第四篇 無意味な高校生活

「そろそろ付き合ってあげてもいいよ」


 夕方の公園を通るなだらかな風に乗って流れていってしまいそうなほど暢気な声で発せられたその言葉に驚いて、僕は、ジャングルジムの頂上に鎮座して足をぷらぷら揺らしている先輩を見上げた。


 挑発的な笑みで僕を見下ろす先輩。


「……それ、どういう意味ですか」


 こんなことを言われた程度では心に少しの波風も立たないほどに、僕の心は先輩のおかげで鍛え上げられていた。僕がここで勘違いして頬を赤らめようものなら、先輩は鬼の首を取ったような勢いで僕をからかい倒してくるに違いない。恋愛の付き合うじゃないよばーかばーかみたいな感じに馬鹿にしてくるに違いないのだ、この先輩は。


「だってキミ、あたしのこと好きじゃん」


 いや確かにそれはそうだけど…………いや待て、なぜそれを先輩が知っている?


「なんで、先輩は……」

「そんなの後輩くんのことを見てればだいたいわかるよ。お姉さんに隠し事しても無駄なのだー」


 先輩のニヤニヤした笑みがより一層深まった。


 突如強い風が公園を通り過ぎて、先輩がその長い髪を抑える。ついでにスカートがめくれそうになっていた。そもそも僕はジャングルジムの頂上に座る先輩を見上げている体勢だから、風とか関係なしにさっきからスカートの中が見えそうだった。


「今日はスパッツ穿いてるからパンツ見えないよ」


 そんな僕の視線の動きを見抜いている先輩が、なんでもなさそうに軽い調子で言った。先輩の足の振り子運動が激しくなっている。


「別にスパッツでも見えれば全然いいですけどね」

「きっしょー」



 先輩はふははと笑い飛ばしながらそう言って、また足の動きが激しくなった。


「いくらあたしが年上のお姉さんだからって、そういうことを女性に直接言うものではないんだよ後輩くん。女の子にドン引かれちゃうぞ」

「はぁ、すいやせん」


 先輩以外の女性にこんなセクハラ紛いのことを言うはずがない。先輩は笑い飛ばすだけで許してくれるから、あえて言ったのだ。


 先輩は「よっこらせ」と言いながらジャングルジムの頂上から飛び降りた。膝を曲げずに音もなく地面に着地して、先輩と僕の顔の高さが同じになる。先輩には体重がないのか。


「さてと、そろそろ帰ろっか。なんか風強いし」

「風強いの関係あります?」

「髪型が崩れるんだよー」


 先輩は髪をくしゃくしゃ撫でつつ言った。自分で崩してるじゃないか。


 それから先輩は中身が何も入っていなさそうな鞄を振り回して僕を待たずにスキップしながら公園を出て行った。僕も特に急ぐでもなく歩き始める。


 僕たちは何か目的があってこの公園に集まっているのではない。何をするわけでもないのに、僕たち二人は放課後になると必ずこの公園に集合する。そして、二人で会話したりしなかったりして無為に同じ時を過ごす。


 僕はこの放課後の無意味な時間が、なかなかけっこう好きだった。


 この公園で先輩と一緒にいるときだけは、将来の不安やら目下の面倒ごとやらを一時的に忘れることができた。たぶん、好き勝手に自由な時間を生きている先輩がそばにいるからだ。


 高校入学前に想像していた青春とはかなり異なるけれど、これもまたひとつの青春なのだと思う。大人になってから振り返るのは、文化祭や体育祭などの名前の付いた定型化された青春ではなく、この先輩と過ごす時間のような何でもない瞬間の一ページなのだろう。


 だから僕は、この無意味な時間に意味を付与するつもりはない。


 意味付けして定型化した思い出を残そうとしたくない。


 僕と先輩がお互いに意味付けすることを望んでいたとしても、きっとそれは間違っている。


 無意味な時間は無意味だからこそ価値があるのだ。


 だがしかし、さっきの先輩の言葉は僕の頭からなかなか離れてくれなかった。



「あの、先輩」

「なーにー?」


 ブランコに座っているだけの僕の横で、風を切る勢いで楽しそうにブランコをこいでいる先輩に問いかける。


「昨日のアレって、結局どういう意味だったんですか」

「アレってなーにー?」


 もはや一回転しそうな勢いで先輩はブランコを存分に楽しんでいる。先輩が僕の前を通るたびに僕の前髪がたなびいた。


「付き合うとか言ってたやつです」

「ちょっとよく聴こえなーい」


 膝を曲げたりピンと伸ばしたりして先輩はブランコをこぎ続けている。今先輩の正面に回ればスカートの中が見えるんじゃないかと思ったけれどやめた。


「付き合うとかー、言ってたやつです」

「土アイスー?」


 どこをどう聞いたらそんなじゃりじゃりした食感の代物の名称に聞き間違えるのか研究してみたら面白そうだなと思ったけれどやめた。


「付き合ってもいいよって、言ってたやつです」

「ツングース人ー?」


 ぶおんぶおんと風を切る先輩は、本当は僕の言うことが聞こえていて単に白を切っているだけなのか、それともブランコによる激しい動きのせいで僕の喉の震えが先輩の鼓膜まで届いていないのか、よくわからなかった。


