、いい」

「……え、ってことは、なんか舞台とかで踊ったりしてるの?」

 僕が言ったところでちょうど教室の扉が開いて、クラスメイトの女子が入ってきた。彼女は僕と親しい人ではないし、もちろん玉川さんの親しいわけでもないだろう。彼女は一瞬だけ僕と玉川さんを一瞥して、そして自分の席に座って英単語帳を開いた。彼女は確か、この前の中間テストの数学で、クラスで一番点数が高かった人だ。数学の教科担任は一年生の頃からそうやって、誰も望んでいないのにクラスで一番の成績優秀者を発表するから苦手だった。

 その彼女が教室に入ってきたことによって僕と玉川さんの空気がなんとなく壊れて、僕は手元のスマホに視線を落とした。ちらりと玉川さんを盗み見ると、ちょうどイヤホンを耳にはめているところだった。

 そうして玉川さんは今日も、教室の空気を遮断した。

「いつ不登校になってもおかしくなさそー、あの子」

 昼休みになってなんとなく中庭に行くと、珍しく村上が一人でベンチに座っていたので、僕はその隣に座って菓子パンの封を開けた。

「リスカ痕があったっていう噂聞いたよー。確かに病んでる人の目してるもんね、玉川さん」

 村上というこのマスクを顎に引っかけて制服を着崩して、髪も若干茶色に染めて堂々と校則違反をしている女子と僕は中学からの付き合いで、そして僕の数少ない女友達だった。

「村上は、玉川さんと話したことあるの?」

「あるよー。でもなーんか不愛想な感じだったなぁ。敵作りそうな感じ。それに、下手に顔が良いから余計にね。今までどうやって女社会で生きてきたんでしょーねー」

 おそらく玉川さんは小学校も中学校も、今と同じように女社会に属さないことを選んで生きてきたのだろう。玉川さんは、どこの社会にも属さないままに生きていけるような強さを持っている。

「玉川さんって本当に友達いないのかな」

「いや、いるよ、一人」

 友達がいないなら村上お前が玉川さんの友達になってやれと続けようとしたら、意外な答えが返ってきた。

「この前、文芸部の人と一緒にいるとこ見た」

「文芸部?」

 この学校に文芸部なんてあったっけ。

「知らないの? この学校の唯一の文芸部員は、うちの学年の子だよ」

「へぇ……知らなかった」

「あの人身長高いし眼鏡かけてないし、文芸部っぽくないもんね。バスケとかバレーとかやってそうな感じ」

 それを言ったら玉川さんも、身長は高いほうだし髪は一つにまとめてポニーテールにしているし、スポーツをやっていそうな雰囲気があると言えなくもない。

「ねぇ、朝日くん」

「え?」

 気づけば僕の隣、村上が座っていないほうの側に、玉川さんが座っていた。

 僕の肩に手を置いて、無表情で、僕の目を見つめていた。

 いきなり下の名前で呼ばれた。

「朝日くんは、今日の夜は暇?」

「……よ、夜って、まあ、用事はない、けど」

「じゃあさ、六時に駅前のマックで待ち合わせね。私、待ってるから」

 玉川さんは表情ひとつ変えずに、流暢に滑らかに、淡々と話す。

「な、なんで急に?」

「どうしても朝日くんに頼みたいことがあるの。朝日くんにしか、できないこと」

 玉川さんは強く僕の瞳を見つめる。僕は危うく玉川さんの瞳の中に吸い込まれそうになる。

「……わかった」

「じゃ、六時ね。ちゃんと来てね」

 念を押すように僕の肩を軽く叩いてから立ち上がって、こちらを振り返りもせずにすたすたと真っ直ぐ廊下のほうへ歩き去っていった。

「へぇ、朝日くんねぇ」

 今度は反対側から肩を叩かれる。

「なーんだ、付き合ってたんだ」

「いや、付き合ってないよ」

「じゃあ、あんたが玉川さんに告白してフラれちゃったとか? まさか逆はありえないだろうしー」

「それもない。何気に失礼なこと言うなよ」

「じゃあなんであの子はあんなこと言うの?」

「……知らないよ。昨日まで一回も玉川さんと話したことなかったし」

「あー、言い忘れてたけどね、玉川さんってこの前まで他校の先輩と付き合ってたらしいよ」

「なんだそれ?」

「そんで、隣のクラスの男子が玉川さんに遊びに誘われて、結局すっぽかされたって話もあったなー」

「……何が言いたい」

「んー? 別にー? そんくらい自分で考えればー?」

 村上は嘲るような笑いを含みながらそう言って、チュッパチャップスのビニールを剝がしながら立ち上がって、玉川さんとは対照的にふらふらした足取りで校舎のほうに戻っていった。

