第三篇 Can you give me your affection. 2/2

「あたしさ、そろそろ告白してみようと思う」


 そう私が決意表明をすると、電話口から漏れ出る空気の色が少し濁った。


 私今何か気に障ること言ったかな。


 空気の色が変わっても西城の口調には特に変化がなく、西城はそろそろ告白してもいいんじゃないかなんて言って私の背中を押してくれた。


 それから西城はさらに積極的になって、手紙でどこかに呼びつけてそこで告白すればいいと提案してくれた。その提案を喜び勇んで取り入れた私は、早速手紙の執筆にとりかかるために西城との通話を切った。


 机の引き出しから小学生の頃に買ったであろう古くさいデザインの白い便せんを一枚抜き取って、ゆっくりと丁寧に文字をつづり始めた。書く内容は至ってシンプルなので、シャーペンは淀みなく便せんの上を踊る。


 無意識に鼻歌が出ていた。


 緊張していないと言えば嘘になる。もちろん今の私の胃の中には鉛のような緊張感がずっしりとその重さを主張するように厳然と横たわっている。


 それでも、気分は愉快だった。


 木嶋くんと付き合うことになったらまず何をしようかなぁなんて告白が成功する前提の妄想が私の意志とは関係なしに膨らんでいく。


 告白前夜に私の心はふにゃふにゃと緩み切っていた。


 なんともお気楽な脳内だと自分でも思う。


 でも仕方ない。


 これが私の魅力だし。



 木嶋くんの下駄箱に昨夜したためた手紙を忍ばせるために、今日はいつもより一本早い電車に乗った。


 いつもと違う電車のいつもと違う車両に乗ると、なんとなく見覚えのある面々が一人もいなかった。まあ当たり前なんだけど。


 見える空気の色の質も、いつもより少し違うような気がする。こう、色の濁り具合とか濃さの加減とかが、なんか違う気がする。いや、私の目がまだ起きてないだけかな。


 まあ、他人の空気の色なんていちいち気にしていたら収拾がつかなくなる。隣に立っているおっさんの空気の色がこの世の終わりみたいな暗さであったからといって、じゃあ今日は痴漢を許してあげようとか思ったりはしない。落ち込んでいる他人の気分を無理に上げようとしても徒労に終わるだけだということを私は知っている。


 私は人前で無遠慮に口を大きく開けて盛大にあくびをかましながら、乗車口付近のつり革を握った。太陽の位置が低いせいなのか、窓から見える景色も普段とは少し違う。


 頭がふらつくしやけに喉が渇くけれど仕方ない。今日はなんとしてでも木嶋君よりも先に学校に入る必要があるのだから。


 寝ぼけ眼を擦りながらぼーっと突っ立っていたら、あっという間に高校の最寄り駅に着いた。目の前の乗車口が開いたので降りると、意外にもこの早い時間の電車にもけっこうな数の生徒が乗っているらしいことがわかった。わかったからといって、特に役に立つ情報ではないけど。


 改札を抜けて、いつもと違って生徒がまばらに歩いている歩道を一人でだらだら歩く。一度大きくあくびをして、目のふちの涙を指先で拭った。斜めからあたってくる太陽の光の質が、いつもより少し生温い感じがした。


 そして、最近になって感じるようになったぬめるような視線も、今日は感じなかった。


 朝に家を出る時間を三十分でも変えてみるだけで、毎日固定されていると思われていた景色もちょっとした変化を見せる。いつもは開いている店がまだ閉まっていたり、見たことのないバスがバス停に止まっていたり。でもその変化を確認するために早起きしようとは思わない。


 ゾンビのような足取りで歩いていると、やっと高校の校舎が見えてきた。太陽光を反射した白く眩しい校舎を見上げる。私は朝が壊滅的に苦手だった。


 両手で勢いよく頬を叩いて、朦朧とする意識をしゃきっと立て直した。


 閑散とした下駄箱で、自分の足音だけがいやに大きく響く。まずは自分の靴を上履きに履き替えてから、リュックを下ろしてその中から白い便せんを取り出した。


 きょろきょろ辺りを見回して誰もいないのを確認してから、ゆっくりと木嶋くんの下駄箱を開けた。その瞬間にむわっと男子の汗のにおいが広がったように思えたけど気のせいか。木嶋くんの上履きの上に添えるようにそっと白い便せんをのっけて、音を立てないように下駄箱を閉じた。念のためにもう一度辺りを見回して誰もいないのを確認すると、思わず力が抜けるようなため息がこぼれた。


 よし、これでひとまずのミッションは達成。あとは木嶋くんがこの手紙をちゃんと読んでくれることを祈るだけ。普通にしていれば目に入るであろう場所に置いておいたけれど、万に一つの事故が起こってこの手紙が木嶋くんの手に渡らないことがありえないとも限らない。まあ、あとで西城あたりを遣わせて木嶋くんに訊けばいいか。


 どこかもの寂しい雰囲気が漂う静謐な廊下を教室に向かって一人で歩く。自分の手元から便せんを手放した途端に、ずしんと緊張感が重みを増してきた。もう後に引けないんだなって実感が湧いて、重力が強くなったような錯覚を覚える。階段を上る足がなかなか持ち上がってくれない。