「……これ、あんまり訊かないほうがいいやつですか?」

「んー、たぶんねー、そうだと思うー、よっ!」


 言って、先輩はブランコの遠心力を利用して飛び立った。そのままブランコの柵を飛び越えて、翼で舞い降りた天使のように音もなく着地した。


 そして先輩はいつもの挑発的な笑みで僕を見据える。


「後輩くん、人の言うことは何でも鵜呑みにするものじゃないんだよ」

「はあ」

「だから、人の言葉は一旦自分の中で嚙み砕いてから解釈しないと」

「そうですね」

「それは、あたしという頼れるお姉さんが言った言葉であっても、同じことだよ」

「えーと、つまり……」

「後輩くんは察しが悪い。そんなんじゃいつまで経ってもモテないままだぞー」


 なぜか悪口を言われた。


「後輩くんには修行が足りない。あたしのもとから卒業する日はまだまだ遠いね」

「僕って今まで修行してたんですか」

「そうだよ。後輩くんがスーパーマンになるための修行」


 先輩とは公園で遊んでいた記憶しかないのだけれど、それは僕が錯乱しているせいなのか。


 人の言葉は噛み砕いて解釈しなければならない。


 そうやすやすと噛み砕くにはもったいない言葉なんだよな、アレ。



「あたしさ、昔から鉄棒だけは得意なんだよね」


 先輩は少し前屈みになって鉄棒に腕をのせて、自慢げに言った。


「え! そうなんですか! じゃあちょっと逆上がりやってみてくださいよ!」

「逆上がりぃ~? そんなのお茶の子さいさいよ」


 先輩は両手でしっかりと鉄棒を握り始めた。左足を前に出して、勢いをつけようと身体を前後に揺らす。


 そう、先輩が逆上がりをすれば、鉄棒を中心に一回転する過程で先輩の身体がさかさまになり、すると先輩のスカートが重力に引っ張られてつまりそういうことだ。みなまで言わせるな。


