第二篇 梅雨まどろまれず
「ねえ、この『つゆまどろまれず』の『れ』の意味ってなに?」
「下に打消しあったら可能だろ」
「下に打消しあったら絶対に可能になるの?」
「そうなんじゃね。たぶん。知らんけど」
「……そんなアバウトな勉強してて大丈夫なの?」
「いいだろ、別に。俺の勝手だし」
私は今、好きな人を自分の部屋に招き入れて、二人っきりで勉強会をしている。
私の部屋で、裕太と二人っきりで。四角いテーブルを二人で囲んで、その上にノートと問題集を広げて、一緒に勉強している。いつもよりもずっと距離が近い。
なぜ私がそんな夢みたいな状況に身を置くことができているのかといえば、それは私がこの状況を仕向けたからだ。こんな状況に偶然巡り合うことができるほど、私は豪運の持ち主ではない。世の中そんなに甘くない。
昨日の夜。私がお風呂から上がってリビングに入ると、テレビ画面に明日の天気予報が映し出されていた。私の住む地域は、明日の昼から雨が降るらしい。じゃあ明日は学校に傘を持って行かなきゃなあ最近は雨が続いて憂鬱だなあと、いつもならそう思うだけで天気予報なんて軽くスルーするはずなのだけれど、昨日の私は珍しく天才的に冴えていた。まるで脳天に雷が落ちたかのように、近年まれにみるような神をも驚く天才的な発想が、突如私の脳内に降りてきた。
私は下着姿のままで、ソファに放り投げてあったスマホを素早く取り上げて、すぐに裕太とのトークルームを開いた。そして女子高生特有の神速級のフリック入力で、『明日は傘持っていかなくて大丈夫みたいだよ』とメッセージを送った。送った後で、もっと説得力のあるでっち上げの情報を付け加えたほうが良かったかなと思っていたら、裕太から『わかった』とだけ返信がきて、私はにやりとして小さくガッツポーズをした。
そしてその翌日――つまり今日の放課後。裕太は傘を持っていないはずなのに、ホームルームが終わった途端にさっさと教室を出て行ってしまった。まさかこの窓を打ちつけるほどの激しい雨に気付いていないことはないだろうし、いったい裕太はどうするつもりなのだろうかと、少し不安になりながら帰り支度を済ませて、私は二段とばしで階段を駆け下りて、下駄箱に向かった。
そして下駄箱まで来てみると、やはり私の目論見通り、裕太は灰色の空を見上げて立ち呆けていた。私はほくそ笑むのを抑えきれずに、急いで下駄箱から靴を取り出して上履きから履き替えて、裕太に近寄ろうとした。これから裕太に近寄って、私の傘に一緒に入るように誘えば、私の天才的な作戦はほぼ八割がた完遂されたと言っていい。
そのはずだった、のに。
思わぬ邪魔が入った。
私や裕太のクラスメイトである、女子にしては少し背が高いポニーテールの女が、立ち呆けていた裕太に笑顔で話しかけていた。それを見た瞬間に、吊り上がっていた私の口角は急降下した。
あの女は、あまり異性の壁を感じさせず、同性異性分け隔てなく誰とでも気さくに話すことのできるタイプの、常にクラスの中心を陣取っているような人だ。そして最近、あの女がなにかと頻繁に裕太に話しかけに行っているのを私は知っている。こっそり裕太とあの女の会話を盗み聞いてみたところ、どうやら裕太とあの女は好きな漫画の趣味が合うらしく、それで最近あんなに距離が近くなったようだった。
私は密かにあの女に嫉妬している。なぜなら私と裕太との間に共通の趣味なんてないから。あの女が裕太のことをどう思っているのかは知らないけれど、もし裕太のほうがあの女を好きになってしまうようなことがあったら、私はそれを目の当たりにしたその日に日本人らしく腹を切って自殺するだろう。あの女は、あまり認めたくないけれど、客観的に見て魅力にあふれている。見た目にしても性格にしても、私があの女に勝てる要素が何一つないくらい、彼女は魅力にあふれている。だから、裕太があの女のことを好きになってしまうなんて最悪の事態は、そこまで低い確率の話ではないのだ。
あの女を裕太に近づけてはいけない。
あの女は、天気予報に出ているのだから当然だけれど傘を持っている。まずい。明るくて気配りのできる彼女のことだから、傘を持っていない裕太を気遣って、何の他意もなく裕太を自分の傘に入れようとするかもしれない。彼女に先を越されるわけにはいかない。