 教室の扉を開けると、そこには内村さんがぽつんとただ一人いるだけだった。うちのクラスは早起きが苦手な奴が多いらしい。


 内村さんは赤い空気を纏っていた。


「おはよ、内村、さん?」


 内村さんとは二人で話した経験があまりない。自分が内村さんのことをどういう風に呼んでいたのか咄嗟に思い出せなくて、なぜか語尾が疑問形になってしまう。


「うん、おはよう。三木さん」


 私のほうに気付いた内村さんは、にこっと可愛らしく笑って挨拶を返してくれた。たぶん今の私は早起きしたせいで気分が悪くてとても酷い表情をしてしまっているのだろうけれど、内村さんはそんな私にも全く臆さない。


 二人で会話を続けるわけでもなく、私は無言で自分の席に向かった。内村さんは私から視線を外すと、また机の上の世界史の一問一答に向き直った。真面目だなぁ。


 内村さんは最後列の席で、私の席は同じ列の内村さんから二つ席を挟んだ前の席だ。内村さんからそう離れていない席に腰かけて、鞄をわきに引っかける。


 私は内村さんと違って不真面目なので、勉強を始めるはずもなく机にぐてーっと身を投げ出してスマホをいじり始めた。そういえば、脳が完全に覚醒していない状態でスマホを触ると、脳細胞がどんどん破壊されていくんだっけ。私のこの馬鹿な脳はこれ以上破壊されても特に実害はないけれど。


「…………」

「…………」


 広い教室で二人っきりだとなんとなく気まずい。早く誰か三人目が来てほしい。隣の教室は既にざわつき始めているというのに、このクラスはやる気のない奴が多すぎないか。


「……あ、あの! 三木さん?」


 気まずさを感じていたところにちょうど声をかけられて、私は飛び起きるように身体を起こして、座ったままで後ろを振り向いた。


 内村さんと目が合う。


「なに? どした?」

「三木さんって、好きな人とかいる?」

「えっ?」


 まさかこのタイミングで恋バナを持ちかけられるとはさすがの私も予想できていなかった。


 真面目そうでおしとやかそうに見えて、実は内村さんも心の内側では熱い恋心を燃やしていたりするのだろうか。


 意外かも。いやそうでもないかも。


「あ、いや! その、昨日の夜にそういう話をしてたから……」

「は……、昨日の、夜?」


 内村さんは誤魔化すように慌てて言ったけれど全く誤魔化せてない。


 昨日の夜はどこにも出かけいないし、もちろん内村さんと会っているはずもない。私が昨日の夜にしていたことと言えば、西城との通話くらいだけれど……。


 確かに私は昨夜の西城との通話で、私は恋バナっぽい話をした。木嶋くんに告白する旨の話をした。まあ、愛の告白の話をしていたのだからがっつり恋バナか。


 だけど、なぜそれを内村さんが知っている?


「いや夜じゃなくて、その、昨日の教室で西城くんとそういう話をしてたから、私隣の席だから聞こえちゃって」


 教室で西城に恋愛相談してたっけ昨日の私。……うーむ、記憶が曖昧でよく思い出せない。こういうことをすぐにぱっと思い出せないから私の成績は低いままなのかな。


 まあいいや。ここで内村さんを疑う意味もないし。内村さんの言葉を信じよう。


「まあ、そうだね。好きな人くらいいるよ。華の女子高生だもの」


 私が軽口を混ぜつつそう言うと、内村さんはぱぁっと表情を輝かせた。なんだ、私に好きな人がいたらそんなに嬉しいか。


「それって、木嶋くんのこと?」


 内村さんは明るい表情のままで言った。内村さんの周りの空気はふわふわした明るいピンク色に変わっていた。


「え、なんで知ってるの?」

「えーっと、見てたらなんとなくわかるっていうか、なんというか……」

「そんなにわかりやすいかな、あたし……」

「いやいや! そんなことないよ。その、私は女子同士のシンパシー? 的な感じでわかっちゃっただけだから、木嶋くんにはきっとまだバレてないよ」


 内村さんは苦笑いを浮かべながらそう言った。


 まあ、私は今日木嶋くんに告白して、それで木嶋くんと付き合うことになるわけだから、内村さんに私の恋心の矛先が知られていたとしてもどうでもいい。どうせ明日になったら噂が広まって、クラス中のみんなが知ることになるのだから。


 すると男子二人が喋りながら教室の中に入ってきて、そこでなんとなく内村さんとの会話が途切れてしまった。その男子二人を筆頭に堰を切ったようにどんどん人が教室に入ってくる。


 私が教室の扉を注視していると、西城と木嶋くんが二人で連れたって教室に入ってきた。しかし、なんだか二人とも様子が変だった。木嶋くんはいつになく険しい表情をしていて、西城は緊張したような面持ちで下を向いている。どことなく不穏な雰囲気だった。


 西城が席に座ったと同時に私は立ち上がって、西城の机に駆け寄る。


「ねね、今日の木嶋くん、どんな感じだった?」


 私が言うと、西城はふいっと私から目を逸らした。そして、西城の濃い青色の空気の輪郭がぐにゃぐにゃと蠢く。私が声をかけると、西城はいつもこういう反応をする。引っ込み思案な男子特有の、私が物理的に近づいた分だけ西城が精神的な距離を離してくるこの距離感。


