第五篇 おうじさまのおにいさま

 この世には、おもちゃを奪う側の人間と奪われる側の人間がいる。私はといえばもちろん後者側の人間だった。

 幼稚園児だった頃、いつも私は同じ組の気の強い女の子に何がしかを奪われていた。幼稚園児の私は絵本を読むのが大好きだったのだけれど、私が隅でちぢこまって絵本を読んでいると、気の強い女の子がゆっくりと私に近づいてきて、そして私を見下ろしながら「ねぇかなみちゃん、それかーして」と言う。私はその女の子の子供らしくない切れ長な瞳と、常にへの字になっている口元に、えもいわれぬ漠然とした恐怖を感じて、彼女に逆らえば私は大変な目に遭わされるに違いないと強迫的に思い込んでいた。私が目を逸らしながら震える手でおずおずと絵本を差し出すと、女の子の切れ長の瞳は細められ口角は不気味に吊り上げられて、彼女は腰を曲げて私の顔を覗き込んで「ありがとう」といやに低い声で言って、そのまま立ち去っていくのだった。

 私はまだあの絵本を読み終えていなかった。いや、既に何度も読み返しているお気に入りの絵本だから最後までの展開はもう完璧に覚えてしまっているのだけれど、今日はまだ一度も読み終えていなかった。

 それでも私は彼女の要求に従った。従わざるを得なかった。

 彼女は、ごく少数の人間しか持っていない何か超大なものを内側に持っている。私のような凡庸で気弱な人間は、その超大なものを持つ人間に逆らうことはできないと、本能で悟っていた。

 彼女に何か、身体的に強力な部分があるわけではない。だけれど私は彼女に屈服してしまう。

 彼女は生まれながらにして超大な何かを内側に持っている。私は持っていない。

 だから彼女は人からおもちゃを奪うことができて、私は奪われるだけだ。

 園内での力関係は先天的なものがすべてだった。

 でも、先天的に私が持っているものといえば、いくらこの私でも、あるにはある。

 お兄ちゃんだ。

「かなみー!」

 みんなにはお兄ちゃんがいないかもしれないけれど、私にはお兄ちゃんがいる。

 小学生のお兄ちゃんは週に数回、お母さんと連れたって私のことを迎えに来る。基本はお母さんが一人で迎えに来る。

 お兄ちゃんの顔を見つけて私がぱっと立ち上がると、お兄ちゃんは乱雑に足を振って靴を脱ぎ捨てて、ずかずかと幼稚園の屋内に上がり込んできた。

 そして、さっき私が絵本を貸した女の子に近づいて行って、何事かを早口でまくしたて始めた。女の子はうろたえながらも「でも、ちゃんと貸してって言ったし……」とかぶつくさ言っていたが、やがて観念してお兄ちゃんに絵本を差し出した。

 それからお兄ちゃんは意気揚々と私のほうにやってきて、「ほら、これ読みたいんだろ」と私に絵本を渡してくれる。

 私にとってのお兄ちゃんは、唯一無二のヒーローだった。

 そして、私の大好きな人、だった。



 小学校に入れば自然と友達ができるものだと思っていた。甘い考えだった。

 友達ができないまま進級して、私は今年から小学二年生になってしまった。クラス替えはないから、これからの一年間で友達ができる見込みはほぼゼロ。

 同級生の誰ともコミュニケーションを取らないまま、ただ漫然と学校と家の往復を繰り返していたら、あっという間に一学期が終わって夏休みに入った。小学校という場所はずっと口を引き結んで過ごしていても案外なんとかなるらしい。

「ひま、だなぁ……」

 夏休みの宿題は最初の二日間で全部終わってしまった。もっと時間を潰せるかと思っていたけれど、誤算だった。

 お兄ちゃんは今日もどこかへ遊びに行っていた。お兄ちゃんとは毎朝一緒に登校しているのだけれど、夏休みになると登校しなくなってしまうから必然的にお兄ちゃんと一緒にいる時間が減って、だから私はこういう夏休みとか冬休みとか春休みがあまり好きではなかった。

 八月に入ってからここ数日間は、ずっとベットの上に転がって扇風機の風を一身に浴びるだけで時間を潰していた。家にあった本はあらかた読み終わってしまったし、読書以外に何かやりたいことがあるわけでもない。かといって両親に新しい本を買うようにお願いするのも、なんだか気が進まない。私はついにお兄ちゃん以外の家族とのコミュニケーションさえ覚束なくなってきてしまった。

 いや違う。コミュニケーションが覚束ないわけではない。夏休みなのに家から一歩も外に出ようとしない八歳児の娘を両親が心配していることを私はなんとなく察していて、それなのに私が新しい本を買ってくれなんて言ったら両親はより一層私を心配して何か小言を言ってくるに違いないから、私は両親とあまり口を聞きたくないのだ。

 さっきお昼ごはんのそうめんを食べるためにリビングへ降りたときも、お母さんは何か言いたげな目で私の顔とテレビ画面を交互に見つめていた。私は徹底的にお母さんから目を逸らし続けて急いでそうめんを胃に流し込んで、逃げるように自分の部屋に戻って、また午前と同じく扇風機の風にあたっている。

 私が小学校に入学するタイミングで私たち一家はマンションの一室から一軒家に引っ越して、贅沢にも子供一人に一部屋ずつ部屋が割り当てられたために、以前までは同じ部屋で一緒に寝ていたお兄ちゃんと私は部屋が分かれてしまった。眠れない夜は、こっそりお兄ちゃんの部屋に侵入してお兄ちゃんのベッドに潜ろうかと画策することもあるけれど、朝に目覚めたときの恥ずかしさを想像してしまっていつもなかなか踏み出せない。

