第三篇 Can you give me your affection. 1/2

「かならずぼくがーそばにいて〜、ララーラララララララ〜」

「…………」


 スマホを手に取って通話開始ボタンを押した途端に、スピーカーから明るいオレンジ色の歌声が飛び出してきて、僕は少したじろいだ。


 もう一度スマホを耳にあて直す。


「あたしさ、そろそろ告白してみようと思う」


 そして歌声が途切れたかと思えば、あまりにも唐突になされる決意表明。


「告白って、木嶋きしまに?」

「そう」

「好きって?」

「そうだよ、あたりまえじゃん。それ以外にないでしょ」


 うん、と息を吐くように曖昧な返事を返してから、机の上に広げてあった英文法の参考書を閉じて、椅子に深く座り直した。電話口の三木みきの声を聞いたらなんだか気が抜けてしまった。もう今日は勉強を続ける気になれない。


 椅子を窓際に寄せて、夜空にぼんやりと輝く小さな月を見上げる。三木も今頃、僕と電話を繋げながら、家でこの同じ月を眺めているだろうか。


 眺めているはずないか。三木はきっと、僕との通話をするついでに、ベットに寝転んでSNSをだらだら巡回しているだろう。適当に何も考えずに、僕との会話を片手間に済ませていることだろう。


 三木にとって僕との通話は、そのくらいにどうでもいいことだから。


「うん、ってなに? どういう意味? まだ早すぎるって? それとも妥当?」

「いや別に。ていうか、なんで急に告白する気になったの?」

「なんか今日クラスの友達がさ、彼氏できたーって言っててさ、さすがに焦ってきたっていうか。みんなどんどん彼氏つくってて、あたしだけ遅れちゃってる気がして。それに、いつまでもこうやってぐずぐずしてるわけにいかないじゃん? いつかは動かなきゃいけないし」

「薄っぺらいな」

「薄っぺらいってなに!? しょうがないじゃん。きっかけなんて待ってても全然来ないし、無理矢理にでも自分から動くしかないの。いつまでもここでじっとして、状況が変わるのを待っているだけじゃダメなんだよ」


 そう言う割には、三木が動き出すまでにとても長い時間がかかったような。確か、最初に僕が三木から恋愛相談を受けたのは……五ヶ月くらい前か。微妙なところだ。見る人によって早いか遅いかの判断が違ってくる。


 僕からすると五ヶ月というのは早いかもしれない。僕は五ヶ月以上も前からある人に想いを寄せているのに、それをとっくの昔に自覚しているというのに、未だに何の進展もないから。加えて自分から動き出そうという気もないから。


「……あー、まあ、いいんじゃないか。僕もいい加減に、お前の優柔不断さにイライラしてきてたところだったし」

「ちょっと何その言い方ー。少しは応援してくれてもよくない?」

「……応援してるよ、俺はいつだって」


 それから、「どうやって告白したらいいと思うー?」とか、どうやって歩いたらいいのかを訊くような質問をされた。どうやってもなにも、告白なんて相手に好きだと伝える以外に何か種類があるのだろうか。僕が「普通に面と向かって言えばいいだろ」と言ったら、「そんなの恥ずかしくてできない!」と返された。だったらもう告白なんてやめちまえと言いかけたけれど、喉元までで抑えて口には出さなかった。「手紙とか渡せばいいんじゃない?」と僕が恋愛漫画で培ったありあわせの知識を披露すると、三木は「それだー!」と決定的な証拠を発見した名探偵のように叫んだ。今日の三木はやたらとテンションが高い。それから「でも面と向かって言わないと不誠実だと思われちゃうよ」と三木は続けて言った。今さっき、面と向かって言うのは恥ずかしいからできないと却下したばかりなのに、三木はやっぱり面と向かって言いたいらしい。三木は気分が右往左往しすぎるきらいがある。「じゃあ手紙で木嶋をどっかに呼び出して、そこで面と向かって言えばいい」と、これもまたたまたま知っていたありがちな恋愛的展開を適当に言ったら「それだー!」と三木はまた叫んだ。今日の三木はテンションが高いのではなく、ただ頭を空っぽにして喋っているだけだとわかった。


「あたし今から手紙書くからそろそろ切るね。じゃねー、サイジョー」

「うん」


 スマホを耳から離して、画面の通話終了ボタンを押した瞬間、スピーカーから漏れ出ていたオレンジ色のふわふわした空気が、ぱっと消えた。十五分にも満たないような短い通話だった。


 ほぼ三日に一度の頻度で繰り返されてきた三木の不毛な恋愛相談も、明日でついに終わりを告げるらしい。寂しいような、どうでもいいような。


 三木の恋が成就するにしても玉砕するにしても、しばらくは三木が僕に何か相談をしてくることはなくなるだろう。


 僕と三木の共通の話題は、この恋愛相談を除けばゼロに等しい。昨日のテレビの話とか、勉強の話とか、クラスメイトの話とか、そういう誰とでも話せるような話題しかなくなってしまう。


 明日、三木が木嶋に想いを告げれば、僕と三木の接点がほとんど消えてなくなってしまう。


 恋愛相談だけが、僕と三木を繋ぎとめる唯一の事柄だった。


 その恋愛相談が、おそらく明日からなくなってしまう。


 僕と三木を繋ぎとめていた事柄が、なくなってしまう。


 そんなのは、嫌だけど。


 僕にはどうすることもできない。


 僕は月を眺めながら深くため息を吐いた。


 椅子を机のそばに戻してから、スマホを机の上に置いて、立ち上がった。スマホの画面は真っ黒のままだった。


 風呂に入るために部屋を出た。



 僕、西城さいじょうとおるには空気の色が見える。


 いや、空気の色と言うと誤解を招いてしまうかもしれない。空気の色というのは、たとえば酸素の色が何だとか窒素の色が何だとか二酸化炭素の色が何だとか、そういう話ではない。