「どんな感じって?」


 西城はなんでもなさそうに言っているけれど、目線があっちこっち移動していてせわしい。


「察しが悪いなぁサイジョーは。木嶋くんがちゃんと手紙見てたかって、訊いてるの」

「お前が書いたのって、白い便せんのやつ?」

「そうそれ!」

「それならちゃんと見てたよ」


 万に一つの事故は起こらなかったようで、私はとりあえず安堵の息を吐く。本当に安心できるのはまだ遠い未来だけど、とりあえず。


 ちらりと廊下側の中央あたりの席を見ると、木嶋くんは憮然とした顔で頬杖をついていた。とてもつまらなさそうな目をしていた。


 なぜか木嶋くんの空気の色だけは、私の目には見えない。


 いや、一応木嶋くんの周りにミミズみたいな色の輪郭が浮いているのは見えるのだけど、それには色がない。透けている。透明なのだ。


 そして、木嶋くんの透明な空気に何らかの色が付いていたところを私は見たことがない。いつ見ても木嶋くんは透明な空気を纏っている。


 木嶋くんには気分の高低という概念がないのだろうか。それほどに人格がしっかりしているのだろうか。


 木嶋くん意外に透明な空気を纏っている人を私は見たことがない。この教室を見渡してみても、身体の周辺に色が付いていないのは木嶋くんだけだ。


 木嶋くんから視線を外して西城のほうに首を戻すと、西城の青色の濃さがより深まっていた。つまり西城の空気が暗くなっていた。加えて、なんとなく西城の表情がいつもよりやつれているように見える。


「……サイジョー、なんか調子悪そうだね」


 私が言うと、西城はなぜか焦ったように目を見張って、それからまた顔を斜め上に逸らした。


「何か嫌なことでもあった?」


 西城は少し苦々しい表情になって、また周りの青色が蠢いた。


「…………いや、特には」


 絶対何かあったくせに、と内心では思いつつも、口には出さなかった。どうせ私が追及しても、西城はなかなか言い出さないだろうし。


 私は割と西城に自分のことをなんでもかんでも話してしまう。木嶋くんのこともそうだし、今日の告白のことだって西城以外の誰にも言っていない。それほどに私は西城のことを信頼して頼りにしているのだけれど、その逆、西城のほうは私のことをそこまで信頼しても頼りにしてもいないように思える。私はなんでもかんでも西城に相談しているけれど、西城は私に対して全くそういう相談を持ち掛けてこないし、そもそも自分自身のことをあまり語りたがらない。 


 西城と話すときの話題の中心にあるのはいつも私が持ってきた問題事についてだ。西城についての話題が出てくることは、全くと言っていいほどない。


 今日の西城はなにやら深刻そうな顔をしているが、その抱えているであろう悩み事を私に相談してくることはないだろう。


「ふーん、そ。まだ一時間目も始まってないんだから、もっと元気だしなね」


 ついっと西城の額を軽く指で小突いてから、私は自分の席に戻った。


 席に座ってから、もう一度木嶋くんの様子を確認した。木嶋くんは、眠そうな目をしながらだるそうに頬杖をついてスマホをいじっていた。


 西城によると木嶋くんはしっかり私の手紙を読んだらしいが、ちゃんと私の目でそれを見たわけではないからやはり不安は残る。


 木嶋くんはあの手紙の意味を解釈しているのだろうか。女の子から手紙をもらったのだし、期待、とかしているんだろうか。


 空気の色が透明だからよくわからない。


 ふぃーっと長いため息を吐いて、もう木嶋くんのほうに首を向けるのはやめた。


 心臓が高鳴っているのは、緊張のせいかときめきのせいか。



 女子高生の恋なんてものは実に単純なものだ、と言ったら私以外の世の中の女子高生様方に怒られてしまうかもしれないけれど、少なくとも私という女子高生の恋は実に単純なものだった。


 私が木嶋くんのことを好きになったのは、話しているときに気が楽だったから、というそれだけの理由だった。いや、厳密には、その高めの身長だったり少し日に焼けた肌の色だったり高校生にしてはやや低めの声だったりそこはかと漂う清潔感だったり、そういう部分にももちろん惹かれているのだけれど、最初のきっかけはまず、木嶋くんと話しているときの妙な安心感だった。


 木嶋くんの男子高校生にしては落ち着いた鷹揚な態度がそうさせるのか、ちょうどよい頻度で挟まれる面白い冗談がそうさせるのか、いまいち判然としないけれど、なぜか木嶋くんと話していると、異性相手なのに妙に安心するのだ。


 何らかのグループ活動で木嶋くんと一緒の班になったときに私はその妙な安心感に気付いて、そしていつからか私は木嶋くんのことを視界の端で追うようになっていた。そうなってしまえばもう、自分が木嶋くんのことを好いていると理解するのに時間はかからなかった。恋心を自覚してからは、木嶋くんを視界に映すたびにどんどん好きな気持ちが大きくなっていくほど、私は沼にはまるようにずぶずぶと木嶋くんに惹かれていった。


 きっかけは本当に些細なことだった、それでもここまで気持ちが大きくなってしまったのだから、もうこの気持ちを相手に伝える以外にどうしようもない。


 少しでも気を落ち着かせるためにそんなことをつらつら考えながら、私は校舎裏に座り込んで木嶋くんのことを待っていた。


 六時間目の授業が終わってから、私はホームルームを待たずに荷物をまとめて教室を抜け出した。木嶋くんと同じタイミングで時間割から解放されるのが嫌だった。同じタイミングで教室を出てしまったら、待ち合わせの意味がないような気がした。