 それに、数カ月前くらいからお兄ちゃんの態度がなんだか素っ気ない。

 学校に登校している最中も、間が増えたというか沈黙が増えたというか、会話が減った。なぜならお兄ちゃんから話題を振ってくることがほとんどなくなったから。私は学校に友達が一人もいないためになかなか話の種を用意しにくから、お兄ちゃんから何か話してくれないと全然会話が広がらないのだ。

 登校しているときに限らず、私がお兄ちゃんに話しかけても「ああ」とか「うん」とか短い返事しか返ってこないし、私がそばで話している途中なのに突然ゲームをやり始めたりだとか、お兄ちゃんは私に一切の興味がないかのような態度をとってくる。

 夏休みに入ってからは、お兄ちゃんは毎日昼になると携帯ゲーム機を持って勢いよく玄関の扉を開けて、とても楽しそうな様子でどこかへ走り去っていく。そしていつも夕方の六時まで家に帰ってこない。私はその時間までずっと扇風機の風にあたっているだけ。

 だから、まあ、つまり、お兄ちゃんが構ってくれなくて寂しい、ということ。

 お兄ちゃんの年齢からしてみれば、二つ歳下の妹のことなどどうでもよく感じてしまうのだろうか。私のほうは、お兄ちゃんを中心に私の世界が回っているようなものだから、お兄ちゃんのことがどうでもよくなる日なんて一生来ないのだけれど。

 今日もお兄ちゃんはどこかへ遊びに行っていて、お兄ちゃんの部屋はまるで私の心の内のように寂し気な雰囲気がある。あまり家にいないせいなのかそれほど散らかっておらず、まだ宿題に手を付けていないのか机の上もまっさらで綺麗だった。

「ひまだあーーーーーーー」

 扇風機のそばまで寄って間延びした声を出して宇宙人ごっこをやり始めるくらいには暇だった。ずっとこんなことしていたらまたお母さんに心配されるかな。

 それからは、トイレに行ったりリビングで麦茶を飲んだり意味もなく家の中を歩き回ったりベッドに寝転がって天井を眺めたりしていたら、ようやっと六時になって、まもなくしてお兄ちゃんが帰ってきた。

 下の階から玄関の扉が開く音が聞こえて、嬉しさで心がぴょんと跳ねるけれどすぐにお兄ちゃんの顔を見に行ったりはしない。お兄ちゃんの部屋は私の部屋の隣だから、部屋の扉を全開にしておけば、必然的に廊下を通るお兄ちゃんの姿を確認できるし、そこでお兄ちゃんと目が合えば他愛ない会話を展開することもできる。

 昼に家を出て行ったときとは打って変わってだるそうな歩調の足音が近づいてきて、そしてお兄ちゃんは私の部屋の前で足を止めた。私はベッドに仰向けで寝転んでいた。

「おい、かなみ」

 呼ばれて私は起き上がる。夏休みに入ってから初めてお兄ちゃんに名前を呼ばれた気がする。

「な、なに? お兄ちゃん」

「お前、友達いないの?」

 怖いくらいの無表情で、お兄ちゃんは真剣な響きを伴った声で訊いてきた。

「……え、えと、お母さんに何か言われた?」

「いや別に。何も言われてないけど」

 つまりはただ単純に、お兄ちゃん自身が私の友達の数を気にしているということ?

「で、お前学校に友達いんの?」

「……い、いるよ? ひと、ふ、二人、くらい」

「じゃあなんでそいつらと遊びに行かないんだよ」

「……お、女の子は、あんまりそういう感じじゃない、し」

「そんなわけないだろ」

 ふっと軽く笑いながら、お兄ちゃんは私の部屋に入ってきた。そしてベッドの上に座って、私と向かい合う。

「俺には嘘つかなくていいよ」

 薄い笑みと優しそうな目で私を見て、お兄ちゃんは言う。

「…………え、えと、友達は、その……、いない、よ」

「だよなぁ。だと思った」

 また息を吐くようにふっと軽く笑って、お兄ちゃんは言った。何かものすごく恥ずかしいことをしているような気分になってくる。

「だからさ、明日俺とどっか遊びに行くか」

「え。い、いいの?」

「いいんだよ。妹の退屈を紛らわしてやるのも兄の役目だからな」

 昨日までのお兄ちゃんの素っ気ない態度が全て幻覚だったのではないかと疑ってしまうほど、今日のお兄ちゃんはなぜか妙に積極的だった。

 急にどうしたんだろう。いやまあ、悪いことではないんだけど。

「かなみはどこ行きたい?」

「え、え、えと、うーん、どこでもいい、かな」

「なんだよそれ」

 本当にどこでもいい。お兄ちゃんと一緒に行けるなら私はどこへだって行く。お兄ちゃんと一緒に行けばどこだって特別な場所になる。

「まあ、いいか。場所なんて決めてなくても。じゃ、明日な。どうせ予定ないんだろ」

 お兄ちゃんは浅黒く日焼けした手で私の頭を軽く撫でて、落ち着いた足取りで私の部屋から出て行った。

 私はそのまま、お兄ちゃんの後ろ手に閉じられた扉を見つめる。

 何が起こったのかよくわからなかった。

 お兄ちゃんに撫でられた髪の毛を今度は自分で触る。お兄ちゃんの温もりは特に感じられない。

 お兄ちゃんと二人で遊びに行くことになった。

 二人っていうのは、本当に二人だ。お父さんやお母さんはおそらくついてこない。

 なんで、急に。

 どういう心変わりだろう。

 お兄ちゃんもお兄ちゃんなりに、私というどうしようもない妹のことを心配してくれていたのか。

 お兄ちゃんは私のことを心配してくれるんだ。

 私がどうしようもない妹であれば、お兄ちゃんはちゃんと私のことを心配してくれる。

 夜になってベッドで眠るまで、私はお兄ちゃんの顔をまともに見れなかった。



 自由研究のテーマが思い付かないと悩み始めてからはや三日が経過した。

 状況は三日前から依然として何ひとつ変わらず、私は学習机の椅子に座って腕を組みながらぐるぐる回り続けている。

 夏休みだから自由研究をしろと言われても、一介の小学五年生に過ぎない私に研究したいテーマなんてあるはずがない。そこまで身の回りの世界に興味を持ちながら生きていない。