胃の中に澱のような黒い物体がどんどん溜まっていく。
仕方ない。少し強引な手を打とう。
深呼吸をして、覚悟を決めた。
私は走って裕太に近づいて、その勢いのままに裕太の手を握った。
裕太は驚いたような、困惑したような表情で私を見下ろした。
「裕太、えっと、昨日傘持って行かなくていいって言ったのに、雨降っちゃって、その、ごめんね?」
久しぶりに握った裕太の大きくてざらざらした手の感触によって心臓が高鳴り、血の巡りがおかしくなって頭が上手く回らなくなって変な日本語になってしまった。でも、裕太の意識をあの女から逸らして私に向けさせるには、こうして手を握るしか方法がなかったのだ。
恥ずかしくて裕太の顔が見られない。
「いや、俺がちゃんと天気予報見てなかったのも悪いし……」
言いながら、裕太は私の手をぎゅっと握り返してきた。
また私の心臓は大きく跳ねる。
「だから、そのお詫び、みたいな感じで、私の傘に、入らない?」
すると、裕太を挟んだ向こう側にいたポニーテールの女が、「お、そういうことなら裕太くんが風邪ひく心配もないね。じゃ私はお先失礼するね~」と言ってから、傘をさして小走りで校門のほうへと駆けていった。明るくて人気な彼女は空気を読むのも上手いらしい。
これで裕太は私の傘に入るしかなくなった。
私は名残惜しいのを我慢して裕太の手を離して、傘を開いた。裕太と一緒に入れるように、今日はお父さんの大きめの黒い傘を持ってきた。これで私たち二人とも肩が濡れる心配はない。
「ほら、裕太のほうが背高いんだから、裕太が傘持って」
「お、おう……」
裕太は照れ臭そうに目線を逸らしながら、素直に傘を受け取った。
私は裕太の隣に並んで、肩を寄せる。肩が触れ合う。
裕太が身を逸らすようなこともない。
どちらからともなく歩き出して、それから二人で同時に校門を踏み越えた。
さて、作戦が八割がた終わったと言っても、まだ残りの二割が残っている。つまり、ここから裕太をうまく私の家へと誘導するという大事なフェーズがまだ残っているのだ。こうして相合傘にもちこむのがひとつの山場だったけれど、山場を越えたからといって簡単に気を抜くわけにはいかない。これからの展開で私が勇気を出し渋ってしまえば、そのままなんとなく裕太と解散することになり、私の今までの作戦が全て水泡に帰す。
幸い、私の家と裕太の家は、途中までは同じ方向だ。私たちは小学校も中学校も高校も全部同じ学校に通っているから。
裕太は私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれているし、時間に余裕はある。だからといって悠長なことをしていられるわけではないけれど。
しばらく裕太と無言で道路を歩く。
白状すると、私はこれから裕太を家に連れ込むための口実をひとつも考えていなかった。だから今こうして必死になってちょうどいい口実を考えているのだけれど、なかなかぱっとするものが思いつかない。「靴下濡れちゃったでしょ? 私んちで乾かしていかない?」とか。いやでもなんか裏の意図が透けて見えちゃってる気がするしなぁ……。なんで何も考えてなかったんだ昨日の私……。
ふと、道路を挟んだ向こう側の歩道沿いのコンビニに、ひとつのカップラーメンを、顔を寄せ合って二人で麺を啜っている、私たちと同じ高校の生徒らしきカップルが見えた。こんな雨の中いったい何を馬鹿なことをしているのか、ひとりひとつずつカップラーメンを買おうとは思わないのか、こんな公共の場で堂々と男女で顔を寄せ合っていて恥ずかしくないのか。
そのカップルの様子がなんだかおかしくて、私は裕太にそれを教えようとした。そのおかしさを共有しようとした。
「ねえ裕太、あれ見て」
「え? うわっ」
その瞬間、かなりのスピードを出して走っていた自動車が、とんでもない水しぶきを上げながら私たちの脇を通って行った。
そうなると当然、私たちにその水しぶきがぶっかかってくるわけで。