「ぃよーし、行くよー?」


 ぐっと右足左足と順番に足が持ち上がって、そして先輩の身体がさかさまになって、ついに……。


 スカートの中身は体操着の短パンだった。


 完全に気分が萎えてしまった。もう明日から生きていく気力が湧かない。僕の中にあったありとあらゆる希望が全て抜き取られてしまった。


 僕の泡沫の夢は溶けて消えてしまったのだ。


「ほーらね! すごいでしょ?」


 無事一回転を終えた先輩が僕に期待の眼差しを向けてくるが、そんなものに応えられる精神力は今の僕には残されていない。


「はい……」

「はいって何? すごいってこと?」

「はい……」

「あたしのこと尊敬しなおしてくれた?」

「……あの、なんで体操服着たままなんですか」


 僕はそこでやっと顔を上げて、先輩と目を合わせた。先輩の雰囲気がいつもよりも輝いているように見える。


「体育のあと着替えんのめんどくさかったからそのまま制服着たんだよ」

「次からは絶対に着替えたほうが良いですよ。今の先輩、異臭がするので」

「え!? マジで!?」


 もちろん適当な嘘だった。もう二度とこのような悲惨な結果を招かないように、嘘を吐くことも必要だろう。


「どんな臭いする?」

「納豆とバナナが混ざったような臭いがしますね」

「臭すぎじゃん!」


 言いながら先輩は慌てた様子でスカートの中の短パンを脱ぎ始めた。


 なんとなく良いものを見た気がした。



「後輩くんの眼球を舐めたい」


 容赦なく照りつける太陽の暑さに屈して身体を動かさずにぼーっと地面を眺めていると、隣に座る先輩が不意に僕の顔を覗き込んで、神妙そうな表情でそう言った。


「急に何言ってんすかマジで……」


 先輩は手の中の日焼け止めを揺らしながら、ニヤニヤと笑う。


「舐めてもいいかな?」

「ダメに決まってるじゃないすかマジで……」


 先輩はニヤニヤしたままで僕の頬をぐにーっと引っ張った。


「生意気だなぁ。お姉さんの言うことはちゃんと聞きなさい」

「人に眼球を舐められることを許す人類なんてそうそういませんよ」


 ぐりぐりと頬をいじられる。


「ちょうど飴玉みたいに丸っこくてくりくりっとしててさ、つい舐めたくなっちゃうんだよねその眼球」


 先輩は暑さで頭がやられてしまったのだろうか。


「……自分が何言ってるかわかってます?」

「もちろんわかってるよ。後輩くんの眼球を舐めたいと言っている」


 何も間違ったことは言っていないんだけどなにもかもが間違っているんだよな。


 すると先輩は身体全体を僕に向けて、僕の両肩を押さえつけた。


 そして、そのままベンチの上に押し倒された。


 目の前に、空の青さを背景にした先輩がいる。


「抵抗しても無駄だよ後輩くん。お姉さんには何をしても勝てないのだ」

「いや、あの、まじで、病気、とかになるんで、その、勘弁してもらえませんか」

「あたしの神々しい唾液が目の中に入ったくらいじゃ病気にはならないから安心なさい」


 心底楽しそうな笑みで先輩は僕を見下ろす。


 僕はその笑みに恐怖しか感じなかった。


「ぺろり」

「痛ったァ!」


 本気で舐めやがったぞこいつ。


「リアクションが大げさだよ後輩くん」


 眼球の表面が燃えるように痛い。僕は片目だけで蛇口の場所を確認して、駆け寄った。


 吹きあがってくる蛇口の水に僕の右目をさらす。


「あたしの唾液より公園の水道水のほうが汚いから洗っても意味ないよー」


 先輩は少しも罪悪感のなさそうな笑みで僕を見つめていた。

 


「あたしさ、実は今年で二十歳になるんだよね」


 それぞれ両端に座ってゆるーくシーソーを上下させていると、先輩が不意にするりとそんなことを言った。


「……え、なんすかその妙に生々しい嘘は」

「嘘じゃないよホントだよ。本当のことなんだからそりゃ生々しいよ。生の情報なんだから」


 シーソーの動きに合わせて、先輩を見上げたり先輩を見下ろしたりする。


「なんで二十歳の人が高校三年生やってるんですか」

「あたし二回留年してるから」


 さらっと「あたし〇〇出身だから」と言うように軽く言われて、僕は危うく素直に納得しそうになってしまう。


 どうしたら普通の県立高校で二回も留年するんだ。


「んー? 成績上がんないんだからしょーがないじゃん」


 しょーがないじゃんで済ませていい問題なのか。もしかしたら先輩は今ここで暢気にシーソーを揺らしている場合ではないんじゃないか。


「半年くらい前に成人式行ってきたんだけどさ、もう子供産んでる人とかいてびっくりしちゃったよ。あたしなんてまだ高校通ってるのにね」


 成人式に行く高校生がいるという事実のほうに僕はびっくりだ。そういう立場の人って普通はなかなか行きにくいものなんじゃないのか。まあ、先輩はあまりそういう躊躇はしないように見えるけれど。


「先輩って僕より三つも年上だったんですね」

「年増でがっかりした?」

「いや、別に。歳の割には幼く見えるんであんまり気にしなくていいんじゃないすかね」

「褒めてるのか貶してるのかわからんのぅ」


 ぎこぎこシーソーが揺れ続ける。


「……あの、本当に嘘じゃないんですよね?」

「本当だって。学生証見る? 生年が一般三年生よりマイナス二だから」

「いや、大丈夫です……」


 今まで十八歳だと認知していた人が実は二十歳なんだと急に言われても、すぐには受け入れられない。先輩は普通に学校に馴染んでいるが、生徒の中ではおそらく最年長なのだ。


 先輩はなぜそれを僕に話す気になったのだろう。


 シーソーを揺らしながら、さっきからずっと先輩と目が合わないのが気がかりだった。



 ホームルームが終わったので荷物をまとめて教室を出ると、腕を組んだ先輩が目を閉じて廊下の壁によりかかっていた。先輩は静かに片目だけ開けて、僕を見た。


「後輩くん、二十歳にもなった大の大人が毎日公園で遊んでいるなんて恥ずかしいことだと思わないかい?」

「え、っと」

「思わないかい?」


 そういえば先輩ってクラスに友達いるんだろうか。


「思い、ます」

「というわけで今日は映画館に行こうじゃないか後輩くん」


 言うや否や先輩は僕の手首をひっつかんで、僕を引っ張りながら歩き始めた。


 階段を下りる際に足がもつれて転げ落ちそうになった。


「この近くに映画館なんてありましたっけ」

「だから電車という足を使うのだよ後輩くん」

「その口調どうしたんすか」

「理屈っぽく話せば知的な雰囲気を出せるかと思って」

「無理ですよ、今更キャラ変なんて」


 いつものように毒にも薬にもならない中身の薄い会話を繰り広げながら、いつも溜まり場としている公園を通り過ぎて、電車に乗り込んでここら周辺で一番規模の大きい駅で降車した。