 三日間考えて思いつかないものはもういつまで経っても絶対に思いつくことがないような気がしてきた。

 こうして自分の部屋でぐずぐずしていても何も解決しない。

 お兄ちゃんを頼ることにした。

 隣の部屋のお兄ちゃんの部屋を覗き込んでみると、お兄ちゃんは体操着のままベッドに仰向けになってスマホを眺めていた。

 中学生になったお兄ちゃんは、夏休みに入るとほとんど毎日朝から部活のために学校に行って、夕方になるとぐったりした様子で帰ってきて、そのままずっと自分の部屋のベッドで寝っ転がっている。

 お兄ちゃんは一瞬だけ目線をこちらに寄越して、それからまたスマホに目を向けた。

「ね、ねえ、お兄ちゃん」

「なに?」

 首筋をぽりぽり掻きながら、お兄ちゃんはだるそうに答えた。

「自由研究のテーマ、何かない?」

「はぁ? なんだそれ」

「学校の夏休みの宿題で、なかなか思いつかなくて」

「それくらい自分で考えろよ」

「自分で考えても解決しなかったからお兄ちゃんに相談してるんだけど」

 そこでお兄ちゃんは上体を起こして、後頭部をぽりぽり掻いた。

「別に、深く考えなくても、何でもいいだろあんなの。ほら、雑貨屋でそういうキット買ってきたりすれば」

「あー」

 その手があったか。そうか、お金で解決しちゃえばいいんだ。

「でも何買えばいいかな」

「そんなの自分で決めろよ……」

「ていうかお兄ちゃんお金貸してー」

 お兄ちゃんにじとーっとした目を向けられる。

「ホントに世話のかかる妹だなお前……」

「そんなの今更でしょ?」

「そうだけどさ……。まぁ、いちいち反抗してくる生意気な妹よりはマシだけど」

 なんだ、それ。私がお兄ちゃんに生意気な口をきくわけがないのに。

 お兄ちゃんは一度大きく口を開けてあくびをして、私に背を向けるような体勢でまた寝転んだ。

「自由研究ってことなら、母さんがお小遣いくれるだろ。それで明日買ってくればいい」

「お兄ちゃんもう寝るの? ご飯は? お風呂は?」

「……後で」

 中学校生活っていうのは晩御飯を食べる気力が湧かないほど疲れるくらいに大変な生活らしい。二年後が憂鬱だな。

 でも、中学校に入れば、一年だけだけどまたお兄ちゃんと同じ学校に通うことができるし、やっぱり全然憂鬱じゃない。それに中学校では自由研究なんて厄介な宿題はないし、良いことづくめじゃないか。

 お兄ちゃんと二人で制服を着て朝の通学路を歩くその構図を想像するだけで無意識に口角が上がってしまう。

 お兄ちゃんのことを先輩と呼べるその日を心待ちにしながら、私は母親にお小遣いを請求しに階段を下りた。



 中学校からの帰り道に、駅前で偶然にもお兄ちゃんに遭遇した。というのは真っ赤な嘘で、今日はいつもより早く授業が終わったので駅前でお兄ちゃんが電車から降りてくるのを待ち伏せていた。普段であれば、中学校から駅までかなりの距離があるため、高校から電車で帰ってくるお兄ちゃんを待ち伏せすることはできない。虚弱な私が全力で走ったところで到底間に合わない。

「お前、こんなとこで何やってんの」

 駅前のベンチで文庫本を読んでいたところをお兄ちゃんに声をかけられ、私は「あ、お兄ちゃん」と驚いた風な演技をしながら顔を上げた。

「あー、いや、本屋さんに寄っていこうと思って」

「それで学校帰りにこんなところまで歩いてきたのか?」

「う、うん」

「じゃあベンチに座ってる意味は?」

「え、えと、ちょっと一休みしようと思って」

「……ふうん、そうか。じゃ、一緒に帰るか」

 納得したようなしてないような無表情でお兄ちゃんは言って、それから踵を返して歩き出した。私は慌てて文庫本を鞄にしまって、お兄ちゃんに追いつく。

 セーラー服の私とブレザー制服のお兄ちゃんが二人で歩いている構図はなんだかちぐはぐで、傍から見てもやはりカップルというより兄妹に映るのかもしれない。髪型も中学校の校則の範囲内だから仕方ないけれど地味だし、私はお兄ちゃんと釣り合うほど大人びているように見えないだろう。

 それでもやっぱり、こうしてお兄ちゃんと二人で隣合って歩くのは幸せだった。お兄ちゃんが私に歩調を合わせてくれているというその事実だけで、とても心が温かくなる。

 私がお兄ちゃんに抱いている感情は家族愛なのか兄弟愛なのか、はたまたそれらとは全く別の感情なのか、私にはまだ判別がついていない。マイナスな感情ではないのは確実だけれど、その正体はまだ掴めていない。

「そういえばお前って昔から、本読むの好きだったよな」

「うん、そうだね」

「何か理由とかあんの?」

「理由?」

 理由、理由……。強いて言うなら、そこにあった本を読んでみたら面白かったから、他の本も読んでみたくなって、そして今に至る、という感じ。つまり、そこに本があったから、私は本が好きになったというだけ。