道路側を歩いていた裕太は全身ずぶ濡れになってしまったけれど、歩道側を歩いていた私は裕太が盾の役割をしてくれたおかげでほとんど濡れずに済んだ。
「クソがよ……」
ぽたぽた水滴を垂らしながら、悲壮感満載に言う裕太。
「あらら……」
と、私は表では裕太を心配した風を装い、しかし心の内ではにやりと口角を吊り上げていた。おあつらえむきにちょうどいい口実を用意してくれてありがとう神さま。
ずぶ濡れになっちゃったら、一旦着替えないと風邪ひいちゃうもんね。
「ね、ねえ裕太」
「なんだよ」
腕を振って手のひらについていた雫を振り落としながら裕太は不機嫌そうに答える。
「私の家もうこのすぐ近くだからさ、私んちでシャワー浴びていかない?」
「え……いや、いいよ別に。なんか悪いし」
裕太は一瞬驚いたような顔で私を見て、またすぐ視線を外して不機嫌そうな表情に戻った。
裕太は私の誘いを断った。
私という女の子が家に誘っているというのに、さほど興味も持たずにあっさり切り捨てるなんて。完全に予想外だった。良いタイミングでそれっぽく誘ってしまいさえすれば、裕太はほいほいついてきてくれるはずだと踏んでいたのに。
この私という女子高生が家に来てもいいと言っているのに断るなんて、本当に男子高校生なのかこいつ。
「で、でもさ、そのまま帰ったら風邪ひいちゃうかもしれないでしょ?」
「このぐらいで風邪ひくほど貧弱な身体してねぇよ」
まさか二度も断るなんて。裕太は私のことを女子高生だと認識していないのだろうか。十七歳の女の子の家にあがりこめる機会なんて、人生にそう何度もあるものではないのに。
だがしかしここで、「もしかして裕太って私のこと嫌いなのかな……」なんて風に弱気になってはいけない。この程度で弱気になっているようなマインドでは、自分の恋を成就させることなんて到底不可能だ。
こんなことでひるんでいる場合ではないのだ。
今日はちゃんと踏み出すって決めたんだ。
「もー、いいから、人の厚意は素直に受け取っとけばいいの! ほら、行くよ」
「なんだよ、強引だな。わかったよ。行けばいいんだろ行けば」
やれやれといった風に裕太はそう言って、やっと私の家に行くことを認めてくれた。
まあ、どうせ裕太のことだから、自分はあくまでも不本意に私の家に行くのだというていを作りたかっただけなのだろう。そのために最初は私の誘いを断ったのだろう。そういうことにしておこう。
「ていうかお前さ、今日、家に親とかいないの?」
また歩くのを再開してから、裕太は前髪を弄りながらなんてことのないように訊いてきた。ちなみに、裕太の髪までは濡れていない。
「んー、一応いないけど。夜には帰ってくる」
「ほーん、あっそう」
「なに、なんかやらしいこと考えてた?」
「そんなわけねぇだろ馬鹿」
「馬鹿とか言うなし」
「あ、アホ」
「おんなじ意味じゃん」
ふふふと私が笑うと、裕太の頬が若干紅くなったのを私は見逃さなかった。見逃さなかったけれど、特に何も言わなかった。
まだそれを言うべき時ではないのがわかっていた。
*
「着替え、ここに置いておいたからね」
「ああ、わかった」
「じゃあ、私、二階の一番手前の部屋で待ってるから、シャワー終わったら来てね」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「なに? 今家に私以外誰もいないから、部屋間違えても大丈夫だよ?」
私が言うと、洗面所の扉ごしに見える人影が少し動いて、蛇口をひねる音と共にシャワーの音が止んだ。
「そうじゃなくて。その……、ありがとな。色々やってもらって、シャワーまで借りちゃって、さ」
「どしたの急に」
「いやまあ、一応礼儀だから」
「……ふふふ」
「なんもおかしいこと言ってないだろ俺」
「なんでもないよー」
胸の中で暖かい感情がどんどん膨らんで、はちきれそうになって痛いのを我慢しながら、私は洗面所を出て、鼻歌混じりに家の階段を駆け上った。
やっぱり好きだなぁ、と何度目になるのかもうわからないほど繰り返し思った気持ちが、また今日も心の中に浮上してきた。私の心臓が早鐘を打っているのは階段を駆け上がったせいだけではない。