 もうずいぶんと長い間待たされている気がするけれど、私が待ち焦がれすぎているからそう感じるだけなのだろうか。校庭のほうから微かにボールを蹴る音だったりの雑音が聞こえるから、もうホームルームは終わっているはずだけれど。


 確か手紙には、学校が終わったらすぐに来て、みたいなことを書いたはずだ。


 木嶋くんに何か急ぎの用事が出来てしまったのだろうか。いや、私はある程度時間の融通が利くし、急を要する用事ならそっちを優先してもらって構わないけれど……。うーん、やっぱり何かおかしい気がする。


 手紙には告白をほのめかすようなことをたくさん書いた。これは大事な待ち合わせなんだということもかなり強調した。


 だから、ホームルームが終わればすぐに駆け付けてくれるはずだと私は予想していたのだけれど。


 木嶋くんは一向に姿を現さない。


 スマホを確認すると、時間割が終わってから既に一時間が経っていた。


 おかしい。


 私は立ち上がった。


 校舎に沿ってぐるっと回ってから下駄箱に入り、靴を履き替える。遠くから吹奏楽部の下手な演奏が聞こえてくる閑散とした廊下を進んで、かつかつと足音を鳴らしながら階段を上る。無意識に歩調が強くなっていた。


 閉まっていた教室の扉を開けると、そこには机が整然と並んでいるだけで誰もいなかった。掃除当番さえももう帰っている。夕方の誰もいない薄暗い教室には、得体の知れない不気味さが漂っていた。


 しばらく教室の中をぐるりと見渡して、私は吸い寄せられるように木嶋くんの席に向かった。そして腰かける。机の上には落書きひとつない。机の中には何も入っていなかった。木嶋くんはいちいち教科書を持って帰っているのか。


 私の手紙はどこにもない。


 それから座ったままで教室の床を隅々まで目で追ってみた。。少し埃が積もっている。掃除当番の仕事が甘い。


 まあ、そんなところに私の手紙が落ちているはずもなく。


 まさか、と思って、私は立ち上がって教室後方のゴミ箱に向かった。


 あふれそうになっているゴミの頂上に、小さく丸まった白い紙が捨てられてあった。いや、まさか。誰かがプリントか何かを捨てただけだろう。そう自分に言い聞かせたけれど、悪い予感ほどあたるもので。


 おそるおそるその丸まった紙を広げてみると。


「ぇ……」


 やっぱり、私が木嶋くんに宛てて書いた手紙だった。


 視界が黒く塗りつぶされていくような感覚がして、頭が重くなる。


 思わずその場にへたり込んでしまった。


 木嶋くんが私の手紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んでいた。


 こんなのは、告白を断られたとかそんな生温いもんじゃない。


 完全な拒否。


 拒絶。


 無視だ。


 心臓に穴を開けられて、その穴から私の活力が全て流れ出ていってしまうような感覚がした。


 立ち上がる気力が湧かなかった。


 このまま泥のように溶けて消えてなくなりたいと思った。


 教室で仰向けになって、天井の蛍光灯を見上げる。


 授業が終わった後の蛍光灯は、もう光っていない。


 私の心ももう光を失っている。


 さっきまで威勢よく燃えていた恋心も、もう光を失っている。


 灰になった。



 それからのことはあまりよく憶えていない。気が付いたら私は駅前のファーストフード店で西城と向かい合わせに座ってポテトをかじっていた。茫然自失となっていた私を西城が介抱してくれたらしい。


 西城と私は意味があるんだかないんだかよくわからない会話をした。明日も木嶋くんに告白するーとか頭がイカれたようなことを私がぼやくと、西城はそれもまたいいんじゃないかと私の言葉に首肯した。西城は私に合わせて適当なことを言っているだけなんじゃないかと思い始めてきた。


 それに、今朝よりも西城の空気の色が少し明るくなっている。


 いつから明るくなったのかは確認していない。今朝は未解決だった悩み事が、放課後になるまでに解決したのだろうか。それか、今朝たまたま不機嫌だっただけなのか。


 私の空気の色は暗くなったのに、西城の空気の色は明るくなったことに対して、なぜか私は苛立ちを覚えた。二人して暗く沈んでも埒が明かないだろうに、それが自分でもわかっているのに。今は無性に何事にも苛立ってしまう気分だった。


 八つ当たりの代わりに西城の青色が漂う顔を睨んでいると、ふと、西城のワイシャツの襟の一部がぴかっと光ったように見えた。光るワイシャツなんて聞いたことがない。


 私は身を乗り出して、その光った部分に顔を近づけた。西城の青色が激しく蠢いたけれど構わない。


 近くで見てみると、光っていたのはクリップのような銀色の物体で、そのクリップのような物体が小さな四角い板のような白いものをワイシャツに固定している。


 私は本能的にその白い物体を取り外して、自分のポケットにしまった。泥棒を働いたつもりはない。というかたぶん、この物体は西城のものではない。おそらく、誰かがこっそり西城に取り付けたものだ。西城がこんなわけのわからないオシャレの仕方をするとも思えないし。ワイシャツの襟なんて自分からも他人からも見えにくい場所に自分自身で何かを取りつけるとは思えない。