 理由として弱すぎるし面白くないな。でも、何かを好きになることにいちいち確固とした理由があるものだろうか。

 私のそばにそれがあったから。これで十分な理由にならないのか。

「うーん、しっかりした理由は特にないかな。何かを好きになることに、いちいち理由なんていらないでしょ?」

「ふうん。まあ確かに、何か理由があって読んでるようには見えないもんな、お前」

 確かに私は理由もなく読書をしている。昔からの癖みたいなもので、生活ルーティーンの中に読書が組み込まれているから本を読んでいるというだけだ。

 何かを好きになることにちゃんとひとつの理由があるなんて、人間はそこまで機械的な生き物ではない。気が付けば理由もなく何かを好きになっていて、その好きの気持ちは自分の意志では制御できない。人間の感情は全く無秩序で不便だ。

 なんて風に、小説を読んでいる影響なのか無意識に小難しい思索を広げてしまうのが私の悪い癖だった。

「…………」

 隣を歩くお兄ちゃんを見上げる。昔から見慣れた姿。生まれたときからずっと私のそばにあった姿。

 この悪癖のせいで、本当は私は自分の気持ちに気付いてしまっている。小説を読んで色んな人の心を知れば知るほど、自分の心の解像度が上がっていって、気付いてはいけない自分の気持ちまで気付いてしまう。最初から気付いていなかったことにして、そういう風に自己暗示したかったけど、やっぱりそんなことできない。この気持ちは、そんな風に制御できるものじゃないのだ。

 でも、この気持ちはできる限り抑え込まなければならない。この気持ちは抱いてはいけないものだから。今すぐにでも捨て去らなきゃいけない気持ちだから。

「なんだよ、俺の顔じっと見つめて」

「……ううん、なんでもないよ、別に」

 なんでもない。本当に、なんでもない。



 高校に入ってから、たった一人だけ、私にも友達ができた。 

 図書委員の女の子だった。私が毎回同じ作家の本ばかり図書室から借りていくものだから、ある日その子は、図書室のカウンター越しに声をかけてきた。聞けば彼女も私が毎回借りていた本の作家の大ファンで、それから私たちはすぐに意気投合した。

 なにせ彼女は性格が良い。人の悪口なんて絶対に言わないし、愛想が良いし、言葉遣いが綺麗だし、読書趣味の割にプライドが屈折していないし、常に人を傷つけないように行動を選択して生きているのが言外に伝わってくる。今までの人生において誰ともそれほど深く関わってこなかった私が、毎日一緒にお昼を食べて毎日一緒に帰路を共にするほど彼女に深く入れ込んでいるのも、彼女の魅力的な性格を考えれば仕方のないことである。

 そんな、高校一年生にしてやっと学校に通うのがそれほど苦ではなくなってきたある日。

 数学の授業に飽きて、ふと窓のほうに視線を向けると、雨の雫がぽつぽつと滴っていた。そういえば今日は天気予報を確認するのを忘れていた。傘を持ってきていない。先生にばれないように机の下でスマホを操作して天気予報を確認すると、どうやらこの雨は夜まで降り続けるらしい。つまり、私が下校する頃にも雨はまだ降り続いているということ。

 でも大丈夫。こういう時のために私は受験勉強を頑張って、やっとの思いでお兄ちゃんと同じ高校に入ったのだ。お兄ちゃんはなぜか常に折り畳み傘を二本携帯している。私は荷物が重くなるからそんなこと絶対にしないけれど、心配性なのか何なのか、とにかくお兄ちゃんは折り畳み傘を余分に一本持っている。私には一生理解できないであろうお兄ちゃんの謎めいた部分。

 そういうわけで、昼休みになってから私はお兄ちゃんを呼び出した。

「お前、なんでこんな変なところで飯食ってんの?」

 言いながら、お兄ちゃんは私の隣に座っている例の図書委員ちゃんに品定めをするような視線を一瞬だけ向けて、また私に視線を戻した。

「べ、別に、そんな変な所じゃないでしょ」

 私たちはいつも、渡り廊下の壁際にあるちょっとした座れるスペースでお昼ご飯を食べている。確かに今この渡り廊下には誰もいないけれど、他の階の渡り廊下には私たちと同じような人が何人かいるだろうし、別に変なわけではないと思うけれど。

「普通教室で食べるだろ」

 教室で食べるわけにはいかないのだ。図書委員ちゃんと私はクラスが別だから。私が教室のざわついた雰囲気の中で一人孤立した状態で半ば焦りながらご飯を食べなければならなくなってしまうし、それに、図書委員ちゃんとおしゃべりする時間をできるだけ確保したいのだ。

「まあいいけどさ。はい、傘」

「あ、ありがとう」

 お兄ちゃんの手に触れないように、柄の部分ではなく傘布の部分を握って、傘を受け取る。

 最近の私は遠慮してる。

「じゃあ、俺行くわ」

「うん。また、ね」

 お兄ちゃんはさっさと踵を返して、早足で階段の方へと消えていった。私はお兄ちゃんに見えていないことをわかりながら小さく手を振っていた。

「……お兄さんと仲良いんだね」

 一部始終を静観していた図書委員ちゃんが、微苦笑を浮かべながら言った。

「そう、なのかな? 自分じゃよくわかんないけど……」

「私には仲良さそうに見えたよ」

「そ、そっか。えへへ」

 我ながら薄っぺらい会話。だけれどそれが心地いい。

「ねぇ、かなみちゃんはさ、お兄さんのこと好きなの?」

「えっ? す、好きって?」

「いや、別に変な意味とかじゃないんだけど、さっきの様子見てたらなんか気になっちゃって」

「……お兄ちゃんのことは、まあ、き、嫌いじゃない、よ」

「そうなんだ。……ごめん、答えたくなかったら無理に答えてくれなくてもよかったんだけど」

 お兄ちゃんのことは嫌いじゃない。

 嘘は言っていないはずだ。

 今まで誰ともお兄ちゃんの話をしたことがなかったからか、さっきからずっと心臓が嫌なリズムを刻んでいる。頭の血管が激しく脈動しているのがわかる。

 なんだか妙に不安になる。急に大声を出したい衝動に駆られる。

 駄目だ。一旦深呼吸しよう。

「でも、それってさ、……その、辛くない?」

「え?」

 辛い?