それから私が部屋で勉強しながら待っていると、すぐに髪の湿った裕太が部屋に入ってきて、そして今、私と裕太は同じテーブルを囲んで一緒に勉強している。
なぜ二人っきりの状況なのにわざわざ勉強をしているのかといえば、それは私たちが今年から高校三年生で、もう受験当日まで十カ月もないからだ。好きな人と密室で二人っきりだったとしても、受験勉強を怠るわけにはいかない。……というのは表向きの嘘で、本当は勉強なんていうのは裕太と同じ空間にいる時間を少しでも長くするための口実にすぎない。その証拠に、今日の私はまだ一問しか問題を解いていない。さっき裕太に質問した、助動詞『れ』の意味の識別の問題だけ。
まあ、受験勉強のことは今はあまり考えなくていい。こんなものは後でいくらでも追い上げが効く。今は受験勉強よりもずっと大事なことが、目の前にある。
私は今日、裕太に告白しようと思う。
今日はたまたま作戦がうまくいったけれど、もう一度やったら同じようにいくかわからない。二度目はさすがに裕太も私の誘いに乗ってくれないかもしれない。こんな二人っきりの状況は、どんな作戦をたてても、二度とめぐってこないかもしれない。
なんとなく、今日告白することができなかったら、もうこの先一生裕太に告白できないような気がしている。今日を逃してしまうと、何もできないままあっという間に卒業の時期になって、卒業後はどんどん裕太と疎遠になっていって、裕太は私の知らないところで私ではない女の子と色んなことをして……というような最悪のヴィジョンがなんとなく見える。
だから、絶対に今日、決着をつけなければならないのだ。
私はペンを持ってノートに向かって、勉強するふりをしながら、不審がられないようにちらちらと裕太の顔を盗み見ていた。裕太は私よりも十五センチくらい身長が高いけれど、こうして床に座っていると目線の高さが同じになる。それがなんだか新鮮だった。
現代文の問題文を読んでいる裕太の横顔は真剣そのものだった。素早く視線を上下に動かしているその姿は、いかにも頭が良さそうだけれど。
そういえば裕太の偏差値ってどのくらいなんだろう。思えば今まで訊く機会が一度もなかった。私より上なのか下なのか。
私はできれば裕太と同じ大学に行きたいと考えている。私に行きたい大学なんて特にないし、将来の夢も野望もない。だからせめて、裕太と同じキャンパスライフを送ることを選びたい。
だから、裕太がどのくらいの偏差値なのかは把握しておきたいところなのだけれど。
裕太って頭良かったっけなぁ……。
と、記憶の本棚を手あたり次第に漁っていたら、ふと思い出した。そういえば裕太は、高校一年生のときに数学のテストで学年一位を獲ったことがあった。わざわざ得意気に私のところまで自慢しに来て、私が素直に「すごいじゃん!」と言うと裕太は露骨に照れていたから、よく憶えている。その後も、裕太は数学だけは順位一桁をキープしていたらしいことをどこかから又聞きした。
考えてみれば、裕太は中学生のときから数学が得意だった。中学生のときも、数学が苦手な私はよく裕太に質問しに行っていた記憶がある。
裕太と反対に、高校二年になっても相変わらず数学が苦手だった私は、自動的に文系クラスになった。
しかしなぜか、数学が得意なはずの裕太も文系クラスを選択していた。そして三年生となった今も、裕太と私は同じクラスに所属しているわけだけれど。
裕太はなぜ文系を選んだのだろう。
理科の科目がとんでもなく苦手なのだろうか。
それだったら私もわかる。私も、数学よりもどちらかというと化学とか物理のほうが苦手だった。
と、そんなことを考えながら、またちらりと裕太を見ると、いつの間にか、裕太は首を直角に下に折り曲げて眠りこけていた。まるでお化け屋敷に置いてありそうなオブジェみたいな眠り方だ。一瞬死んだのかと思った。
現代文の文字列を読んでいたら眠くなってしまったのだろうか。そんな人が文系で受験して本当に大丈夫なのだろうか。
ていうか、同級生の女の子の部屋で眠れるなんて、ずいぶんと神経が図太いよなぁ。
私はドキドキしっぱなしで、少しまどろむことさえできないというのに。