 誰がなんのために西城にこれを取り付けたのかはわからない。


 西城が何かに巻き込まれているのなら、私がそれをなんとかしてあげよう。西城のほうから相談してきてくれないなら、こちらから踏み入ってしまえばいい。だからとりあえず、私は何も言わずにこの白い物体を取り外しておいた。


「……ねぇ、サイジョーはこれからどうする?」

「え、普通に帰るけど。何か用事あんの?」

「あー、まあ、うん、そんな感じ。サイジョーは先に帰ってていいよ」


 それからファーストフード店を出て、私と西城はお互いに別方向へと歩き出した。そこで西城とは解散になった。


 実は、用事があるっていうのは嘘だった。さっきまでの西城は、表情一つ変えずにどんどん空気の色の明るさを増していた。私が何をしたわけでもなく、周りで何か起こったわけでもないのに、西城の空気の色だけはじわじわと変化していく。何がそんなに面白くて西城の気分が高揚しているのかがよくわからなくて、なんだか気味悪く思えた。西城がその素知らぬ風な表情の裏にどんな顔を忍ばせているのかがわからなくて怖かった。だから私は、今の西城と二人で同じ電車に乗りたくなかった。適当に辺りを散歩してから、今より一本後の電車に乗ろう。


 駅前と言っても、快速が止まらないような高校の最寄り駅の前だから、そこまで店が充実しているわけではない。コンビニとファーストフード店とレストランがあるくらいだった。つまり私が時間を潰せそうなところがコンビニくらいしかない。


 コンビニで適当な雑誌を立ち読みすることにした。さっきポテトを食べたばかりだからおやつのスイーツはなし。


 漫画雑誌を棚から取り出した瞬間、また、あのぬめるような視線をどこかから感じた。


 最近、常にというわけではないのだけれど、四日に一度くらいの頻度で誰かからの視線を感じる。頻度が高くないからストーカーというわけではないのだろうけれど、正体が知れないことに変わりはない。


 雑誌を棚に戻して、私は店を出た。コンビニ前の歩道にはそれらしき人物はいない。


 ゆっくり歩きながら、神経を尖らせてきょろきょろと周りを見回す。


「…………うわっ」

「わぶっ」


 首を左右に振っていたせいで前方がおろそかになって、こちらにやってくる人影に気付かずに衝突してしまった。


「あれ、内村さん?」


 スマホを大事そうに両手で持っている内村さんが、少し視線を上げて私を見上げていた。


「あ、あ、ああ、えーと、こんにちはー……」


 内村さんは狼狽したように目をぱちくりしながら私から距離を取って、苦笑いを浮かべながらお昼の挨拶を投げかけてきた。内村さんの空気はなぜか赤黒い。


「内村さんまだ帰ってなかったの?」

「え、ええ、まあ、委員会の仕事がありましたので……」

「なんで敬語?」

「け、敬語じゃないよー、うぇーい」


 急にIQを低くさせてぎこちなく笑う内村さん。明らかに態度というかテンションがいつもと違う。


「なんかいつもとテンション違うね」

「女の子なんですからそういう日もありますよー。……あの、そんなことより、西城くん、見ませんでしたか?」


 敬語に戻ってるしなんで急に西城の話になったんだろう。


「サイジョーならもう電車乗ってるよ、たぶん」

「えっ!?」


 内村さんの表情が苦笑いから驚いた顔に一変して、内村さんはなにやら必死にスマホを操作し始めた。私のことはそっちのけで、すらすらと忙しそうに人差し指を動かし続けている。


 西城が電車に乗っていたら何か困ることでもあるのか。よくわからない。


「…………あの、」


 二分間くらい私の前でスマホをいじり続けた後、内村さんは下を向いたまま消え入りそうな声で言った。


「三木さん、西城くんから何か物を盗みませんでしたか?」

「盗んでるわけないじゃん」

「白くて四角くて小さい物です。心当たりありませんか?」


 ……いや、心当たりは、あるんだけど。


 なんでそれを内村さんが知っている?