 僕には、人の周りの空気が見える。その人の纏っている空気の色が見える。だから、雰囲気の色が見える、と言ったほうが正しかったかもしれない。


 その色は人によって固定された色ではない。僕の見えている色は常に目まぐるしく変化していく。昨日は黒色だった人が、今日は黄色だったり。


 僕が自分ひとりだけで見出した定義だから信憑性は薄いけれど、たぶん、僕の見えている色はその人の気分を表している。気分はその時々によって変わってくるから、僕の見えている色もそれに応じて変化しているのだろう。


 僕が毎朝通学のために利用しているこの電車内でも、様々な人が様々な色を纏っている。それぞれの色が縄張り争いをするようにせめぎ合っている。


 以前までは、こういう人が密集しているところは目がちかちかするから苦手だったのだけれど、最近はもう慣れてしまった。


 僕の正面に座っている、生え際が後退気味で落ちくぼんだ虚ろな目をしているスーツ姿のおじさんの空気は、深い緑色だった。こういう暗色系の色を纏っている人は、たいてい気分が落ち込んでいる。このおじさんは、これから仕事場に行くのが憂鬱なのだろうか。


 対して、乗車口付近でつり革を握っているあの明朗そうな女子高生は、向日葵のような黄色い空気を纏っている。こういう明るい色を纏っている人は、たいてい気分が高揚している。テンションが高かったり、何も悩みが無かったり。あの女子高生は今、幸せな日々を過ごしているのだろうか。


 と、こんな風に、その人の纏っている色から勝手にその人の生活を妄想するのが僕の密かな趣味だった。我ながら気持ち悪いとは思うけれど、やめようにももう癖になってしまっているし、見ないようにしても色は見えてしまうから、どうしようもない。


 電車内の人の色を見て妄想を捗らせていたら、あっという間に高校の最寄り駅に到着する。車内の高校生たちが一斉に動き出して、全員が降車した。


 ひとえに高校生と言っても、全員がさっきの女子高生のように明るい色を纏っているわけではない。暗い色の人もいるし、明るいのか暗いのかどちらともつかないような微妙な色を纏っている人もいる。


 社会人にしたって、さっきのおじさんとは対照的に、金色でぴかぴか輝いているような希望に満ち溢れている人も僕は見たことがある。


 毎日同じことをしている人同士なのに、それだけ気分に差が出てくる。それだけ、人それぞれに事情がある。


「よォ、サイジョー」


 駅から出て、他の生徒連中と並んで列になるように歩道を歩いていたところで、後ろから勢いよく肩を叩かれた。立ち止まらずに振り返ると、僕よりも少し背が高くて僕よりも肌が日焼けした男子生徒の姿。


 木嶋だった。


「ああ、木嶋」

「なんかいつもより目が開いてないぞサイジョー。夜更かしでもしたのか?」

「え? そうかな。そんなに早く寝たわけじゃないけど……」

「ちゃんと十二時前には寝ろよー。慢性的に不健康なんだよサイジョーは。いつも顔が青白いしな」

「ごめん、自分では気を付けてるつもりなんだけどな」

「お前は運動してないからだよ。今度俺と一緒にランニングでもするか?」

「いや、遠慮しとく」

「なんだよ、つれないなぁ」


 木嶋は軽く笑うように息を吐いてから、テニスラケットを肩にかけなおした。


 木嶋とは一年生の頃からの付き合いで、二年生になって約四カ月ほど経過した今でも仲の良い友人だ。木嶋はバリバリの体育会系で、僕のようなあまり前に出ていきたがらないタイプの男子とはおよそ接点を持つ機会のないような男なのだけれど、一年生の頃、僕と木嶋の好きなゲームがたまたま共通していたことがわかって、それからよく話すようになった。今は二人ともそのゲームに飽きてしまっていて、ほとんどゲームの話はしなくなったけれど、なんとなく関係が続いている。二年生になっても僕と木嶋は同じクラスになれたから、そしてお互い特に仲の良い人が他にいなかったから、それで続いているだけかもしれない。もし二年生になって木嶋とクラスが分かれていたら、今頃木嶋は僕を見てもあえて声をかけるようなことはしなかっただろう。


 木嶋は僕の友人であり、そして三木の想い人でもある。


「サイジョー、今日の英語の宿題やってきた?」

「和訳のやつ?」

「そうそれ」

「やってきたよ」

「あとで教室で見せてくんね?」

「別にいいけど」


 木嶋は歩きながら僕の肩を強く叩いて、柔らかく笑んだ。どういう意味の笑いなのかよくわからないけれど、とりあえず笑い返しておいた。


 なぜだか僕は、木嶋の空気の色だけは見えない。


 いや、一応空気のようなものは見えているのだけれど、それに色がないのだ。色がないと言っても白い空気が見えているわけではなくて、本当に無色。木嶋の周りに色の輪郭のようなものがぼやーっと浮いているだけで、透けている。透明なのだ。


 いわば、木嶋は無色を纏っている。


 そして、その木嶋の無色に色が付いていたところを僕は見たことがない。木嶋の色はいつ見ても透明なままだ。明るくもならないし暗くもならない。そもそも明暗の概念がない。


 だから僕は、木嶋の気分だけはなかなか推し量ることができない。人の気分が落ちているのか高揚しているのか、僕はこの能力のおかげで簡単にわかるはずなのに、木嶋の気分だけは簡単にはわからない。木嶋に限っては、声の調子やら表情やら仕草やら、そういう部分を注意深く観察するしかないのだった。


「いつも頼りにしてるぜ、サイジョーのこと」

「僕はいいけど、たまには自分で宿題やらないと、成績落ちるよ」

「しょーがないだろ、俺はお前と違って死ぬほど忙しんだから。部活やってるし、他にもいろいろあるし」


 僕は木嶋との他愛ない会話に相槌を打ちながら、通学路に三木の姿を探していた。背伸びして前を覗き込んだり後ろを振り向いたり、道路を挟んだ向こう側の歩道を見たりしたけれど、三木の姿は確認できなかった。


 三木はどうやって木嶋に手紙を渡すつもりなのだろう。


 僕が憂慮するようなことではないはずだけれど、昨日の夜に三木から話を聞いている手前、どうしても頭の隅に三木の手紙のことがちらつく。それに、今僕の隣を歩いているのは、まさに件の木嶋だし。