 私が?

「あー、いや、ごめん。今の、忘れて。ホントにごめん。こんなこと言うべきじゃなかったよね」

 図書委員ちゃんが珍しく狼狽えていた。頬を引きつらせて、困ったような笑顔を浮かべている。

 この人は、私の気持ちがわかるのか。

 私の今の状況を察して、そしてその状況下にいる私の気持ちも察しているのか。

 辛くない? って。

 そりゃあ、辛いよ。こんなの辛いに決まってる。胃の中を引っ搔きまわしたくなるようなもどかしさにずっと耐えなければならない。そしてそのもどかしさが解消されるときは未来永劫やってこない。

 でも、辛いからっていうだけで簡単にこの気持ちを捨てられるのなら、私はとっくの昔にこの気持ちを捨てているだろう。

 この気持ちはそう簡単に捨てられるものじゃないから。辛くても辛くても、それでもずっと手放すことができないこの気持ち。

 厄介だ。できることなら今すぐにでも捨て去りたいのだ。こんな気持ちをいつまでも持っていたってただ辛いだけで、何も生まれない。

 それでも私は。何も生まなくて、全てが無駄で、ただ自分が苦い思いをすることになるだけだとわかっていながら、それでも私はこの気持ちを抱き続ける。

 誰が悪いわけじゃない。強いて言うなら私が悪いのかもしれない。

 私が幼い頃に恋という呪いを背負ってしまったから、私はこれまでもこれからも、ずっとずっと辛い思いを噛みしめ続けるんだ。



 受験生のお兄ちゃんを映画館に誘った。「気分転換に一日くらい遊んでも良いでしょ?」と言ったら、案外素直に了承してくれた。お兄ちゃんも表には出していないだけで、内では相当ストレスが鬱積していたのかもしれない。

「え、これ観るのか?」

 お兄ちゃんが遠慮がちに、苦虫を噛んだような顔で言う。

「そうだよ」

「これって恋愛映画、だろ?」

「そうだね」

「その、いいのか?」

「なにが?」

「いや、お前がいいなら、いいんだけどさ」

 お兄ちゃんが納得したようなので、私は機械をすらすら操作して座席指定を行う。座席はもちろんお兄ちゃんと隣り合わせ。二人分の料金を入れると、ほどなくして二枚のチケットが吐き出されてきた。

 それから幾分かして私たちは劇場内へと入り、しばらくするとあたりが暗転し始める。

 映画の内容は、はっきり言ってあまり面白くなかった。ただ人気な俳優を見栄え良く見せるためだけに作られたような出来だった。興行収入を上げなければいけないのはわかるけれど、もう少し原作リスペクトを盛り込まないと、内容が薄すぎてしまう。とまあこんな感じに、一応それなりの数の小説を読んでいるので、私の目は素人にしてはまあまあ肥えている。

 いや、そもそも映画の内容なんて、はなからどうでもいいのだ。

 暗闇の中で、隣のお兄ちゃんに手を伸ばす。

 お兄ちゃんの手の甲に、上から覆いかぶさるように、私の手をそっと乗せる。骨ばっていて少し温かい。お兄ちゃんはそのまま手を動かさない。何も言わない。

 怖くてお兄ちゃんの顔が見られなかった。

 私の限界はここまでだった。暗闇だからといって何か特別なことができるわけではなかった。ただ手を触れあうのが私の限界だった。

 でもそれでいい。今日の本命はここじゃないから。これからもっとすごいことをするんだから。

 今日でこの気持ちに終止符を打つって決めたんだから。

 映画のエンドロールが流れ終わって立ち上がるとき、私は自然な流れでお兄ちゃんとそのまま手を繋いだ。いや、それが自然であったかどうかは正直よくわからない。

「ねえ、私、これから行きたいところがあるんだけど」

「おー、どこだ?」

 ナチュラルに私と手を繋いでいるのが恥ずかしいのか、お兄ちゃんはさっきからずっと私と目を合わせない。

「行ってからのお楽しみ」

「……なんだよ、それ」

 たぶんお兄ちゃんは無理をしている。そして私もかなり無理をしている。

 でもお兄ちゃんにはこれくらい耐えてもらわないと。今日が最後なのだから。今日が終われば、もうお兄ちゃんに世話をかけさせるようなことはしないから。

 映画館を出て、二人で手を繋ぎながら並んで夜の街を歩いた。喉がちぎれそうなくらい気まずい沈黙が続いた。

 たぶんお兄ちゃんは、私がこれから何をしようとしているのか、大体の見当は付いているのだろう。お兄ちゃんが既に私の気持ちに気付いていることは、私も察していた。それでもいい。むしろそのほうが都合がいい。私はお兄ちゃんを驚かせたいわけではなく、ただお兄ちゃんにこの呪いを解いてほしいだけだから。

「……はい、着いたよ」

「え、ここって……」

 お兄ちゃんが生唾を飲んだのがわかった。さすがにここに来るとは予想外だったか。

 私がお兄ちゃんを連れてきたのは、ホテルだ。ホテルっていうのは単なるビジネスホテルだったり旅館だったりするわけではなく、まあ、そういうホテルだ。私の気持ちを清算するのにふさわしいホテルということ。