私が裕太に信頼されている証拠だと喜ぶべきなのか、私が女として意識されていない証拠だと失望するべきなのか。
ふと、床をついていた裕太の手が目にとまった。細長い指に、手の甲は少し骨ばっていて、何本か血管が浮き出ている。裕太の手なんてまじまじ見たのは初めてかもしれない。私の手と見比べてみると、私の指はそんなに細長くないし、手の甲は骨ばってもいない。でも血管は少しだけ浮き出ていた。
裕太の手はいつからそんな男っぽい仕様になったのだろう。
私と裕太は、小学五年生のときに出会った。そして、小学五年生から高校三年生まで、神の悪戯か、なぜか私と裕太はずっと同じクラスだった。
私が裕太への恋心をはっきりと自覚し始めたのは、中学一年生のときのことだった。
裕太の顔は、まあ、ブサイクではないと思うけど、そこまでイケメンというわけでもないと思う。それは身体が大きくなった今も変わらない評価だ。だからつまり、私は裕太に一目惚れをしたのではなかった。
最初こそ裕太のその荒い口調が怖くて、異性の私には近寄りがたいなあと思っていたものの、裕太の心の根底にある誠実な優しさの存在に気付いてからは、裕太に対して露ほども恐怖心を感じなくなった。むしろ、その荒い口調に親しみを覚えるくらいだった。それから何かきっかけがあったわけではなく、自然と段階を経て、私は裕太とよく話すようになっていった。
いつからか私の中には、裕太と一緒に話しているときにだけ出現する、正体不明の感情が芽生え始めていた。その感情は、いつもはぽっかりと開いているはずの心の小さな穴を、埋めて満たしてくれた。つまり、私は裕太と一緒に話しているときだけ、その心の小さな穴を埋めることができた。
でも、他の男子と話していても、その心の小さな穴が埋まることはなかった。女子の友達と話していても、それは同じことだった。
裕太と話しているときだけ、特別な感情が出現して、心が満たされていく。私はその現象に早い段階で気付いていたけれど、その正体が恋心だとは気付いていなかった。
中学一年生のとき、私が裕太と話しているときにあまりにも楽しそうに笑っていたのが気になったらしく、友達が「あんた裕太くんのこと好きなん?」といかにも中学生っぽい疑問を訊ねてきた。そのときまで私は、誰かを好きになるような感情が自分の中にあるなんて考えたこともなかった。恋心のことをどこかで、所詮漫画や小説の世界にしか存在しないものなのだろうと思い込んでいた。
私は裕太のことが好き、と心の中で念じてみると、不思議とそれが心のもやもやした部分にすっぽりとはまった。めちゃくちゃ勉強してきた後の社会科のテストみたいに、その答えがすっぽりとはまる感覚があった。
自分が裕太のことを好いていると自覚して、私はそれに全く抵抗感を感じなかった。
でも、私は裕太のことが好きで、それで、じゃあ何をしたらいいのだろう? 中学生の私にはそれがわからなかった。
わからないままに中学校を卒業して、何かしなきゃいけないことは理解しつつも高校生活を二年間過ごして。
中学一年生から今までの五年間、色々なことが変わった。私たちの身体も心も成長したし、私たちの環境も変わった。だけれど、私の中の裕太への恋心は、全く不動に変わらなかった。
そして今、私はこの五年間の片想いに決着をつけようとしている。
私はそこまでの覚悟を決めて緊張感を持っているのに、対する裕太は暢気に眠りこけている。
もういっそのこと、眠っている裕太の耳元で囁くようにそれとなく告白してしまおうか。いやしかし、それだと裕太が聞こえなかったふりをしてはぐらかしてしまうかもしれない。もっとはっきり言わないと。失敗は許されないのだから。
でも、一回くらいは試しにやってみてもいいかもしれない。
私は床に手をついて、自分の顔を裕太に近づけた。裕太とここまでゼロ距離になったのは初めてだ。
「ねえ、裕太」
裕太の耳元で、とても小さい声で囁いた。思わず色っぽい声が出てしまって恥ずかしい。
「…………あの、近いんですけど……」
「え?!」
私は慌てて裕太から飛びのいて、距離を取る。
なんだ、起きてたのか。
いつから?