「これ?」


 言って、私はポケットから西城の襟に付いていた例の白い物体を取り出した。


 内村さんは白い物体に目を輝かせた。


「……えっと、その……、それ、私が西城くんに貸していたものなので、とりあえず私に返してもらえませんか」


 子猫みたいなきゅるんとした上目遣いでそう言われた。


「う、うん、いいよ」


 まあ、そんなに大事なものではない、というか私からしたらゴミ同然の白い物体を、私はすんなり内村さんに手渡した。


 白い物体を手にした瞬間に内村さんの表情はぱあっと明るくなって、そして白い物体を大事そうに鞄にしまった。


 それから人差し指を口元にあてて、


「このことは他言無用で! それじゃ!」


 とだけ言って走り去ってしまった。内村さんの空気は最後まで赤黒いままだった。


 内村さんは貸した物だといって誤魔化していたけれど、あの白い物体が貸し物のはずがない。自分からワイシャツの襟にあんなものを取り付けるはずがない。


 だからつまり、内村さんがあれをこっそり西城に取り付けたのだ。


 内村さんは西城について何かを企んでいる。


 本当にあの白い物体を内村さんに手渡しても良かったのだろうか。


 いや、内村さんが西城に何か危害を加えるとは思えないし。


 まあ、いっか。


 私は踵を返して駅に向かった。そろそろ一本後の電車が到着する頃だろう。



「あいつは来ないよ」


 昨日と同じように校舎裏で座り込んで木嶋くんのことを待っていると、突如現れた黒いスーツを着た男性にそう言われた。


 なぜか髪の色が蛍光色っぽい水色だった。


 そして空気の色が透明だった。


 一瞬、能力を失ったのかと思った。能力に目覚める前と同じ、この視界のすっきりした感じが懐かしい。でもよく見ると、木嶋くんと同じような色の輪郭が浮いていた。


「……えっと」

「ああ、あいつっていうのは、もちろん木嶋のことだが」

「あんた誰ですか」


 黒いスーツに黒いネクタイのその男は、ポケットに手を入れて憮然とした顔で座り込む私を見下ろしている。身体は細いし髪色は明るいのに、ものすごい威圧感があった。


「別に名乗る義理はないだろう」

「なんで木嶋くんのことを知ってるんですか」

「知り合いだからだ」


 嘘つけ、と思ったけれど言わなかった。そんなことを言う気力が湧かないほど、私は長い間木嶋くんのことを待っていた。


「なんで木嶋くんは来ないんですか」

「……あいつは、恋愛ができない人間だからだ」

「は?」

「いや、お前にそのわけを説明することはできない」


 言いながら、男は私に近づいてきて、私の腕を掴んだ。


「いいから、ここで待ち呆けてこれ以上時間を無駄にするのはやめろ。学生なら家に帰って勉強しろ勉強」


 男にぐいっと腕を引っ張られて、私は無理やり立たされた。そして急かすように私の背中を押して、歩くように促してくる。


 手首の関節が痛い。


「木嶋は、悪意があってこんなことをしているんじゃない。だからもう、木嶋のことは諦めたほうがいい」


 「だから」の前後で話が繋がっていなかった。


「いや、あの、なんなんですか」

「なんでもねぇよ。とにかくこれ以上木嶋に近寄ろうとするな。こっちも大変なんだよ」

「そんな簡単に諦められません」

「お前さ、空気の色が見えるんだろ」

「えっ」


 男は私の背中を押すのをやめて、立ち止まった。私も思わず振り返る。


「それで、木嶋の空気の色だけは見えない。透明だ。違うか?」

「あなたも透明ですけど……」

「それは一旦隅に置いとけ」


 男は一呼吸置いてから、


「で、なんで木嶋の空気は透明なんだと思う?」


 と、私の双眸をしっかり見据えて言った。


 その疑問については、私も幾度となく考えたことがある。一日のうちに平均して十二回ほど木嶋くんのことを考えている私なのだから、木嶋くんの色については色々考えた。


 木嶋くんには気分の高低差がないから、空気の色もない。必要ないから。


 木嶋くんはいつも冷静沈着だから、気分によって何かが変わることもなく、空気の色も変わらないから。


 木嶋くんの精神構造が、普通の人間とは少し違うから。


「少し違う、っていうのは当たらずとも遠からずか。いややっぱりめちゃめちゃ遠いか。違う違わないとかいう話じゃないからな」


 そこで、男はにやりと笑った。


「木嶋には人の心がないんだよ」

「え……っと?」

「いわゆるサイコパス。他者のことを自分と同じ生き物だと認めてない」


 なんだ、それ。そんなわけないじゃん。


 もし木嶋くんが本物のサイコパスなら、こうして普通に学校に通って教室に溶け込むことはできていないはずだ。


 嘘だ。うそうそ。


「お前もさすがにサイコパスとは付き合いたくないよな? だからもう木嶋に近づくのはやめろ」


 私はなんだか急にこの男の近くにいるのが怖くなって、逃げ出すように走り出して帰路についた。


 夕方の時間に高校の敷地内をスーツ姿でほっつき歩いている大人なんて、絶対にやばい人だ。木嶋くんの知り合いだって言うのも嘘だろう。


 そんな不思議な出来事があった日の翌日。


 朝、私が自分の下駄箱を開けると、中からひらひらと白いルーズリーフが落ちてきた。ちょうど私が木嶋くんにやったのと同じやり方で、誰かが私の下駄箱の中に紙を入れたらしい。


 そのルーズリーフを拾い上げて、二つ折りになっていたのを広げると、そこにはでかでかと「迷惑」の二文字が踊っていた。


 差出人はすぐにわかった。


 差出人は十中八九、木嶋くんだろう。


 一瞬息をするのを忘れてしまう。


 心臓の拍動が頭に大きく響く。


 私は大きくため息を吐いた。ため息と一緒に、心の中のキラキラした宝物が全部外へと流れ出て行ってしまったように、私は恐ろしいほどの虚脱感に覆われた。


 もう、私の中の様々なものが冷めてしまった。


 心が冷え切ってしまった。


 何もしたくない。何も考えたくない。何も信じたくない。


「ぬぁー」


 私は千鳥足のようにおぼつかない足取りで、ゆらゆらと歩いて校門を出た。心の底から学校に行きたくないと思った。教室という部屋に集められた四十人に自分が違和感なく融け込んでいるその様を想像するだけで吐き気がした。


 ここまで拒絶されると、私の精神の大事な軸がぽっきりと折れてしまった。本来私の精神なんて脆いものなのだ。本当なら一度目に木嶋くんが来なかったときに、私の心は折れていてもおかしくなかったのだ。