 手紙を渡すのにあたって僕の存在が邪魔になったりしたら後々面倒なことになる。


 最寄駅からそこまでの距離があるわけでもないので、すぐに高校に到着した。がやがやと耳が騒がしく、視界のほうも若々しい色で埋め尽くされていて同じく騒がしい。そんな視界の中では、木嶋の無色の異質さがより一層際立っていた。


 下駄箱に靴を入れながら、僕は隣の木嶋の様子を注意深く見つめていた。


 三木がどうやって木嶋に手紙を渡すか。自分なりに考えてみたけれど、パターンはそう多くはない。木嶋の下駄箱に入れるか、木嶋の机の中に入れるか、あるいは木嶋に直接手渡しするか、ぐらいだろう。


 そして第一の可能性である下駄箱を、木嶋が今開けようとしている。


 木嶋が下駄箱を開くと、その中から白い便せんがひらひらと木嶋の足元に落ちてきた。


 三木の手紙だ。


「なにそれ、またラブレター?」


 僕がこのことを予め知っていたことを悟られないように、あくまで自然に、からかうように僕は言った。


「またってなんだよ。ラブレターなんて人生で一回ももらったことねぇよ」


 言いながら、木嶋は身を屈めて白い便せんを拾い上げた。


 木嶋はその便せんに書かれている文字列を読んで、視線が文字を追うごとに顔が険しい表情へと歪んだ。


 木嶋の空気は透明のままだ。


「なんて書いてあった?」


 僕のほうからは手紙の内容は読み取れないので、純粋に興味本位で訊いてみた。


 木嶋は顔をしかめたまま、制服のポケットに便せんを雑に突っ込んだ。


「なんでもねぇよ。お前が気にすることじゃない」


 それから木嶋は、上履きのかかとを踏んで「ほら、行くぞ」と足早に廊下を歩き出した。僕は慌てて上履きを履いて、木嶋に追いつく。


 教室までの廊下を歩いている間、木嶋は険しい表情のままで無言だった。今手紙のことを訊ねたら怒られるような気がして、僕は何も言えなかった。


 無言のままに一緒に教室の扉をくぐって、それぞれの席に座る。木嶋は廊下側の中央あたりの席で、僕は窓際の最後列の席だから、かなり離れている。


 僕が机にリュックを引っかけて椅子を引くと、どたどたと大げさな足音をたてながら慌ただしくこちらに近づいてくる人影がひとつ。


 三木は僕の机の上に手をのせてしゃがみ込んで、僕を見上げた。


 視界の右端の色が少し濁った。


「ねね、今日の木嶋くん、どんな感じだった?」


 囁くように小さな声で三木は言う。三木の空気は昨夜と変わらず、ふわふわした柔らかいオレンジ色だった。


「どんな感じって?」

「察しが悪いなぁサイジョーは。木嶋くんがちゃんと手紙を見てたかって、訊いてるの」

「お前が書いたのって、白い便せんのやつ?」

「そうそれ!」

「それならちゃんと見てたよ」


 少し様子がおかしかったけれど、とは言わなかった。言ってもほとんど意味がないような気がした。


 僕が言うと三木は「よかったー」と言いながら大仰に安堵の息を吐いた。


 そして三木は立ち上がって、今度は僕が三木を見上げる姿勢になる。


「よし、今んとこは順調順調。もうサイジョーの仕事は終わったよ、お疲れ様」

「ああ、うん」


 すると、三木は僕の顔を覗き込むように見て、少し表情を曇らせた。


「……サイジョー、なんか調子悪そうだね」

「え? いや、そんなことないと思うけど」


 さっき木嶋にも同じようなことを言われた。今日の僕はそんなにもげっそりした顔をしているのだろうか。自分では特に体調が悪い感じはないけれど。


「何か嫌なことでもあった?」

「…………いや、特には」

「ふーん、そ。まだ一時間目も始まってないんだから、もっと元気出しなね」


 三木は僕の額を指で軽く小突いてから、自分の席へと戻って行った。


 額を撫でるようにさすってから、頬杖をついて、僕は深く息を吐いた。


 僕は結局何もできないままでいる。


 いつまでも傍観者の気分でいて、気が付けば取り返しのつかないことになっている。


 でも、僕にできることは何もないのだし。


 だから、何もしなくていい。


 取り返しがつかなくなっても、それは誰のせいでもない。もちろん、僕のせいでもない。


 僕はリュックから英語のノートを取り出して、木嶋の席へと向かった。



 授業が終わる十五分前になると、教室の中の空気が次第に明るくなっていく。そして終了のチャイムが鳴った瞬間、空気の明るさは最高潮に達する。


 だが今は授業が開始されて十七分しか経過していないから、空気の色は皆いつも通りだった。暗い人は暗いし、明るい人は明るい。木嶋は透明で、三木はオレンジ色だった。


 と、不意に視界の右端で小さな丸い消しゴムがころころと転がるのが見えた。授業に集中していなかった僕はすぐにそれに気づいて、座ったままで腰を曲げて消しゴムを拾い上げた。


 そして、右隣の席の内村うちむらさんに消しゴムを手渡す。


 内村さんは一瞬僕と目を合わせて、しかしすぐに目を伏せて、「あ、ありがとう」とぎこちなく僕にお礼を言った。


 内村さんの空気の色は緑色だった。深緑でも黄緑でもなく、ただの緑。明るいんだか暗いんだかよくわからない。


 僕は目線だけで内村さんのお礼に返答してまた前を向きなおしたのだけれど、今日は珍しく内村さんが続けざまに「ねえ、西城くん」と声をかけてきた。


「西城くん、その、具合、悪そうだよ?」


 内村さんは前の黒板を見たまま、音量こそ小さいけれども確かに芯の通った声で言った。


「え、本当にそんな風に見える?」


 もうこれで三度目だ。今日の僕の表情はそんなにおかしいのだろうか。心配して言ってくれているのはわかるけれど、三度目ともなると少し傷ついてくる。


「なんとなく、いつもより目が開いてないような気がするから……」


 木嶋にも全く同じことを言われた。昨日は特に寝つきが悪かったわけではないし、就寝時間も常識的な範囲内だったと思うけれど。


「別にしんどいとか辛いとか、そういうのはないから大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」


 僕が感じのいい笑顔を浮かべて言うと、内村さんもふふっと優しそうに薄く微笑んだ。


「西城くんが元気なら、良かった」


 内村さんは小さな声でそう言った。三木とは対照的に、おしとやかで物静かな雰囲気の人だ。加えて、僕のようなただの隣の席のクラスメイトでしかない男子の体調を気遣ってくれるような優しさも併せ持っている。