 その後の授業を受けながら僕は逡巡して、僕は玉川さんに言われた通り、六時に駅前のマックに行くことにした。村上から聞いた話のことはもちろん考慮したが、それでもそれは所詮は噂でしかないのだ。僕は玉川さんという人物について少しも知らない。ただの噂話で人柄を判断してしまうような人間にはなりたくなかった。

 放課後になって適当に学校周辺をほっつき歩いてから、五時五十分に店に着いたがそこに玉川さんの姿はなく、僕はポテトを注文して、駅の様子が窺える窓際の席に座って、一人でポテトを食べていた。ざっとここから見える駅周辺の景色を目で探してみたが、玉川さんの姿は見つからない。まだ約束の十分前だから仕方ないか。

 玉川さんがなぜ僕をここに呼び出したのか。まだ玉川さんという人物について少しも知らない僕だが、実はその理由についてはなんとなく察しがついている。

 自慢じゃないが、僕という人間は昔から異性にモテた。幼稚園児の頃にも、僕に告白してくる女の子は片手では収まらないほどにいた。小学五年生のときのバレンタインデーの日に自分の下駄箱を開けようものならその中からクラスの女子の手作りチョコレートがあふれ出てきたし、中学二年生のクリスマスの夜には同時に五人の女の子から食事に誘われた。僕の人生において、女に困らせられることは多々あったけれど、僕が女に困ることは一度もなかった。

 僕は物心ついたときからずっと、誰かに求められていた。

 しかし僕は一度も、誰かを本気で求めたことはなかった。

 愛情とか恋愛感情とか、そういう、性欲とは似て非なる感情がこの世に存在することは、知識として知っていた。しかし、その感情が具体的にどういうものなのかは、今もって知らない。僕が女の子と付き合う理由はいつだって、自分の性欲を満たすためかあるいは、相手の期待通りの振る舞いをして、自分は良いことをしたのだと自己を肯定するためかのいずれかだった。

 特に理由もなくただ一緒にいたいと思えるようなそんな相手には、僕はまだ出会ったことがない。そもそもそんな人が存在するのかさえ曖昧だが。

 だからつまり、少々傲慢な考えかもしれないが、おそらく玉川さんは僕のことが好きなのではないか。今日は僕をここに呼び出して、告白かあるいはそれに似た何かを僕にぶつけてくるのではないかと、僕は予想していた。今朝、机の上で仁王立ちになって僕を見下ろしていたときに、玉川さんの頬が少し紅くなったのを僕は見逃さなかった。

 だから僕はてっきり、玉川さんは約束の時間の三十分くらい前にそわそわしながら僕を待っているものだと思っていたのだけれど。

 玉川さんは六時ちょうどになっても店内に姿を現さなかった。

 六時半になっても、玉川さんは来なかった。

 七時になって、店内が仕事帰りの社会人や大学生で騒がしくなってきたので、僕は店を出た。六時二十分になったあたりでもう今日は来ないのではないかという気はしていた。一時間オーバーまで待っていたのだから、文句は言われないだろう。

 店を出て、雨が降っていたので傘をさして、深いため息を吐いてから、僕はネオンや車の排気ガスやごったがえす人々で賑わしい駅前を一人で歩き出した。空を見上げても星は見えなかった。夏が近づいている。

 片手で傘を持って片手をポケットに突っ込んで、僕は家までの道のりを歩いていた。横断歩道を渡ろうと電信柱にとりつけられている黄色いボタンを押して正面を向くと、途端に僕はとてつもない衝撃に襲われて、持っていた傘をとり落としそうになった。