「何してたのお前」
裕太は怪訝そうに言った。そんな犯罪者を見るような目を向けないでほしい。
「いや違うの! えっと、顔にゴミが付いてたから、その、取ってあげようと思って」
「誰の顔がゴミだらけだよ……」
裕太は照れ隠しをするように手で顔半分を覆いながら、そう言った。
今更だけど、裕太は私のことだけは「お前」と呼ぶ。いや、もちろん裕太の男友達も「お前」と呼ばれているけれど、女子の中では、私だけが唯一だ。
さっき下駄箱で裕太に声をかけていたあのポニーテールの女子だって、「お前」とは呼ばれずに苗字で呼ばれている。
まあ、考えてみれば当たり前のことだ。私は、裕太がまだ私よりも身長が低かったころから裕太のことを知っているのだから。あんな、高校三年生になってからやっと裕太と知り合ったような女と私とでは、裕太との関係性は全然違うはずだ。あの女は、自分よりも少し目線の低い裕太を見たことがないのだから。
男子に「お前」と呼ばれて不快に感じる女子もいるらしいけれど、私は全く不快だとは思わない。むしろとても嬉しく思う。裕太が私のことを、他の女子とは少し違った存在として見てくれている証だから、とても嬉しい。
「寝てた、の?」
「ちょっと休んでただけだよ、寝てない。寝れるわけないだろ」
「……どういう意味?」
「……なんでもねぇよ」
裕太は気まずそうに顔を逸らす。
寝れるわけがない、とはどういうことだろう。今日の授業中に居眠りをしていて、今はそこまで眠くないから眠れないということか。
それとも、私と同じ理由で眠れないのか。
……私と同じ理由だったと信じるしかない。
賭けみたいになっているけれど、突き進むしかない。どちらに転ぶにしても、突き進んだ先に後悔は横たわっていないはずだから。
私は両手をぎゅっと握りしめた。
「あの、さ。私、本当はゴミを取ろうとしてたんじゃないの」
「え?」
「あのね、本当は裕太に伝えたいことがあってね。その……」
「……ああ」
「あ、あのね、その、私、裕太のことが、むぐっ!」
突然、裕太が私の口を塞いできた。私の両頬を掴むようにして、私の口を塞いできた。
「ちょっと待て。お前に先に言わせるわけにはいかない」
「……っ!」
急に裕太の目の色と顔つきが変わった。いや、私の視界のほうが変わったのかもしれない。どちらにしても裕太の雰囲気が、急にしゅっと締まったようになった。
対する私は目を白黒させて、頭はひどく混乱していた。裕太に掴まれている頬がみるみる熱くなっていくのが自分でもわかる。
「唐突すぎるんだよ、お前」
「…………」
「こういうのは男のほうから言うもんだろ」
別にそう法律で決まっているわけじゃないのだからどちら側から言ってもいいと私は思うけれど。というか自分でそう思っていたのなら私が動き出す前に裕太のほうから言ってほしかった。
五年間も片想いして、こんなまどろっこしい作戦を立ててかなりの覚悟を決めてからやっと、それ相応の勇気が出せるようになるような、私はそんな面倒くさい女なのだから。
最後は裕太に託さないと、私では決着がつけられないのかもしれない。
「もうわかってると思うからストレートに言うぞ。……俺と、付き合ってほしい」
ここで、「付き合ってください」なんて風に敬語で言わないのがなんとなく裕太らしいなあなんて、なんだか的外れなことを混乱した頭で考えた。
もちろん私の答えは決まっている。
「ふぁ、ふぁい……」
口を塞がれたままだったから、とても間抜けな声になってしまった。だけれど私の気持ちは伝わったので、よし。
心臓が痛いほど激しく拍動している。
「じゃ、じゃあ、その、よろしく」