 内村さんの緑色が少し黄緑っぽく明るくなったのを横目に見ながら、僕は板書を写す作業を再開した。


 この席に座っていると、内村さんの空気は常に視界の右端を陣取っているから、内村さんの色の変化にはすぐに気付く。


 そして、その色の変化の規則性にも、否が応でも気付いてしまう。


 だけれど僕はずっと、その規則性に気付いていないふりをしていた。


 その規則性は僕にとって不都合なものだったから。



「な、なあ木嶋。お前今日これからどうするの?」


 鞄とテニスラケットを背負って教室を出ていこうとしていた体操着姿の木嶋を、教室の扉の前で呼び止めた。木嶋は扉に手をかけながら、半身だけで僕に振り返る。


「どうするって、普通に部活だけど」

「テニス部?」

「そうだよ、今日も練習あるから、いつもと同じだよ。急にそんなこと訊いてきてどうしたんだ? どっか俺についてきてほしいところでもあんの?」

「いや、そういうわけじゃない。なんでもないよ。じゃあ、また明日」

「やっぱり今日のお前なんか変だな」


 木嶋は笑いながら言って、教室を出て行った。


 そして僕は教室内を見渡して三木の姿を探した。各々がロッカーに行ったりトイレに行ったり机の上で支度をしていたりと放課後特有の雑然とした雰囲気が漂う中、三木の姿はどこにもなかった。今日の教室内で三木以上に明るい色を纏っていた人は一人もいなかったから、教室内で特に目立つオレンジ色が存在していないのがすぐにわかった。


 僕には直接的に関係のないことのはずなのに、無意識に三木の告白のことを考えている自分がいた。三木の告白が成功しようが失敗しようが、僕にとっての結果は変わらないのだから、どうでもいいはずなのに。


 三木の空気は、少なくとも今日の六時間目が終わるまではオレンジ色のままだった。だからたぶん、三木の告白は放課後に行われるはずだ。どこかのタイミングで告白が行われていたならば、木嶋はまだしも、さすがに三木の空気の色が何らかの変化を示すはずだから。


 三木の姿はいつの間にか教室内から消えていて、そして木嶋はさっきテニスコートへと向かっていった。


 結局木嶋が三木の手紙の約束通りの行動をするのかはわからなかった。いや、木嶋が手紙を完全に無視して約束に従わないなんて可能性は、万に一つもないと思うけれど。木嶋はそんな奴じゃないと僕は知っている。


 木嶋の意向もわからないし、三木がどこに木嶋を呼び出したのかもわからない。


 まあ、結果がどうなるにしても、必ず三木からなにかしらの連絡が入るはずだ。今まで五カ月間も恋愛相談を受けてくれていた人に対して何の報告もしないほど、三木は薄情な人間ではない。


 結果を待つ以外に僕にできることはない。


 僕は首を回して骨を鳴らしてから、鞄を持って廊下に出て、階段を上って図書室に向かった。


 なんとなく気分がそわそわして落ち着かなくて、このまま学校から出る気になれなかった。


 この学校の図書室は、入り口付近に本棚が密集していて、その本棚の間を縫うように進んだ先に、窓と座席がある。僕はその中でも一番奥まった場所にある座席に腰かけて、途中の本棚から適当に抜き取ってきた読みもしないハードカバーの分厚い海外小説を、テーブルの上に置いた。


 受験勉強をしている三年生たちは、僕の周りには誰も座っていない。僕の座っている付近の座席は、奥まっているせいで冷房の風が届きにくく、加えて窓がそばにあるせいで直接西日の陽光が入ってくるから、勉強するには最悪の立地条件なのだろう。


 だが、僕は勉強も読書もしないので別に構わない。ただ、座ってぼーっとできる環境であればそれでよかった。


 窓からは校庭を見下ろすことができて、ちょうどサッカー部が練習を始めているところだった。ボールを空高く蹴り上げてみたり、コートの中心からゴールを狙って力強くボールを蹴ってみたりと好き勝手な練習をしているサッカー部を僕は虚ろに見おろしていた。ここからテニスコートのほうを窺い見ることはできない。


 それから、どのくらいの間そうしてぼーっとしていただろう。


 脳内から一切の文字や記号が消えていた。何も考えたくなかった。


 やがて、窓から見える太陽がさっきよりも二三センチほど地平線に近づいているのに気付いて、僕は眠りから覚めるように意識を取り戻した。


 それからふと正面を向くと、そこには一人の女子生徒が座っていた。


 内村さんだった。


 授業中は緑色だった空気が、今は温和そうなピンク色に変わっていた。……ん、なんだかいつもより色が濃く見えるけれど、気のせいだろうか。


 僕と目が合うと、内村さんは驚いたように目を見開いて、そして誤魔化すように手を振った。


「あ、いや! その、私図書委員だから」


 僕が何も言っていないのに、内村さんは今の状況を説明してくれた。


 確かに、内村さんの二の腕には図書委員の黄色い腕章が付いている。


「なんで僕の正面に座ってるの? 僕のこと注意しに来たとか?」

「いやいや注意しにきたんじゃないの。その、図書委員ってやることなくて暇だから、ね。放課後はほとんど本借りに来る人いないし」

「こうやってずっと居座ってたら迷惑かなって思って」

「全然迷惑なんかじゃないから大丈夫だよ」


 内村さんは優しそうに目を細めて僕に笑いかけた。


 内村さんは優しそうな笑みのままで顎の前で手を組んで、しばらくの間僕のことを見つめていた。僕は気まずくて何か話題を出そうと思ったけれど、僕が内村さんの趣味嗜好を把握しているはずもなく、何も話題を出すことができなかった。