 道路の向こう側で、制服姿の玉川さんが、大学生らしき黒いTシャツを着た背の高い男と手を組んで、信号が青になるのを待っていた。

 玉川さんは楽しそうに笑っていた。今朝教室で踊っていたときと同じ、柔らかい表情だった。

「…………」

 信号が青に変わって、玉川さんと男は歩き出した。僕は一瞬躊躇ったが、下を向いてさっさと横断歩道を渡り切ってしまうことにした。

 下を向いて、僕が僕であることを気づかれないように。

 横断歩道を渡り切った後で振り返ると、玉川さんはこちらには目もくれずに、男と親し気に話しながら駅の方向に歩いて行った。

「なんだ、あれ……」

 僕はその姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くして玉川さんを目で追っていた。

 怒りか悲しみか、はたまたただの驚きだったのか、得体のしれない感情が僕の胃の中で蟠っていた。

 つまり玉川さんは僕よりもあの大学生を優先したのだ。

「……ねぇ、玉川さ……」

 翌日、昼休みになったので昨日のことを問い質そうと玉川さんを呼び止めようとしたのだが、玉川さんは昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った瞬間に席を立ちあがって教室を出て、さっさとどこかへ消えてしまった。

「ねえねえ、玉川さんのお願いって結局何だったの~? お金を無心された? それともマルチの勧誘?」

 僕の脇腹を肘でつつきながら、完全に玉川さんのことを噂通りの人物だと思い込んでいる村上が話しかけてきた。

「……なあ、文芸部の部室ってどこだ?」

「んーっとね、第二校舎の四階、だったかな」

 僕は第二校舎の四階を目指して歩き出した。もし本当に玉川さんの友達がその唯一の文芸部員である女子生徒しかいないのならば、玉川さんが昼休みに行きそうな場所は保健室か図書室か文芸部室しかない。

 第二校舎四階で、一つ一つの扉を見ながら歩いていると、一番奥の扉に文芸部と三文字書かれた紙がガムテープで雑に張り付けてあった。ここが文芸部室で間違いない。僕は躊躇なくその扉を一気に開け放った。

 長机の上で女子が二人重なっていた。

 仰向けで目を閉じている髪が長く身長も高い女子と、その上に乗っかるようにしてうつぶせの体勢で、玉川さんが目を閉じていた。

「勝手に扉開けないでよね」

 玉川さんの下敷きになっている女子が、目を閉じたままで答えた。

「女の子の寝顔を勝手に見るなんてサイテー」

「……ごめん」

「素直でよろしくてよ」

 目を閉じたままで、安らかな寝顔のままでそう答える、おそらく唯一の文芸部員なのであろうその女子に僕が困惑していると、玉川さんがゆっくりと手をついて、四つん這いの体勢で顔を上げた。

「朝日くん、おはよう」

「もうこんにちはの時間だよ」

「朝日くん、こんにちは」

「……こんにちは」

 僕が言うと、玉川さんはふっと微笑んだ。教室では絶対に見せないような表情だった。それから玉川さんは長机から降りて上履きを履いて、そして僕の手を両手で握った。

 上目遣いで、僕を見つめた。

「何しに来たの?」

「玉川さん、昨日の夜さ……」

「え、朝日くん、昨日マック行ってた?」

 玉川さんは本当に意外そうに目を見開いて、言った。意味が分からなかった。

「そりゃあ、玉川さんと約束したんだから、行くだろ」

「朝日くんはわたしとの約束なんか守らないと思ってた」

「な、なんでそんなこと思ったの?」

「だって朝日くんは、わたしのこと好きじゃないから」

 僕は玉川さんのことを、好きか好きではないかで言ったら、好きではない。しかし、好きか嫌いかと訊かれたら、嫌いと答えることはできない。約束を一度すっぽかされただけで人を嫌いになるほど、僕は狭量な人間ではないつもりだ。

「いや、好きじゃないって、別にそんなことは」

「いいの。わたしには見えるから。朝日くんがどれくらいわたしのことが好きなのか、わたしには見えてるから、いいよ、建前なんか」

「……意味がわからないよ」

「朝日くんがわたしのことを好きでも嫌いでもないのは知ってるよ」

「…………」

「こう、男の人の額の上に車のメーターみたいなものがあってね、そのメーターの針が右に振れているほどわたしのことが好きで、左に振れているほどわたしのことが嫌いか無関心ってことになるんだけど、それで、朝日くんのメーターの針はちょうど真上を指している。右にも左にも傾いていないんだ」