顔を真っ赤に染めた裕太が、言いながら私から手を離した。
「よ、よろしく、お願い、します……」
と、私は裕太の顔が見れないままに言った。
今この瞬間から、私と裕太の関係は決定的に変わった。
知人なのか友達なのか親友なのかよくわからないおぼろげな関係から、はっきりと「恋人」という関係に変わった。
それから、二人ともお互いの顔を見ることができずに顔を逸らしあいながら、しばらく沈黙した。
「…………」
「…………」
とんでもなく気まずい。そういえば告白した後のことなんて考えたこともなかった。
何か恋人っぽいことを言えばいいのか。いや恋人っぽいことって何だ。誰かの恋人になったことがないから相場がよくわからない。
いや、もう少しシンプルに考えて、ここは、せっかく恋人になったのだし、それに今は二人っきりの状況なのだし、何かエッチなこととかするべきなのだろうか。しかし、少し気が早すぎるか。今は何の用意もないし。裕太に引かれてしまうかもしれない。付き合い始めて数分で彼氏に引かれたくはない。
「……なあ、勉強、するか」
絞り出すように言った裕太の声が、もうお互いに恥ずかしい時間は終わりだという合図のように聞こえて、私は少しずついつもの調子を取り戻し始めた。気まずさもだんだんと和らぐ。
まず顔を上げて、壁の時計を見た。時計の短針はいつの間にか六の数字までたどり着いていた。まずい。六時半ごろには母親が帰ってくる。
「いや、もうすぐ親帰ってくるから、もうそろ帰った方が良いかも」
「え、あ、そうなの?」
言いながら、裕太は立ち上がる。さっきまで恥ずかしさのあまり頭に血が上っていたせいなのか、裕太は軽い立ち眩みを起こしていた。
「制服、まだ乾いてないんじゃないかな」
「別に乾いてなくてもいいよ。俺ちょっと着替えてくるわ」
裕太が部屋から出て行って、そのドアが閉じられた瞬間、私は深い深いため息を吐いた。心臓の拍動が徐々に徐々にいつもと同じリズムに戻っていく。
私はなんとなく、裕太との関係性が再びふりだしに戻ってしまったような気がしていた。初対面の気まずさとは種類が違うけれど、しかしそれとよく似た気まずさが、私と裕太の間を漂っている。
いや、確かにふりだしに戻っているけれど、そのふりだしは以前とは違うふりだしなのだ。ゲームで例えれば、W1-4からW2-1に来たみたいな。同じステージ1は前にも通って来たけれど、今度のステージ1はワールドが違う。
これからは、今までの五年間とは全く違った日々が始まるのだろう。明日からは、裕太と私を取り巻く何もかもが、以前とは違う風に目に映るのだろう。以前とはなにもかもが全く新しい日々が、明日から始まるのかもしれない。
私はそんな新天地を前にして、不思議と一切不安が湧いてこなかった。
お互いの気持ちを確かめ合って認め合った今の私たちに、怖いものなど何一つないような気がする。
私はもう一度大きく息を吐いてから、おもむろに立ち上がって、新天地を開拓するための第一歩を踏み出した。
慣れ親しんだ自分の部屋でさえも、まるで別世界のように見えた。
*
「傘、借りていっていいよ。明日学校で返してくれればいいから」
家の玄関前で、私は黒い傘を差しだす。
「ああ、ありがとう」
裕太に傘を受け渡すときに少し手が触れ合って、私は少し触れ合うだけじゃ満足できなくて、傘を握る裕太の手を、上から被さるように握った。
「な、なんだよ」
「ちょっと触りたくなっただけ」
私は撫でまわすように裕太の手を触りまくってから、手を離した。
「別に、手くらいいつでも触れるだろ」
「……そうだね」