「高校生が入っていいのか?」

「だから、大学生のふりしてよ」

 お兄ちゃんは露骨に眉をひそめて、それから大きく息を吐いた。

「よし。じゃあ、行くか」

 受付は案外すんなり通過できた。客の年齢などいちいち確認していないのか、私たちの風貌が疑いようもないくらいに成年以上に見えたのか。

 兎にも角にも、私たちは部屋に着いた。部屋に着いてしまった。二人だけの世界に入ってしまった。

 部屋の中には重苦しい静寂が降りていた。

 さっきまで手を握ることにもいちいち勇気を振り絞っていたというのに、いきなりお兄ちゃんをホテルに連れ込むとは、この短時間でとんでもない急成長をしたものである。いや違う成長したんじゃない。本来の私ならできないことを無理やりやっているだけだ。十六年間も私の心を蝕み続けてきたこの気持ちを消し飛ばすために。私は無理やり不可能を可能にしている。

「……なんでこんなところ、連れてきたんだよ」

 お兄ちゃんは頭を掻きながらバツが悪そうに言った。つないでいた手はいつの間にか離れていた。

「と、とりあえず、座ろっか」

「座るって、どこに?」

「……ベッドの上、とか?」

「あー……」

 私は靴を脱いで、部屋の中央にある大きいベッドの上に乗った。お兄ちゃんも私と向かい合うようにベッドの上に乗る。

 ベッドの上であぐらをかいて、お兄ちゃんはどこか不安そうな目で私を見つめる。

「それで、お前はこんなところに来て、何がしたい」

 一度、目を閉じる。深呼吸をする。

「ッ…………」

 口を開こうとした瞬間、胃の底から黒いヘドロのようなものがものすごい勢いで逆流してきて、喉が詰まって声が出せなくなる。

 ……本当に、この気持ちをお兄ちゃんに伝えてもいいのか?

 今まで誰にも言ったのことないこの気持ち。全世界で私以外に誰も知らないこの気持ち。お兄ちゃんはこの気持ちを察しているかもしれないけれど、それはあくまでまだ察しているというだけだ。私がそれを言わなければ、お兄ちゃんの勘違いだった、ということで済ますことができる。

 この気持ちを口にして、そして明日からお兄ちゃんが私と口を聞いてくれなくなったらどうしよう。このことを私たちの両親が知って、それをきっかけに家庭崩壊が起きるようなことがあったらどうしよう。

 この気持ちをお兄ちゃんに伝えても、ただお兄ちゃんが迷惑を被るだけなんじゃないか。

 私が悪いんだ。私がこんな、おかしくて非常識な気持ちを抱いているから。そんなおかしくて非常識な気持ちを、自分のエゴで清算しようとするから。自分がこの呪いから逃れるために、お兄ちゃんへの迷惑も厭わずに。

 どうして私はこんなおかしな人間なのだろう。

 どうして私はこんな歪な恋心を抱いてしまったのだろう。

 自分からこの恋を望んだわけではない。こんなおかしな気持ちを自分から進んで抱く人なんていない。

 それでもやっぱり、私が悪いんだろう。

「……泣いてるのか?」

 私は服の袖で乱暴に目元を拭った。そして、涙のせいで輪郭がぼやけた視界の中で、お兄ちゃんの瞳を射抜くように見つめる。

 私は歯をくいしばった。

 そして、とびかかるようにして勢いよくお兄ちゃんを押し倒した。高校一年の女と高校三年の男ではかなりの体格差があるはずなのに、お兄ちゃんの身体は存外すんなりと倒れ込んだ。

「どうし、たんだよ」

 お兄ちゃんは驚いたように目を見開いている。

 腕立ての体勢のまま、私は激しく口で呼吸する。思考回路は既に焼き切れて、脳内は真っ白だった。

 何も考えられない。いや、何も考えられないからこそかえって素直な気持ちが言えるのかもしれない。

「あのね、お兄ちゃん」

 声量の調節ができない。あともう少しで理性を手放してしまいそうになる。

「私ずっと、お兄ちゃんのことが」

 全身が強張る。手先がぴりぴり痺れる。もっと多く酸素を取り入れないと意識をなくしてしまいそうだ。血液がものすごい速さで体内を循環しているのがわかる。

 一度、ぎゅっと目を閉じた。

 お兄ちゃんの頬の上に、私の涙がぽたぽたと落ちていた。

「ずっとお兄ちゃんのことが、好きだった」

 お兄ちゃんは驚いた表情なのか、それとも無表情なのか、よくわからない。

「好きだった。お兄ちゃんのことが、十年以上もずっと、好きだった」

「…………そう、か」

 女の子に告白されて「そうか」って何だよ。もっと何かリアクションあるだろ。一切感情が揺れてないのか。

「だから、なんとかして」

「……何、を?」

「お兄ちゃんが、私のこの気持ちを、なんとかして」

 お兄ちゃんの表情が、ふっと緩んだ。

「………………俺がお前を好きになることはできないよ」

 その瞬間、私は力尽きて、そのままお兄ちゃんの上に覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。

 お兄ちゃんと抱き合うような体勢になる。

 お兄ちゃんは私の頭に手を回して、ぽんぽんと軽く叩いた。

 そのまま私は、お兄ちゃんの温かい体温の中で、意識を手放した。



 結局、私の呪いが解けることはなかった。

 お兄ちゃんに私のこの気持ちを伝えても、そしてお兄ちゃんに拒絶されても、それでも私の中の恋心は潰えなかった。

 あの夜の出来事が無駄だったとは思わないけれど、それでも、あの夜の出来事があってもなくても私の人生はそれほど変わらなかったわけだ。

 ずっと私はこの恋心に縛られて生きていかなければならないんだ。

 この歪な恋の呪いをずっと抱えたまま、私はこれから先も生きていかなければならない。

 しかし幸いにして、あの出来事の後でお兄ちゃんが口を聞いてくれなくなったり、あるいは他に考えうるようなトラブルが起こったりはしなかった。あの後も、私はお兄ちゃんと同じ屋根の下で普通に暮らしている。若干の気まずさは残るけれども。

「なあ、今から家に彼女呼んでもいいか?」

 日曜日の昼間だった。自分の部屋で受験勉強をしていたつもりが天井を仰いでぼんやりしていた私に、お兄ちゃんは突然とんでもない文言を浴びせかけた。

「は……? か、かのじょ?」

「そう彼女。恋人。マイハニー」

 表情一つ変えずにこともなげに言うお兄ちゃん。

 私はぽかんと口が開いてしまった。

「……お兄ちゃん、か、彼女、いたの?」

「いるよ。あれ、言ってなかったっけ。けっこう前から付き合ってるんだけど」

 大学生になったお兄ちゃんは、なんだか一皮むけたような雰囲気があった。常に大人に抑圧されている子供ではなく、思慮分別があり何でも自分で責任を持つ大人になったような。心なしか背も伸びたように見えるし。

 でもまさか、大人びて見えるようになったのは、恋人ができたから?