 なんとなく玉川さんの額を注視する。前髪に隠れていて、そこにメーターらしきものがあるかはよくわからなかった。

「……それは、女の人の額には見えないの?」

「見えない。男の人だけ」

 玉川さんはそれが何でもないことのように言う。

 玉川さんの話を手放しに信じることはできない。なぜなら僕の額にそんなメーターは付いていないからだ。

 玉川さんは妄言を吐いている。

「それで、どうして守るつもりのない約束を僕としたの?」

「わたし、メーターがちょうど真上にある人って初めて見たの。だいたい、メーターがちょっとでも右に振れている人はわたしとの約束を守ってくれて、ちょっとでも左に振れている人は約束を守ってくれないんだけど、どっちにも振れてないちょうど真上の人はどうなるのかなって思って」

「…………」

 玉川さんは僕の手を両手で握ったまま、そのうるうるした瞳で僕を見上げたままで、悪びれる様子もなく淡々と言う。

「それならさ、六時になったら一度店の様子を見にくるぐらいのことはしてもよかったんじゃないかな。僕が店に来る可能性もあったわけだし」

 自分で自分の意志の動く可能性の話をするのは変な感じがする。

「だって、朝日くんの針って本当にちょうど真上から動かないんだよ?」

「それはさっき聞いたよ」

「違うの。普通はね、私がこうして手を握って、上目遣いで見つめるだけで、大抵の人のメーターは右に振れるはずなの。なのに、朝日くんの針は動きそうな気配すらない」

「……それは、ただの個人差なんじゃないか。全員が全員、女の子に手を握られて上目遣いされるのが響くわけじゃないだろうし」

「それだけじゃないんだよ」

 玉川さんは身を乗り出すように僕に一歩近づいた。心なしかいつもより表情が明るいように見える。常に仏頂面なのは教室にいるときだけなのか。

「昨日の朝だって、私が踊ってる姿を見ても朝日くんの針は微動だにしなかったし」

「あれって僕のメーターを動かすためだったの?」

「うん。だって男の子ってああいうの好きでしょ?」

「え、ああいうのって?」

「普段は無口で地味で目立たないクラスメイトの女子が、朝早く学校に行ってみたらら教室で普段の印象とは対照的に楽しそうに踊っていたっていう展開、男の子は好きでしょ?」

「…………」

 まあ、確かに嫌いじゃないけど。

「だからさ、もし朝日くんがマックに行ってたとしても、わたしが約束を破ったことでメーターが左に振れれば、それでも朝日くんのメーターがちゃんと動くんだってことがわかるから、それはそれでいいかなって思って、店には行かなかった」

「…………」

「でもそれも無駄だったみたいだね。約束を破られても、朝日くんはわたしのこと嫌いにならないんだ」

 ……関係ないけど、さっきからよく喋るな、玉川さん。教室での玉川さんの態度からは想像もできないほどに、よく喋る。彼女の喋り方の癖や声の質がよくわかるほどに、玉川さんはよく喋る。