 図書室という静謐な空間で、黄色い夕日の光に照らされた内村さんにひたすら見つめられるという、奇妙な時間が過ぎていった。


 不意に、ポケットの中のスマホが震える感覚を太腿に感じた。スマホを取り出して確認すると、三木からの電話がかかってきていた。確か図書室では通話禁止のはずだったけれど、さてどうしようか。正面の内村さんはなぜか目を丸くしていた。僕はまあいいやと思って、応答ボタンを押した。図書委員の目の前で違反行為を始めた。


「もしもし?」


 僕はできるだけ声の音量を抑えた。内村さんが何も言わなくても、図書司書のおばさんに見つかったら何か文句を言われるかもしれない。


「…………」

「……もしもーし?」

「……あんた、まだ学校残ってる?」


 聞いたこともないような三木の低い声とともに、毒ガスのような禍々しい紫色の空気がスピーカーから放出されて、僕は一瞬耳からスマホを離してしまった。


 すぐにまた耳にあてなおす。


「まだ残ってるけど……」

「じゃあ今すぐ下駄箱まで来て」

「は? なんだそれ、どういう、」

「じゃ、またあとで」


 ぶちっと乱雑に通話を切られてしまった。


 とりあえず、三木の告白が何らかの形で失敗したことだけはわかった。逆に言うと、それ以外は何もわからなかった。


 僕はスマホをポケットにしまってから、立ち上がってリュックを背負った。そして机の上の本を内村さんのほうへ移動させて、「僕もう行くから、これ本棚に戻しておいてもらってもいいかな?」と言うと、内村さんは目を伏せながら「う、うん……」と曖昧に返事をした。内村さんの空気のピンク色から明るさが失われて、赤黒く濁っているのが見えたけれど、僕は気に留めなかった。


 早足で図書室から出て、階段を駆け下りる。一階まで降りてからは廊下を走って、中庭の渡り廊下を突っ切って下駄箱に向かった。


 僕が肩で息をしながら下駄箱に到着すると、そこには体育座りで膝の中に顔をうずめて、憂鬱そうに目を細めている三木の姿があった。薄暗い下駄箱で座り込んでいるその小ぢんまりとした姿には、軽く指で触れるだけで何もかもが崩れ落ちてしまいそうな儚さがあった。


「そんなところに座ってたら制服汚れるぞ」

「…………どうでもいい」


 若干かすれた小さな声で、三木は言った。三木の周りの空気は、さっきスマホのスピーカーから出てきていたものと同じ、毒ガスのような濃い紫色だった。


「何があったんだよ」


 もっと遠回しな訊き方があったかもしれないと声を出した後で気付いた。しかし遠回しな訊き方をしたほうが逆に三木の反感を買いやすいかもしれないと思い直した。


「……木嶋くん、待ち合わせ場所に来なかった。一時間以上も待ってたのに、ずっと来なかった」

「すっぽかされたってこと?」

「そう」


 まさか、あの木嶋が?


 人との約束を破り捨てた?


「それに、これ見て」


 言って、三木は少し身をよじって、スカートのポケットからくしゃくしゃになった丸い紙屑を取り出した。それを広げて、僕のほうに掲げて見せる。


「これ、さっき教室のゴミ箱の中から見つけた。あたしが木嶋くんに書いた手紙」

「え……、本当に?」

「こんな意味わかんない嘘吐くわけないじゃん」


 三木は自分の手紙を丸めて、ポケットにしまった。それからまた膝の中に顔をうずめて、深いため息を吐いた。


「木嶋くん、あたしのこと嫌いなのかな……」


 木嶋が人から貰った手紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨て、そして約束も破った。にわかには信じがたい話だけれど、三木の空気が濃い紫色になっているのを見るに、その話は全て本当なのだろう。


 木嶋は人の気持ちをないがしろにするような奴ではないと、僕は今まで思い込んでいたのだけれど。


 正直、当事者ではない僕でさえも状況を飲み込むのに時間がかかった。


 長い沈黙を挟んだ後で、僕はやっと口を開くことができた。


「あー、えっと、テニスコート、見に行くか?」

「…………うるさい」

「ご、ごめん……」


 三木の声に苛立ちがこもっていたのが伝わって、僕は情けなくノータイムで謝った。


「……お腹空いた。何か奢って」


 三木は一切表情を変えないままで、呟くように短く言った。いつも明るい三木がここまで暗い雰囲気になっているのを見ていたら、何を言われても断れなかった。


「わかったよ。何食べたい?」

「……ハンバーガー」

「よしわかった。じゃあさっさと立て」

「うん」


 三木は下を向いたままで立ち上がった。そしてゆっくりと歩き出す。不貞腐れた小学生のような所作だった。


 僕は自分の口角が吊り上がっていることに気付いていないふりをした。



 僕と木嶋と三木は、一年生の頃から同じクラスだった。


 僕は一年生の頃に木嶋と友達になって、三木とも一年生の頃からよく話すようになった。確か、校外学習かあるいは何がしかのグループ活動で三木と同じグループになって、それがきっかけで三木と話すようになったのだと思う。そして一年生の頃から、僕は三木から恋愛相談を受けていた。


 僕は木嶋と三木の両方とそれなりに仲が良いけれど、木嶋と三木の二人がどれほどの仲なのかは知らない。まあ、三木が木嶋のことを好きになるくらいだから、接点がゼロというわけではないのだろうけれど。


 三木が木嶋のことをどう思っているのかは知っているが、木嶋が三木のことをどう思っているのかは知らない。


 だから今回、木嶋がどういう考えのもとでこんな行動に出たのか、いまいち推測することができない。それに加えて、木嶋の空気の色は常に透明だから、木嶋のそのときの気分から推測することもできない。