 いや確かに、お兄ちゃんは恋人ができても何らおかしくはない風貌と性格の持ち主だけれど。私はずっと、お兄ちゃんには一生恋人はできないだろうと思っていたのに。

 いや、思っていたんじゃなくて、それはただの私の願いか。

「それで、今から彼女が家に来るんだけど、いいか?」

「……な、なにが?」

「ほら、初対面だし。お前初対面の人苦手だろ?」

 そりゃあ、苦手だけど。お兄ちゃんの恋人なんてもっと苦手だ。

「……私の部屋に入ってこないんなら、いいよ。別に」

 お兄ちゃんは私から目を逸らした。

「そうか」

 言って、お兄ちゃんは私の部屋のドアを閉めた。

 その数分後、見知らぬ女が私の部屋のドアを開けた。

 私の部屋に入ってくるなって言ったのに。

「あら、あなたが噂の妹さん?」

 ペンをノートの上に走らせていたら、突然部屋のドアが開いたのでそちらを向くと、柔和な笑みをたたえた長い黒髪の女がそこにいた。

 その瞬間に私の表情筋が歪む。背中が急速に熱くなる。

「こ、こんにちは……」

 第一印象は大事なので、とりあえず挨拶をしておいた。私から見たこの女の第一印象は、お兄ちゃんの彼女であるというその事実だけで最悪となっているが。

「こんにちは~。私たちより二歳下ってことは高校三年生だから、受験勉強してるのかな?」

 その「私たち」の中には当然、お兄ちゃんも含まれているのだろう。

「え、ええ、まあ、はい、そうですねー……」

 今あなたのせいでその受験勉強が中断されてしまいましたがね早く出て行ってくれませんかねこのクソアマ、とは言わないあたり、私は性格が良い。

「ねえ、妹ちゃんはさ、お兄さんのこと好き?」

 いつかも同じ質問をされたけれど、その時とは違って目の前の女には全く遠慮した様子がない。

「……それを訊いてどうするんですか」

「どうもしないよ~。照れてるのかな?」

 言いながら、女は徐々に私との距離を詰めてくる。そして腰を屈めて、私の顔を下から覗き込むように見た。

「大学生になると高校生が異様に子供っぽく見えるんだよね~。かわいいなぁ~。私も妹欲しいなぁ~」

 それは言外に、お兄ちゃんと結婚して私を義妹にしたいと主張しているのか。なんだその悪夢は。

「それでそれで、妹ちゃんはお兄さんのこと好きなの?」

「……どちらかといえば好き、ですかね」

「私もキミのお兄さんのこと好き~」

 突然目の前の女の顔面を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、強く拳を握るだけで抑えた。危ない危ない。確かにこの女は殴られても文句は言えないような振る舞いを続けているが、人を殴るなんて女としてはしたない。仮に私が男だったらもうとっくにこの女を三発は殴っているところだろう。

「お兄さんのこと好きな者同士、これからよろしくね、妹ちゃん」

 女が握手を求めるように手を差し出してきた。

「よ、よろしくっすー……」

 私が手を差し出すと女が握ってきたので、私は女の手を強く握り返した。女の手の関節がそれぞれ接触してゴリゴリ音が鳴っている。

「おお、腕細いのに意外と力強いんだね」

 微苦笑で言う女。わざと力入れたに決まってるだろ。

「ねえ、改めてゆっくり話したいからさ、今度二人でどっか行こうよ」

 私はあなたとこれ以上個人接触したくないのですが。まずその眩しい笑顔を私に向けるのをやめてくれませんかね。

「あー、はははは」

 どうやってその誘いを断ればいいのか分からなかったので、曖昧に笑って話を流そうと試みた。

「妹ちゃんはどっか行きたいとこある? 女子高生ならやっぱりタピオカとか?」

 私の曖昧な笑いを肯定と受け取ったらしい女がぐいぐいと話を進めようとしてくる。女子高生の認識が古すぎないか大学生。

「実は私ずっと妹って存在に憧れてたんだよねぇ~。だから妹ちゃんとはもっと仲良くなりたいんだよ」

 そろそろ愛想笑いを維持するのも限界に近付いてきた。額に冷や汗が滲み始める。視界がだんだん暗くなってきた。

 この女は、ただの初対面の人ではないのだ。なんていったってあのお兄ちゃんの恋人なのだ。この女は、全人類の中で私が最も苦手とする人だと言っても過言ではない。

 この女はつい最近大学でお兄ちゃんと知り合って、そして短期間で私よりもお兄ちゃんと仲良くなって、それから私が十年以上かかっても手に入れることのかなわなかったお兄ちゃんの恋人の座を、いとも簡単に手に入れやがったのだ。私がこの女と仲良くなれるはずがない。むしろこの女は、私にとって憎み忌み嫌うべき相手だ。