 視界の輪郭が二重に三重になって見える。


 つーっと涙が頬を滑り落ちた。


 いつの間にか辿り着いていた公園の東屋の中に入って、仰向けに寝っ転がる。すると、ぽつぽつと雨が屋根を打ち付ける音が聞こえてきた。今日は傘を持ってきていない。まあいいや、もう、なにもかも。


 やがて雨は本降りになって、屋根を打ち付ける音もばちばちと激しい音になる。


 私は額に腕をあてて、目を閉じた。頭の中は空っぽだったので、脳はすぐに睡眠モードに入る。


 次に目が覚めるときには世界が終わっていたらいいな。



「ほら、起きろ、飯だ飯」


 しゃかしゃかとビニール袋を顔に当てられて、私は不本意に目を覚ました。目の前のビニール袋を払いのけて身体を起こすと、東屋の外側から私を覗いている水色髪のスーツ姿の男がいた。昨日と変わらず空気は透明だった。


 私は一度大きくあくびをして、目を擦った。水色髪の男はそんな私の様子を不機嫌そうに眺めている。


「……あの、なんでここにいるんですか」

「昼飯持ってきてやったんだよ」


 言って、男は私の膝の上にビニール袋を落とした。寝起き特有の頭痛に耐えながら袋の中身を確認すると、中にはコンビニのおにぎりが二個入っていた。


「えっと、ありがとうございます……?」


 言いながら顔を上げると、そこには既に男の姿はなかった。


 なんだったんだろうあの人。勝手に食べていいのかな、これ。


 まあいっか、と思って私はおにぎりのビニールをぺりぺり剥がし始めた。弁償しろと言われても弁償できる額だし。


 降りしきる雨の音をBGMにしながら、ぱりぱりとゆっくりおにぎりをかじる。なんだかいつもより味が薄いような気がした。あらゆる感覚が鈍ってしまったように思える。


 つらいなぁこの世界。


 木嶋くんへの想いは完全に冷めてしまっていた。


 酔いがさめたように、急に昨日までの自分が馬鹿みたいに思えてくる。私は何を必死になって校舎裏でひとり待ち呆けていたのだろう。


 人生がまたひとつつまらなくなった。


 おにぎり二つはすぐに完食してしまった。ゴミを袋に入れてまとめておく。空腹感もないけれど満腹感もない、胃の中が食べ物ではない何かによって埋まっているような不思議な感覚がした。


 間もなくしてスマホが西城からのメッセージを受け取った。何も考えずにテキトーにキーボードを打って返信していると、西城からのメッセージは途切れた。


 またため息を吐く。もうため息だけで呼吸しているようになっている。脱力感と虚脱感と虚無感の三人から熱烈なハグをされている。


 頭を空っぽにして、雨が水たまりに作る波紋を眺めていると、誰かが東屋の中に入ってきた気配がして、私は顔を上げた。


 目の前にレモンティーと西城があった。


「あれ、サイジョー……」

「お前これ好きだろ」

「あ、ありがと」


 言って、私は西城の手から紙パックのレモンティーを受け取った。そして何も考えずにストローを挿して、私はレモンティーを吸い始めた。


 西城の空気はこれまで見たことがないくらいに明るく水色をしていた。ちょうどさっきの男の髪の色みたいだった。


 そして、薄暗い曇天の下ではその明るい色はとてもよく目立つ。


「なんでサイジョーがここにいるの」


 この時間のサイジョーは学校にいるはずだと、私は素朴な疑問を投げかけた。


「お前が元気なくしてると思って」

「そりゃ、元気ないけどさ」


 今の私には本当に元気がない。元気がゼロだ。


 それに対して西城は元気すぎる。


 西城の空気の色は明るすぎる。


「サイジョーはあたしと違って調子良いみたいだね」

「え? そんなことないけどな。今のお前よりは元気あるかもしれないけど」

「だって今のサイジョーの空気、向日葵みたいに明るい色してるから」

「は?」


 あ、言っちゃった。


 何も考えずにしゃべりすぎて、空気の色のことを漏らしてしまった。


「あ、いや、空気の色っていうのは、なんというか……」

「…………」

「あの、さ。今からわけわかんない話してもいい?」


 この際だ、もう全部言ってしまおう。


 西城は、私の秘密は守ってくれるだろうし。


「……あのね、あたしって人の空気の色が見えるの。その人の心を表した空気の色が見えて、て言っても人の考えてることが見えるわけじゃなくて、その、人の気分の色が見えるって言ったらいいのかな。その人の気分が暗かったら暗い色が見えて、気分が明るかったら明るい色が見えるの。言ってる意味、わかる?」

「……まあ、なんとなく」


 私は今まで誰にもこの能力のことを言ったことがなかった。人の気分が見えるなんて、自分だけ何かズルをしているような気がして、この能力の存在を誰かに知られたくなかった。だから、家族にも友達にも誰にも、私の能力のことは言っていなかった。


「それで、今のサイジョーの空気はものすごく明るい」


 鬱陶しいくらいにぴかぴか光っていた水色が、少し濁った。


「なんでサイジョーの空気はそんなに明るいのかな?」

「…………」

「あたしの気分が暗くなっていくたびにサイジョーの空気が明るくなっていくのは、なんでかな?」

「…………」


 ぐにゃりと水色が激しく蠢く。いや、もう水色ではなくただの青色に変わっていた。


「怖いよ、サイジョー……」


 そう、怖い。私の中の虚脱感が増幅するたびに明るくなっていく西城の空気が怖かった。私の恋愛相談を聞くたびに空気を暗くする西城が怖かった。二度目の告白をすると言い放った私のことを少しも止めようとしない西城が怖かった。客観的な視点に立っていた西城なら、私が最終的にこうなることがわかっていたはずなのに、少しも私のことを止めようとしなかった西城のことが怖かった。