 なかなかに厄介なことが起きたらしい。


「普通さぁ、人からもらった手紙をゴミ箱に捨てるかなぁ。ちょっとありえなくない?」


 三木の表情はさっきよりもかなりましになったが、それでも空気の色は濃い紫色のままだった。


 ファーストフード店の一角のテーブルを二人で占拠して、僕の正面に座る三木は不機嫌そうにフライドポテトをかじっていた。ハンバーガーが食べたいと言うからファーストフード店に連れてきたのに、三木は結局ポテトしか買わなかった。奢る立場の僕としてはそのほうが助かるけれど。


「木嶋くんって実は非常識な人なの?」

「いや、そんなことないと思うけどな……」

「でも実際に非常識なんだもん。なんなのあいつ」


 意中の相手をあいつ呼ばわりして、三木はふんと鼻を鳴らした。


「もう木嶋のこと嫌いになったのか?」

「いや、別に、嫌いになったわけじゃ、ないけど……」


 僕が言うと三木は急にもじもじしだして、バツが悪そうに言った。一度約束を破られたくらいで恋が冷めてしまうほど、女子高生の乙女心は単純なものではないらしい。


「ていうかだいたいさ、サイジョーは木嶋くんの何を知ってるの?」


 それから急に顔を上げて、俺を叱るような強い口調で三木は言った。


「え、俺は木嶋の友達だし、色々知ってるよ」

「友達だからって何でも知ってるとは限らないじゃん。本当はあたしのほうが木嶋くんについて知ってるかも。あー、なんかこの時間がとんでもなく不毛に思えてきた」


 三木の恋愛相談が意味のあるものだったことなんてただの一度もない。


「不毛とか不毛じゃないとか、どっちでもいいだろ。どうせ告白が失敗した事実は変わらないんだから」

「はぁ……?」


 三木は露骨に表情を歪めてわかりやすく青筋を立てた。


「いや……ご、ごめん。なんでもない」


 そして、お互いに目を逸らしあって押し黙った。


 周りの話し声がごちゃごちゃと混ぜ合わされた雑音と、時折聞こえてくるポテトの焼きあがる機械音が、僕たちの沈黙を助長するように響く。


 猛烈に帰りたくなってきた。


 イライラしている女に近づくもんじゃない。


「……あたしさ、明日も手紙渡してみようと思う」


 そしておもむろに、昨日の電話口とは違う言い方で、覚悟を決めたような凛々しい表情で、三木は決意表明をした。


「え。それって、今日と同じことをもう一回するってこと?」

「そう。リベンジだよ。明日はきっとうまくいく」


 今日は約束をすっぽかされたけれど、明日はきっと木嶋は約束を守ってくれるはずだ、というロジックは圧倒的なまでに破綻している。


 けれども三木は挑戦的な笑顔でそう宣言した。


「大丈夫だよ。今日はたまたま木嶋くんの虫の居所が悪かっただけなんだよ。また明日になれば、木嶋くんの気分も変わってるはず」


 今日の木嶋はとてもそんな風には見えなかったけれど、僕は何も言わなかった。


 ここでまた三木の言うことを否定したら、虫の居所の悪い三木は噛みついてくるかもしれないから。


 僕は三木のその言葉に首肯した。


 将来的に三木の空気の色を暗くさせないためには、ここで三木のことを止めるべきなのだろうけれど。


 だんだんと明るさを取り戻していく三木の空気の色が見えてしまったから、僕は首肯せざるを得なかった。


 その場しのぎで、三木の喜ぶことを言う。


 卑怯な人間だった。


 本当は、僕は最初から、三木の告白は失敗するだろうと思っていた。まさか木嶋が待ち合わせに来ないなんて、そんな失敗の仕方をするとは予想していなかったけれど、失敗するだろうとは思っていた。


 木嶋が三木のことを何とも思っていないことは、実はわかっていた。空気の色が見えなくとも、木嶋は三木のことを特別視していないことくらい、さすがにわかる。


 それでも、昨日の時点では可能性がゼロではなかったから、僕は三木を止めなかった。


 だが、二度目の告白が成功する確率は限りなくゼロだ。


 今朝、僕は木嶋が三木の手紙を読んでいるところをこの目で見ている。それにも関わらず木嶋は待ち合わせ場所に来なかったのだから、もう完全に断られたようなものだ。


 それでも僕は三木のことを止めない。


 三木にとって都合の良いことを言って、背中を押す。


 背中を押した先が、奈落の落とし穴であったとしても。


 僕が奈落の底で待ち構えて、三木を抱き止めてやればいい。


「なんか今のサイジョー、今朝よりも調子良さそうだね」

「え、」

「なんで?」

「……別になんも、変わってないけどな。お前の気のせいだろ」

「……ん、ちょっと待って」

 言うと、三木はテーブルに手をついてぐいっと身を乗り出してその顔を僕の首筋に近づけた。

「な、なに?」

「……んー、あー……、いや、なんでもないや」

 三木の紫色の瘴気はほんのりレモンの香りがした。



 翌日の放課後、帰りの電車内で、スマホが三木からのメッセージを受け取った。


『今日も木嶋くん来なかった』

『大丈夫か?』

『うん、大丈夫』


 たぶん大丈夫じゃないんだろうなぁ、と思ったけれど、僕はそこでやり取りを打ち切った。


 僕は一人でほくそ笑んだ。



 その翌日。


 雨が降っていた。


 四時間目になっても、教室に三木の姿が現れなかった。


 木嶋に三木のことを訊いたりはしていない。訊けるわけがなかった。


 四時間目の古典の授業中に、僕は机の下でスマホを操作していた。古典の女性教師は定年間近の眼鏡をかけた白髪まじりの人で、おそらく最後列に座る僕の様子はその老眼では見えていない。だから僕はこんなにも堂々とスマホをいじっている。


 スマホをいじっているといってもただ遊んでいるのではなく、未だ学校に来ていない三木に連絡を入れようとしていた。


 隣の内村さんからの視線をそこはかと感じるけれど気にしない。


『今日学校来てないけどどうした?』

『めんどくさいから』


 僕が送信ボタンを押すとすぐに既読が付いて、たった八文字の簡素なメッセージが届いた。とりあえず病欠ではないらしい。


『今どこにいる?』

『公園』

『学校の近くの?』

『そう』


 三木のメッセージがやけに淡泊なのは今日が特別不機嫌だからではなく、三木は普段からこんな感じだ。三木は、一般的な女子高生のようにあざとい絵文字を使ったりやたらと語尾にビックリマークを付けたりということをやらない。普段から男子中学生みたいな淡泊さでやりとりをする。