 逆になぜ教室ではあそこまで無口なのか。

「……話変わるんだけど、玉川さんって今付き合っている人とかいるの?」

「え? いないよ? なんで?」

「昨日、玉川さんが駅前で男の人と歩いているのを見ちゃってさ」

「え、え、ええ! あれ、見られてたの?」

「僕はあれを見たから家に帰ろうという気になったんだ」

 玉川さんはそこでやっと僕の手を離して、両手で自分の頬を覆うようにして照れる仕草をした。教室ではついぞ見たことのない、女の子らしい仕草だった。

「付き合ってないってことは、あの男の人は玉川さんのお兄さんか何かなのかな?」

「ううん。あれは彼氏だよ」

 玉川さんはあっさりと五秒前に嘘を吐いたことを認めた。

「あのさ、余計なお世話かもしれないけど、彼氏がいる身で僕みたいな男と二人で会おうとするのは、あんまりよくないことなんじゃないのかな」

「いや、そういうのは大丈夫。わたし今二股してるから」

 玉川さんは全く調子を変えずにそんなことを言った。自分が不倫理な人間であることを、まるで何でもないように告白した。

「そして朝日くんは三股目。三番目の少年。サードチルドレンだね」

 ぷくく、と。今も長机で寝ている文芸部の彼女が吹き出していた。僕には何が面白いのか皆目わからなかった。

 玉川さんは僕に優しく微笑みかえていた。

「それってつまり、告白なんじゃないの~?」

 既に玉川さんに対してあまり良い印象を持っていない村上になら、ことの経緯を全て話してもそこまで問題にならないだろうと考えて、僕は村上に相談することにした。

 あれから一日経った昼休み、僕と村上はまたも中庭のベンチで二人並んで座っていた。

「つまり、『あなたを三股目に加えたいので私と付き合ってください』っていう、告白」

「なんで僕が三股されなきゃいけないんだ……」

「知らないよー。でも、玉川さんはあんたに、三股目になってくださいーって要求してるわけだから」

「じゃあ断ったほうがいいよな」

「え、いいの?」

「なにが」

「あんな可愛い子と付き合えるチャンスなんて、これからの人生あと何回あるかわからないよー? わたしが男だったらこんなチャンス逃さないけどなぁ」

「三股なら付き合ったってしょうがないだろ」

「……ふうん。あんたがそういうこと言うのって、なんかおかしいと思うよ」

「え、なんだそれ、どういう意味?」

「別にー? そんくらい自分で考えればー?」

 村上はチュッパチャップスを咥えたままではっきりしない滑舌でそう言って、僕を置いて一人で校舎へと入っていった。

 ここだけの話、僕は中学時代、あの村上という女子と付き合っていたことがある。

 もちろん先に付き合おうと言ってきたのは村上のほうだった。僕からしてみれば村上も、今まで僕に告白してあえなく散っていった数ある乙女たちの中の一人でしかなかったはずなのだが、その頃はちょうど半年間付き合っていた彼女と別れたばかりで、つまり僕は傷心につけこまれた。

 村上は僕の三人目の彼女だった。最初は不意に開いてしまった穴を埋めるためだけに村上と付き合った。その穴がだいたい全部埋まった後も、僕は村上と付き合い続けた。村上はなんというか性格がドライで、今までの彼女のように積極的に何らかの身体的接触を求めてくることがなかった。そういうことをせずに済んで、その上付き合っているということで女除けもできるという、僕としてはものすごく心地よい関係性だった。そのまま僕たちは中学を卒業して、示し合わせて同じ高校に進学した。

 そして、高校一年生の十二月に、僕たちは別れた。約二年間も続いていた関係性が、そこで終わりを告げた。理由は僕がクリスマスのデートに寝坊したからだった。約二年間も続いた関係が、たった一回の寝坊がきっかけでこうも簡単に崩れてしまうものなのかと、そのときは感心すらしたものだけど。

 別れる際に特に盛大でけたたましい喧嘩を繰り広げたわけでもなく、『なんとなくお互いに冷めてきたし、このままずるずると関係を続けていても虚しいだけのような気がする』という雰囲気を共有したまま平和的に僕たちの別れ話は進行していったので、別れた後も先ほどのように頻繁に村上と話すことがある。

 しかし僕は、自意識過剰かもしれないが、まだ村上が僕に対して未練を抱えているんじゃないかという気がしてならなかった。

「朝日くんって、童貞?」

 放課後の図書室の、本棚に囲まれた壁際の隅で、僕は玉川さんに詰め寄られていた。

「いきなり何を言い出すのかなぁ……?」

 あれから玉川さんは、僕の前では逆に仏頂面を見せなくなった。教室にいるときは相も変わらず仏頂面で両耳にイヤホンをはめ込んで本を読んでいるが、こうして教室の外に出て僕と対面すると、玉川さんは平均的な女子高生らしい、玉川さんにしては明るめな表情になる。