「着いたね、映画かーん」

「ところで、なんで映画館に行くことにしたんですか? 公園以外の遊び場なんて他にいくらでもありますよね」

「映画館ってなんか大人っぽい雰囲気あるじゃん」


 たぶん先輩は薄暗い場所であればどこでも大人っぽい場所と形容するのだろう。


「なんか見たい映画ある?」

「あー……」


 正直僕は映画に一切の興味がなかった。映画館なんて小学生以来一度も来たことがない。わざわざ映画館まで足を運んで千円以上も払ってひとつの映画を観るのなら、少し待ってからレンタル屋で百円ちょっとで借りたほうが良いだろと思ってしまう。


 それほどまでに映画に興味がない僕にこれといって見たい映画があるはずもなかった。


「先輩が決めていいですよ」

「あたしも別に見たい映画ないんだよね」


 本当に雰囲気が大人っぽいという理由だけで映画館に来たらしい。それほどの行動力があるならそのパワーを卒業するための勉強に注いでほしい。


「じゃあ、なんか適当なやつ一本見て帰りますか」

「なにそのちゃっちゃと済ませましょうみたいな言い方ー。あたしと一緒にいるの、あんまり楽しくない?」

「楽しいですよ、めちゃめちゃ」


 言いながら、僕は券売機をぽちぽち操作し始めた。こういうときの先輩はだいたいいつも後ろから覗き込んでいるだけだ。この前ファミレスに行った時も、先輩は注文を全部僕に任せて、店員が来るとずっと黙り込んでいた。先輩は口調の割にそういう性格をしている。


「あ、これにしようよ、この、四デラックス?」


 たぶんフォーディーエックスだと思う。


「これって席揺れたり匂いがしたりするやつでしょ? めっちゃ楽しそうじゃん」

「でも、料金高いですよ」

「だいじょーぶ、あたし居酒屋でバイトしてるから。なんなら後輩くんのぶんも出してあげようか?」


 確か居酒屋のバイトってわりかし高時給なんだっけ。バイトやったことないからよく知らないけれど。


「さすがに僕もそれくらいのお金は持ってますよ」

「そっか、後輩くんいっつもあたしと公園で遊んでるだけだからお金有り余ってるのか」

「…………」


 先輩の言う通りでしかなかったので何も言わなかった。


 適当な位置の座席を二人分指定して、お金を入れると二枚のチケットが吐き出されてきた。設備の関係なのか、全体の座席の数が異様に少なかった。


「ほーぅ、この紙っぺら一枚が二千円もするのかぁー」


 先輩はチケットを目の前にかざして感慨深そうに言った。二千円の価値があるのはこれからの映画体験のほうだろう。


「それ、破らないでくださいよ」

「破るわけないじゃん」


 真顔で返されてしまった。



「いやー、楽しかったねぇ後輩くん」


 映画館を出て楽しかったという感想が出てくるのは意外と珍しいのではないか。


「はあ、まあ、そうですね……」


 僕たちが観た映画はなにやら宇宙大戦争系の映画で、専門用語が多すぎて過去作未視聴の僕にはシナリオを楽しむことができなかったのだけれど、なにせ内容が宇宙大戦争なのでとにかく椅子が揺れまくった。想像していたよりも五倍くらい激しく椅子が揺れ動いたので、エンドロールが流れるころには僕は乗り物酔いを起こして気分が悪くなっていた。