「なに、してるの。西城くん」


 隣の内村さんが机の下の僕のスマホに視線を注ぎながら言った。


 僕は慌ててがたがたと机を揺らしながらスマホをポケットにしまった。机を揺らしたせいで教卓の教師がこちらを睨んできたので、僕は曖昧に笑って誤魔化した。


「な、何にもしてないよ、うん。何もしてない」

「西城くん、授業中にそういうことしてたら、成績表に良くない影響があるんじゃないかな」


 その言葉に僕を非難するニュアンスはなく、あくまで僕の成績表を心配する響きのみだった。


「ごめん。気を付けるよ」


 内村さんはさっきまで僕がスマホをいじっていたその一点を見つめて、しばし黙っていた。やがて内村さんはゆっくりと顔を上げて、僕の目を見た。


 内村さんの空気は紅く染まっていた。


「さっきのって、相手は三木さん?」


 いやに冷たい声で言われて、僕は一瞬息が止まりそうになる。


「……い、いや、違うよ」


 嘘を吐く意味もわからないままに僕は嘘を吐いた。


「じゃあ、相手は誰?」

「その……他校の友達だよ。向こうは今昼休みになったらしくて、なんか連絡来たんだよ」

「へえ。そっか」


 ふふっと薄く微笑んで、内村さんは黒板に向き直った。


「西城くんは三木さんのこと好きじゃないもんね?」


 今好き嫌いの話なんてしてたっけ。


「三木さんのこと、好きじゃないもんね?」



 昼休みになったので、学校から出ることにした。


 筆箱をリュックに放り込んで、机の上でリュックのチャックを閉める。


「なァ、サイジョー」


 と、そこで木嶋に肩を叩かれた。思わずびくんと肩が震えてしまった。


「サイジョー、お前三木のことなんか知らない?」

「いや、何も知らないけど」

「そうかー……。んや、三木今日学校来てないからさ、サイジョーは何か知ってるかと思って。知らないならいいんだけどな」


 僕はリュックを背中に背負って、早足で教室を出て行った。木嶋は僕を見届けるだけで、何も言わなかった。


 そそくさと素早く階段を降りて、下駄箱に向かう。購買のほうの喧騒が遠く聞こえる下駄箱で、上履きから靴に履き替える。


 下駄箱から出て傘をさそうとしたところで、背後に足音を聞いて僕の動きは静止した。


「あれ、西城くん、早退するの?」


 雨の日の湿った空気が漂う薄暗い廊下に静かに佇む女子生徒の影がひとつ。


「内村さん?」


 なんでこんなところに内村さんがいる?


「西城くん、どこか具合悪いの? 一昨日よりは顔色良いように見えるけど……」


 内村さんは不思議そうな顔で言いながら、静かに上品な足取りで近づいてくる。


 内村さんの空気は燃えるような濃い赤色だった。


「実はさっきからずっと頭が痛くて、立ってるのも辛いくらいで。だからもう早退するんだ」


 もうこの際だから仮病を使うことにした。


「三木さんのところに行くんだよね?」

「ェ?」

「頭痛くなっちゃったんだ。それはお大事にね」


 内村さんは優しそうに目を細めて、柔和な笑顔を浮かべた。


 僕は内村さんの笑顔を尻目に、駆け足で校門へと向かった。


 音を立てないようにそっと校門を開けて、身体を滑らせるようにして学校の敷地外へ出て、校門をそっと閉じる。奥の中庭に座っている女子生徒二人に見られているように思えたけれど気にしない。


 ぴちゃぴちゃと地面の雨を跳ねさせながら、平日の昼間の歩道を走る。


 途中のコンビニに立ち寄って、昼食代わりのカロリーメイトとレモンティーを買った。平日の昼間に制服姿の高校生がコンビニに現れても、店員たちは一切の関心を向けてこない。


 コンビニを出て、また走り出す。途中、マンホールに足を滑らせて素っ転びそうになったがうまく態勢を立て直して事なきを得て、やっと公園に辿り着いた。


 公園と言ってもここは滑り台やブランコがあるような小ぢんまりとした公園ではなく、木々が鬱蒼と生い茂っていて地面にはしっかりした遊歩道がある、割と大規模な公園だ。


 黒い傘を二人でさして相合傘をしているカップルを追い抜くと、小屋のような屋根の付いた場所で下を向いて座っている一人の女子高生が見えた。


 僕は歩く速度を速めて、昨日よりも紫色の濃さが増しているその女子高生に近づいた。


 そして、レモンティーを差し出す。


 そこでやっと三木は僕の存在に気付いて、驚いたような表情で顔を上げた。


「あれ、サイジョー……」

「お前これ好きだろ」

「あ、ありがと」


 言いながら、三木は紙パックのレモンティーを両手で受け取った。


 紙パックの口を開けて、それをそのまま直接口に付けて飲み始めた。


 レモンティーを飲んでも三木の顔は晴れない。


 曇天の下では三木の紫色も周りの景色に馴染んでいるように見えた。


「なんでサイジョーがここにいるの」


 三木はレモンティーを飲み下してから、絞り出したように掠れた低い声で言った。


「お前が元気なくしてるだろうと思って」

「そりゃ、元気ないけどさ」


 言って、三木はまた顔を伏せる。


 僕が来たところで三木の空気が紫色からぱっとオレンジ色になったりはしない。


 少なくとも、今の時点では、そんなことは起こりようもない。


 雨の降る音が激しくなってきた。


「サイジョーはあたしと違って調子良いみたいだね」

「え? そんなことないけどな。今のお前よりは元気あるかもしれないけど」

「だって今のサイジョーの空気、向日葵みたいに明るい色してるから」

「は?」


 なんだ、それ。


 空気の色って。


「あ、いや、空気の色っていうのは、なんというか……」

「…………」

「あの、さ。今からわけわかんない話してもいい?」


 顔を伏せて、僕から顔を逸らして、三木は静かに言った。


「……あのね、あたしって人の空気の色が見えるの。その人の心を表した空気の色が見えて、て言っても人の考えてることが見えるわけじゃなくて、その、人の気分の色が見えるって言ったらいいのかな。その人の気分が暗かったら暗い色が見えて、気分が明るかったら明るい色が見えるの。言ってる意味、わかる?」