さっきからずっとにやにやが止まらない。表情筋が全く言うことを聞いてくれない。でも、このにやにやしただらしない顔を恋人に見せたくないという気は特に起こらないから、構わない。
裕太とは昔から知っている仲だからなのか、恋人同士になっても、自分の素に近い姿を晒すことに抵抗を感じない。見方によっては問題なのかもしれないけれど、私本人が問題だと思っていないからどうでもいい。
素を見せられる恋人って素敵~。
「じゃ、また明日」
「うん、また明日、ね」
裕太はバサッと傘を展開して、私に背を向けて、玄関から去っていこうとする。
気づけば私は裕太の服の裾を引っ張っていた。
「なに、どうした?」
裕太はすぐに優しそうな顔で振り返った。さっきみたいな怪訝そうな顔ではない。当然だ。去っていく恋人を引き止めるくらい、彼氏彼女の関係なら自然なことだから。
私はすっと裕太の傘の中に入る。
裕太に見下ろされる形になる。
ぱらぱらと傘を打つ雨の音が一層うるさく聞こえる。
「どうしたんだよ」
はにかみながらそう言う裕太を、上目遣いで見た。
特に用があって引き止めたわけではない。
ただ裕太とまだ別れたくなくて。また明日も会えることはわかっているけれど、なんだか今は一時も離れたくないような気分で。
どうしようか。
今日は付き合った記念日だし、少し欲張ってみようか。
「き、キスとかしないんすか」
「……え、あ、いや、はぁ?」
裕太はさすがに不意打ちだったようで、わかりやすく面食らっていた。
でも、面食らってもらっていては困る。
「キス、したいなぁ私、キス」
「わ、わかったから。そんなキスキス言うな」
裕太は照れ臭そうに頭を掻いて目線を逸らしてから、やがてふぅと軽く息を吐いて、恥ずかしさに必死に耐え忍ぶような穏やかじゃない表情で、私を見下ろした。
「目、閉じろ」
「…………うん」
あ、本当にするんだ、キス。
私は言われるがままに目を閉じた。唇は動かさない。どう動かしていいかわからないから、何も動かさない。
やがて、生暖かいざらざらした柔らかい物体が、唇にそっと触れる感覚がした。
唇が触れた。
触れた。
触れるだけなのか。
裕太もやり方を知らないのか。
私はゆっくりと目を開けた。裕太はさっきと同じ穏やかじゃない表情のままだった。
私の表情筋はまた緩んで、にやにやし始めた。
「裕太キスへったくそだねぇ」
「しょ、しょうがないだろ。初めてだったんだから」
「これから一緒に上手くなっていこうね」
「……お、おう」
裕太はどこかよくわからない方向を見ながら、くしゃくしゃと乱雑に私の頭を撫でた。これはどういう意味の頭なでなでなんだ。それに髪型が崩れるしあんまりやらないでほしい。でもたまにはやってほしい。
「じゃあ、今度こそ帰るから」
「また明日ね。明後日も明々後日も、その次の日もそのまた次の日も会おうね」
「わかったから。じゃあな」
裕太が離れていくと、頭上から傘が消えて直接雨が降りかかってくる。でもそんなことはどうでもよかった。
私の表情はにやにやを超えてでへでへになっていた。
私は裕太の姿が完全に見えなくなるまで、馬鹿みたいに雨に打たれながら手を振り続けていた。
自分の髪が頬に張り付き始めたころ、裕太の姿が完全に消えた。
私は一度大きく深呼吸をした。それでも胸の高まりは全然弱まってくれなかった。
もはやでへでへさえも超えてくすくすと笑い始めてきた。
裕太と離れていても、まだこんなにドキドキするなんて。
今夜は少しも眠れそうにないな。
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