「朝日くんは、女相手でも男相手でも、誰かを好きになったことはある?」

「………………あるよ」

「じゃあなんでわたしのことは好きにも嫌いにもならないの?」

 玉川さんがぐいぐいと顔面を近づけてくる。いくら僕が女慣れしているといっても、壁際に追い詰められて半ば拘束状態で詰め寄られたことはないので、少したじろいでしまう。

「ねぇ朝日くん。キス、しよっか。わたし、朝日くんとならキスしてもいい。朝日くんになら、わたし何されてもいいよ」

「あのねぇ玉川さん。あまり自分を安売りするものじゃあな……」

 言い終わる前に僕の唇は奪われていた。

 現在進行形で二股しているだけあってキスは上手かった。

 玉川さんは僕から口を離した後で、また僕の顔面を見る。

「うわ、やば。キスしても動かないの、この針」

「玉川さん、もう諦めてくれないかな。僕はこれ以上振り回されたくない」

「諦めないよ。わたしは朝日くんを攻略しないと気が済まないんだ」

 強い意志のこもった燃ゆる瞳でそう言われて、そして僕はもう一度唇を奪われた。確かに減るものではないが、そうやすやすと何度も奪われていいものではない。

「……二回やっても同じか」

 玉川さんは神妙にそう言って、やっと僕から離れた。僕はやっとスムーズに呼吸できるようになる。

「一緒に恋愛小説読もうよ。これ読んで、恋愛のことを勉強すれば、朝日くんの針が動き出すかもしれないでしょ?」

 僕は今まで数多の女の子から告白されているし、今まで合計で三人の女の子と交際関係にあったこともあるのだから、少なくとも男子高校生の平均よりは恋愛に関する知識は持っているつもりだけれど。

「ほら、これとか」

 玉川さんが手に取った本は、僕たちが小学五年生くらいの頃に流行った恋愛ものの携帯小説だった。馬鹿みたいなピンク色の表紙だった。玉川さんの隣の座席に座って本を開くと、文章が横書きで書いてあった。絵本を除けば、今まで読んできたどの本よりも平易な文章だった。

「いや、最初っから読んでもしょうがないでしょ」

 僕が素直に一ページ目から読み始めると玉川さんが横から本を奪って、ぱらぱらとページをめくりだした。「あった、ここ読んで」と言ってだいぶ終盤のページを開いて僕に本を返した。

 小説の中では、なにやら男が女に告白していた。しかし僕はこの小説の大部分を読み飛ばしてしまっているため、この男女のキャラクターとしてのバックボーンが何ひとつわからず、ただ月並みな言葉を適当に並べているだけにしか見えなかった。

「この場面におけるこの男の心情を四十字以内で述べよ(句読点も字数に含む)」

 玉川さんがわざと無感情な声で言った。僕も現代文のテストさながらに小説の文章を熟読して、しばし考え込む。しかしどれだけ考え込んでもそれらしい答えは組みあがらなかった。

「……この女の人生の半分が欲しい、とか?」

「ぶぶー。そもそも字数少なすぎー。答えは『この女と交際し、付随してあらゆる性交渉をする権利が欲しいという心情。』でしたー」

「え、つまり、この男の脳内には性欲しかないってこと?」

「そうだよ」

 玉川さんはあっけらかんと、その頷きに一切の重みを持たせずに、至って軽く頷いた。

「……それでいいのか? この二人は」

「いいんだよ。だってそれが普通でしょ? みんな、そういう目的があって好きな人と付き合ってるんだよ」

「……そ、それはあまりにも飛躍しすぎっていうか、みんながみんなそうじゃないだろうし……」

「ねぇ、もしかして朝日くんってめっちゃピュア?」

 僕の顔を覗き込むようにして、玉川さんはからかうような声色で言った。

「性欲だけが目的で付き合うことなんてざらにあるよ。愛のカタチなんて、人それぞれでいいんだから」

 愛のカタチなんて人それぞれで良い。

 そんな簡単なことだったのか。

 僕が今まで愛だと考えていたものは、数ある愛のカタチの中のひとつでしかなくて、そしてもっと言えばそれは他人の愛のカタチだった。僕の、僕なりの愛のカタチではなかった。そんなものどだい、理解できるはずがなかった。

 愛という言葉の意味は、僕自身が決めたっていい。

 恋愛なんて所詮性欲に起因するものだ、と思ったのなら、それを僕なりの愛のカタチにしてもいいのだ。

 性欲で恋愛したっていいんだ。

 それが僕の愛だ。

「あ、メーターめっちゃ右に振れた」

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ラブコメ恋愛短編集 ニシマ アキト @hinadori11

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