 すると、西城の空気の色が一気に暗い紫色に変色した。


 空気の色が一瞬にしてぱっと変わる瞬間なんて初めて見た。


「……ね、ねえ、サイジョー、どうしたの?」


 西城はゆっくりと立ち上がって、


「ごめん、僕はもう帰ることにするよ。木嶋が三木のことを気にしてたから、今からでも学校行ってみたらいいんじゃないか」


 と、それだけ言って、どこか重い足取りで公園から去っていった。


「お前も意外となかなかに手厳しいことを言うんだな」


 いつの間にかそこにいた水色髪の男が言った。そんなことに驚くほど私のテンションは普通じゃなかった。


「いつから聞いてたんですか」

「最初っから全部。ずっとここにいたからな」


 いいながら、男は傘を閉じて東屋の中に入ってきて、さっきまで西城が座っていた場所に腰を下ろした。


「しかし、あの西城とかいう奴はなんていうか、相手が悪かったな。お前みたいな鈍感女子高生が相手じゃ、西城も報われないよ」

「相手って、どういうことですか」

「まあ、西城のことはもういいんだ。あいつはもうじき、しかるべき居場所を見つけることだろう。西城に関しては、それで全工程が終了できる」


 男は私のことを無視してひとりでぶつぶつ語っていた。


「問題はお前だよお前、三木。なんでよりにもよって相手が木嶋なんだよ。なんつーか、この世界は歯車がうまくかみ合わないようにできてんのかね」


 なぜか非難がましい目で睨まれた。何も悪いことはしていないはずなのに。


 どこかからばしゃばしゃと誰かが走る足音が聞こえてくる。


「やっと来たか……」


 傘を閉じて東屋に入ってきたのは、木嶋くんだった。


 私は反射的に顔を逸らす。緊張で背中が熱くなる。


 今感じている緊張は、以前までの恋心に起因する心地よい緊張とは全く質が違った。


「すみません、遅くなりました」

「いや、逆にちょうどよかったくらいだ」


 木嶋くんは水色髪の男にペコペコ頭を下げつつ、私の隣に座ってきた。


 私はそっぽを向いて、木嶋くんに後頭部を見せつける。


「こんちわ、三木」


 いつもと変わらない軽いノリ。約束を二度も破っておいてよく普通に話しかけられるな。


「怒ってる、よな」


 もう怒るタイミングを逃した。


「約束破ったのは、しょうがなかったんだよ」


 言い訳なんて聞きたくない。


「ごめんな、三木」


 謝られても、過去は変わらないし。


「三木と、その、恋愛的なアレになることはできない」


 もう私は木嶋くんと付き合いたいと思ってないし。


「でもさ、俺じゃなくても、世界には他に魅力的な男が星の数ほどいっぱいいるだろ?」


 恋愛って魅力がどうとかの話じゃないと思うけど。


「おいおい木嶋、今のそいつに何言っても無駄だぞ」

「じゃあ、どうするんですか」

「どうしようもないから困ってるんだ」


 私がどうしようもない人間なのは今に始まった問題ではなかろうに。


「ちと、荒療治が必要かもな」

「……何か、とんでもないこと考えてませんか」


 木嶋くんがもう既に私にとんでもないことをしてくれたじゃないか。約束を二度もすっぽかして、迷惑だなんて言って。


「いっそ、こちら側に引き寄せるしかない」

「そ、そんなことって」

「他にやりようもないだろう。今日が刻限なんだ。致し方ない」


 なんだ、刻限って。私の刻限の話? 私の賞味期限が今日で尽きるっていう話? 女の賞味期限は十七歳で尽きるとかそういうロリコン談義をしているのか?


「まあ、そうですけど……」

「うし、木嶋、ちょっと下がれ」


 木嶋くんが立ち上がって、東屋から出た。


「今からお前の心を改造する」


 突然、ガッと強く両手で首を絞められた。首の幅が半分になったように見えるほど、かなり強く締められる。喉が完全に締まる。


「うが……か……いき……が……く」


 殺される、と本能的に悟った。


 必死に男の腕に爪を立てる。男の腕からはいく筋もの血液が出ているのに、男は全く力を緩めない。


「やめ…………い……ぐ……あ」


 周縁から段階的に、視界が暗黒に包まれていく。頭がひどく冷たくなって、意識が遠のいていく。爪を立てていた手から力が失われていく。自分の意志とは関係なしに、身体が勝手に機能を停止させていく。


 嫌だ。嫌だ。


 このまま、死ぬのか。


「お前を一旦舞台から退場させるには、こうするしかないんだ」


 しぬ、しぬ。


 口から黄色い液体を吐き出した。


 目からとめどなく涙があふれ出てくる。


 視界は完全に暗幕に閉ざされていて、気付けば雨の音も聞こえなくなっていた。手足が痺れたように何の感覚もなかった。


 身体の芯の部分が冷たい。


 嫌だ。


 死にたくない。


「さっさと死ねよ」


 死んだ。

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