 この女は私の気も知らないで。自分がどんなに恵まれた人間なのかも知らないで。

 悔しさか妬みか悲しみか絶望か、判別のつかない感情によって胸が強く締め付けられる。 

 どうして私はお兄ちゃんの妹なのだろう。

 私だって大学でお兄ちゃんと知り合っていれば、こんな女に負けるはずないのに。私だってお兄ちゃんの妹でさえなければ、お兄ちゃんと二人で幸せになれたかもしれないのに。 

 私がお兄ちゃんの妹でさえなければ。

「それか、お兄さんも一緒に三人でどっか行く? ああでもそれだと、妹ちゃんが退屈しちゃうかもね。私たち恋人同士だし」

 頭がくらくらする。

 あー、やばい。吐きそ……。

「おい、何勝手に部屋入ってんだよ」

 そこで、ドアの向こうからお兄ちゃんが顔を出した。トイレの流れる音が遠く聞こえる。彼女を家に招き入れておいてすぐにトイレに入るって、色々大丈夫なのか。

「え、勝手に入っちゃダメだった?」

「ダメだよ。妹は初対面の人が苦手なんだ。シャイなんだよ」

 別にそれ言わなくてもいいのに。さっきまでけっこう普通に会話できてたんだから。

「あー、だからなんか反応鈍かったんだ」

 それほど普通に会話できていなかったみたいだった。

「でもこの家に来て妹ちゃんと話さないのはもったいない気がするし」

 女が弁明するようにそう言うと、お兄ちゃんはむずがゆそうな顔をして、目を伏せた。

「……あんまり妹のこといじめるなよ」

 ああ、お兄ちゃんは、わかってるんだ。

 わかってるなら彼女を家に連れ込むなよと思うけれど。

「えー? いじめてなんかないよ~」

 女は言いながら軽い足取りでお兄ちゃんに駆け寄って、そのまま二人はお兄ちゃんの部屋に入っていった。

 深いため息を吐く。

 こんな精神状態で勉強に集中できるはずがない。それに、壁の向こうから時折お兄ちゃんと女の笑い声が聞こえてくるのも最悪だ。もうしばらくすればベッドの軋む音と女の嬌声が聞こえてくることだろう。そしてその嬌声は私の一生のトラウマと化すのだろう。

 だから私は家を出た。財布とスマホだけをポケットに入れて、手ぶらでとにかく走った。あんな女と同じ空気を吸っていたくない。できるだけ遠くに行きたい。

 あの夜に感じた清々しさが、質量はそのままに後悔に姿を変えてのしかかってきた。

 どうして私はお兄ちゃんの妹としてこの世に生を受けてしまったんだ?

 どうして私は血のつながったお兄ちゃんを好きになってしまったんだ?

 私とあの女との違いは、そこだけだ。あの女はお兄ちゃんの妹ではないし、あの女とお兄ちゃんは血が繋がっていない。

 たったそれだけの違いしかないのに、私はお兄ちゃんの恋人になれない。私はあの女よりもずっと前からお兄ちゃんのことが好きだったのに、あの女よりもずっと前からお兄ちゃんと一緒にいたのに、それでも、お兄ちゃんは私よりもあの女を選ぶんだ。

 こんな理不尽なことが他にあるだろうか。

 いや、客観的に見ればこんなことは理不尽でもなんでもないのだろう。私のお兄ちゃんを好きな気持ちがおかしいのだから、そのおかしい気持ちが報われないのは当然のことだと、そういう理屈で一蹴されるだろう。

 でも私からすれば、おかしいのはこの世のほうだ。

 お兄ちゃんを好きになることの何がそんなにおかしいのか。

 なんであんな女に私のお兄ちゃんを盗られなきゃいけないんだ。

 こんな世界、今すぐ捨ててやりたい。

 もう一度やり直せばいいんだ。あんな女に奪われる前に、私がお兄ちゃんを手に入れる。もう一度やり直せば、私はお兄ちゃんの妹として生まれてこないかもしれない。あの女みたいに、お兄ちゃんとは全く血の繋がりのない他人になれるかもしれない。

 どうせこの世界で生きていたって、お兄ちゃんは一生私の手に入らないのだから。

 こんな世界からは早く離脱したほうがいいよな。そうだ。そうに決まってる。

 私は歩道橋の柵の上に立った。見下ろすと、日本の首都だけあって交通量は多いようだった。

 ここから飛び降りれば、私はこの世界から解放される。

 私がお兄ちゃんの妹にならないで済む世界に、たどり着ける。

 私は歩道橋の柵から降りた。

 いや、降ろされた。

 後方から腕と腹を何者かに引き寄せられて、歩道橋側に降ろされた。そのまま身体ごと抱き寄せられる。

「なに、やってるんすか、あんた……」

 若い男の声だった。妙に安心する、少し低い声。

「わたし、は……」

 何をしていた?

 あれ、自殺しようとしてた?

「自殺していい人間なんていませんよ。何があったのかは知らないっすけど……」

 男の呼吸が少し荒い。慌てて私を助けに行ったのか。

 男が腕の力を抜いて、私を解放する。

 お兄ちゃんと同じくらいの体格で、高校生か大学生くらいの風貌の男だった。

「あ、あの、ありがとう、ございます」

 男はくしゃっとした笑顔を私に向けた。

「礼には及びませんよ。身体が勝手に動いただけなんで」

 苦笑交じりに言うその声を聴いて、頭の中の錆びついた古いネジが外れた。

「この世に希望が絶えることなんてありえない、と思いませんか? いや、ごめんなさい、薄っぺらいっすよね」

 呆然としている私に、男はよくわからない励ましの声をかける。

 歩道橋に一陣の風が吹いた。

 心に一筋のひびが入る音がした。

「じゃあ、僕はもう行きますんで」

「あの! 待って、ください」

 弱々しく男の手を掴む。

 こんな気持ちは、初めてじゃない。初めてじゃないけれど、新鮮だった。

「連絡先、教えてくれませんか」

 私のおうじさまを見つけた。

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