 それに、椅子が揺れるたびに隣の先輩がわーきゃー言いながら僕の腕にしがみついてくるのも、いちいち僕の心を動揺させた。


「またいつか一緒に来ようね、後輩くん」

「そうっすね、またいつか」


 僕が言うと、先輩はにひひと嬉しそうに笑って、僕に肩を組んできた。今日はいつにも増してボディタッチが激しい。


「後輩くんはいつまでもあたしについてきてくれるもんね?」

「……えっと、まあ、はい、そうっすね」


 先輩は笑いながら僕の肩の凝った部分をぐりぐり押し込んだ。



「実はさ、あたしのスカートの中ってブラックホールになってるんだよね」

「知ってますよ、そんなことくらい」

「え、なんで知ってんの?」

「見たことありますからね、先輩のスカートの中」

「嘘だぁ」

「嘘ですよ」



「あたしって実は正義のヒーローなんだよね。ほら、こう、ぴかぴかっと光ってふりふりの衣装に変身して、怪力で敵を投げ飛ばして、手からビーム出せちゃう感じの」

「嘘つけ」

「おぉい! 敬語使えー!」

「なんすかその漫画みたいなツッコミ」

「や、やめてよ、冷静な指摘するの。恥ずかしいじゃん」



 今日はひたすらに己の眠気との死闘を繰り広げなければならない日、つまり卒業式の日だ。


 しかし、僕は体育館の後方で眠気との凄絶なる死闘をしていたために卒業式の記憶がない。今年は無事先輩が卒業できたのかどうか、卒業証書授与のときに先輩の名前がちゃんと呼ばれていたかどうか、記憶がまるっきり抜け落ちているためわからない。


 まあでも、心配はいらないか。さすがの先輩といえど、三年間も同じ授業を受けて同じテストを受けているのだから、三回目の留年はありえまい。


 ……正直に言えば僕の中に一抹の不安がないでもないが、その存在は一旦忘れてしまおう。悪い事態を想定していると実際に悪い事態が起きてしまうのだ。


 卒業式の全行程が終了した昼過ぎ。卒業生たちが記念写真を撮るだのなんだのしてわらわら群がっている校門をなんとか抜け出て、僕はいつもの公園に向かった。先輩と待ち合わせをしているわけではないが、一応、見に行っておきたかった。


 もう明日から先輩があの公園に姿を現すことはないのかもしれないし。


 地面に桜の絨毯ができている公園を訪れると、ジャングルジムの頂上に座る何者かの人影があった。


 まあ、ジャングルジムを登る二十歳の人影なんて、先輩以外に存在しないのだけれど。


 先輩は僕を見るなりにやっと口角を吊り上げて、ジャングルジムから飛び降りた。いつものように音もなく着地して、僕に挑発的な笑みを向ける。


「ごきげんよう、後輩くん」


 先輩の手には何もなかった。


 卒業証書がなかった。


 ……いや、まさか。


「卒業おめでとうございます先輩」

「いや、それなんだけどさ」


 まずい流れだ。


 この局面で「いや」なんて否定形を用いないでほしい。


「五年間も高校に通った先輩も、ついに卒業する日が来たんですね」

「あのね後輩くん。いやもう後輩じゃないのか」


 後輩じゃないなんてそんなこと言わないでくれ。頼むから。


 先輩はいつまでも僕の先輩であってくれ。


 三つも年上の女性にぎこちなくタメ語を使いたくない。


「ところで、卒業証書はどこに置いてきたんですか?」

「卒業証書なんて恐れ多くて受け取ってないよ」

「…………」

「もう一回留年しちゃった」


 てへぺろ、とでも擬音がつきそうな表情で先輩は言った。


 そこは予想を裏切る展開であってくれ。


 なんで普通に留年してるんだ。


「これからは同級生だねぇ後輩くん。もう敬語使わなくていいよ」


 ここに二十一歳の女子高生が爆誕してしまった。


「どしたの黙り込んじゃって。あたしともう一年同じ学校に通えるんだから、ちょっとは喜びなよ」


 喜ぼうにも喜べない。


 僕はもう先輩の存在に慣れているけれど、他の同級生たちはいきなり制服を着た二十一歳と同じ教室で授業を受けることになるわけで。


 ……色々大丈夫なのか。


「先生に高校始まって以来初めての三留だって言われてさー、あたしこの高校の伝説に名を刻んじゃった」


 三留で名を刻んでも、何世代にもわたって後輩たちに馬鹿にされ続けるだけだろう。


「いい? 後輩くん。人生を面白くするためには人と違ったことをやらなきゃ」

「人と違いすぎると人生が破滅しますよ」

「後輩くんは考え方がお堅いねぇ。でも大丈夫。あたしがこの手で後輩くんの人生を面白くしてあげるから。というわけで、これから一年間よろしくね、同級生くん」


 言って、先輩は満面の笑みで僕に握手を求めてきた。僕が手を近づけると、先輩は僕の手を素早く握って、ぶんぶん乱暴に振る。


「私の無意味な二十一歳に、後輩くんも付き合ってくれるかい?」

「……付き合いますよ、僕はどこまでも」


 先輩は満足そうに笑って、僕をぎゅっと抱きしめた。

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