「……まあ、なんとなく」


 本当はなんとなくなんてレベルじゃない。僕はもっと詳細なことまで何でもわかる。


「それで、今のサイジョーの空気はものすごく明るい」


 三木はどこか悲しそうに声を上擦らせて言った。


 僕の空気は明るく見えるらしい。


 僕の空気が明るいのが三木にばれていた。


「なんでサイジョーの空気はそんなに明るいのかな?」

「…………」

「あたしの気分が暗くなっていくたびにサイジョーの空気が明るくなっていくのは、なんでかな?」

「…………」


 三木は身体を動かして、僕から少し距離を取る。


「怖いよ、サイジョー……」


 どくん、と視界が激しく揺れた。


 視界が無数の色で埋め尽くされて、趣味の悪いカラフルな絵画のようになる。


 僕は一度目を閉じた。


 時間をかけて息を吸って、少しずつ吐き出した。


 怖いって。


 三木は僕のことが怖いのか。


 僕は、僕はなんて醜い人間なのだろう。


 あさましくて、卑怯で、根性がひん曲がっていて。


 もうこれ以上ここに居たくない。


 三木のそばには居たくない。


「……ね、ねえ、サイジョー、どうしたの?」


 目を開けると、すぐそばに三木の顔があった。三木の顔は紫色の空気に覆われていて、その表情を確認することはできなかった。


 僕はゆっくりと立ち上がった。


「ごめん、僕はもう帰ることにするよ。木嶋が三木のことを気にしてたから、今からでも学校行ってみたらいいんじゃないか」

「え、う、うん……」


 僕は傘をさして、あくまでもゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように歩いて、公園の出口を目指した。


 すれ違う人の顔は皆一様に、色のついた空気で覆われていた。もやもやと霧がかかったように、人の顔が見えなくなった。


 気が違ってしまいそうになってきた。


 

 駅のホームのベンチに座っていた。


 ここは高校の最寄り駅でもないし、自宅の最寄り駅でもない。普段なら絶対に降りないような駅で降車して、ベンチに座って線路の向こうの景色をぼーっと眺めていた。


 降りしきる雨のせいなのか、視界はぼんやりと霞んでいる。


 公園を出たときからずっと、眼球の奥がずきずき痛む。


 ベンチから身体がずるずると滑り落ちそうになる。


 身体中から力が抜けていた。やる気を失っていた。指一本動かすことさえ億劫だった。このまま世界が終わればいいと思った。


 僕のそばには誰もいない。


 こんな卑怯な人間のそばには、誰もいないのが当然だ。


「西城くん、こんなところで何してるの?」


 いつの間にか僕の隣に誰かが座っていた。ピンク色の空気で顔が覆われていて誰だかわからない。その着ている制服を見るに女子高生だということはわかるけれど。


「いや、別に何も……」

「なんでそんな不思議そうな顔してるの?」


 女子高生は静かに小さく笑いながら言った。


「内村さん?」

「え、顔見てわかんない?」

「ちょっと今視界がぼやけてて」

「あらら、大丈夫? いよいよ頭痛が酷くなってきたのかな?」

「いやあれは仮病」


 内村さんは軽やかにころころ笑う。


 雨が少し弱まった。


「仮病で授業サボっちゃダメだよ~」

「そういう内村さんも、ここにいるってことはサボってるんじゃないの?」

「もうとっくに放課後だよ? 私はちゃんと最後まで授業受けてきたからね」


 気づけば雨は既に止んでいて、道路の濡れたアスファルトをキラキラ照らす晴れ間が見えてきた。


「西城くんが留年しちゃったら私悲しいなぁ」


 今日の内村さんはやたらと口が回る。それによく笑う。その笑顔を見られないのが惜しいと思った。


「お、晴れてきたね。雨の後に晴れると、なんかじめじめした変な匂いするよね」

「内村さんは、なんでここにいるの?」

「私は西城くんのそばにいるから」


 答えになってない。


「どういう、こと?」

「私はずっと西城くんのそばにいるから、何があっても。だから安心して」

「え、いや、だから、どういう、こと、なんだよ」

「西城くん、泣いてるの?」


 鼻の奥がきゅっと締まるような感覚がして、眼球が熱くなる。


 べたべたとペンキが塗られるように視界が色で覆われる。


 頭蓋骨を内側から殴られるような痛みがガンガン響く。


 思わず目を閉じて、こめかみをぎゅっと抑える。


 意識がすーっと頭の奥に消えそうになって、平衡感覚があやふやになる。


 呼吸が覚束なくなって、身体が変な熱を帯び始める。


 何も考えられない。


 自分が今どこにいるのかわからない。


「ゆっくり深呼吸をして、それから目を開けて」


 指示に従って、深呼吸をして、それからゆっくりと目を開けた。


 目の前には内村さんの慈愛に満ちた笑みがあった。


 ……あ、れ?


 空気の色が見えない。


 内村さんの周りに何もない。透けている、というわけでもなさそうだ。木嶋のような色の輪郭さえも見えない。


 能力を手に入れる前と同じ、この視界のすっきりした感じ。


 空気の色が、見えなくなってしまった。


 内村さんの気分が明るいのか暗いのか、わからなくなった。


「西城くんはもう人の気分を推し量らなくてもいいんだよ。これからは私がずっとそばにいるから」


 内村さんがそばにいたら。


 気分の色なんてどうでもいい。


 他人の気分の色が見えたって、所詮僕にはどうすることもできなかった。三木の空気の色は最後まで、暗いままだった。


 そばにいる人の存在があれば、他人の顔色なんてどうでもいいじゃないか。

 

 三木なんて、もう、どうでもいいや。

 

「私がずっとそばにいてあげるからね、西城くん」

 

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