ラブコメ恋愛短編集
ニシマ アキト
第一篇 青春のカタチ
「球技祭なんてクソ喰らえ」
球技祭の日の昼下がり。バレーボールの準決勝戦が行われている体育館から、一人でそそくさと抜け出して、誰もいない閑散とした薄暗い廊下を、僕はだらだらと歩いていた。後ろの体育館から聞こえてくる歓声の残響が廊下の床に溶けていく。
バレーボールの試合の観戦には早々に飽きた。いや、飽きたというか、見ていられなかった。準決勝にまで進むような強豪チームには、チーム内に必ず一人は、ミスして失点した人を露骨に強く睨んで、無言の非難を浴びせかけるような厄介な輩がいる。別に球技祭で負けたからといって死ぬわけでもないのに、周囲に恐怖をまき散らすほど試合に本気になっているようなズレた人が必ずいるものなのだ。彼らのその無言のやり取りは、見ていてあまり気分のいいものではない。むしろどんどん気分が悪くなる。確かに、ああいう厄介な人の存在がチームを勝利に近づけているという側面もあるのだろうけれど、僕は、あんな無言の圧力をかけられるくらいなら、潔く敗北するほうを選ぶ。
それに加えて、どちらかのチームが得点するたびに、鼓膜を切り破らんばかりの歓声が巻き起こるのも、鬱陶しかった。ああいう雰囲気は苦手だ。
ホイッスルの音が聞こえてきたのが気になって、渡り廊下の窓から校庭のほうを覗いてみると、いかにも体育会系然とした屈強な体格の男子たちが、足元のサッカーボールを求めて押し合いへし合いしていた。よく見てみると、今日の午前の試合で、相手チームである僕のことを、その頑強な肉体でもって僕の身体ごと吹っ飛ばしてきた三年生の姿もあった。彼は今も何食わぬ顔でボールを追いかけている。僕に対する罪悪感は微塵も感じていなさそうだ。僕というひ弱な下級生を相手にしているのだから、彼も少しは容赦というものを考えてほしかった。今なおずきずきと痛む左肩をさすりながら、僕は窓から離れた。
この学校の球技祭はトーナメント形式で、一度負けてしまうともう出る試合がひとつもない。そして僕たちのチームは、例の三年生に吹っ飛ばされた午前のサッカーの試合で、とっくに敗退している。だから僕はこんなにも暇を持て余しているのだった。そうして暇になったのならば、同じクラスのチームなり知り合いのチームなりの応援に勤しむべきなのだろうけれど、なんとなくやる気になれない。あの青春渦巻く体育館に適応できない。
吹っ飛ばされるしあっさり負けるし、サッカーなんて選ばなければよかった。
と、あてもなくぶらぶら歩いていたつもりが、無意識に自分の教室へと足が向いていたようだった。気づけば頭上には、既に見慣れた2年A組の札があった。ちょうどいい。この際、球技祭が終わるまで机に突っ伏して眠っていよう。他のクラスメイトたちはみんな体育館に行っているだろうし、教室を独り占めできるだろう。
僕は教室の扉を横にやをら開いた。
「あ、」
と、声が短く聞こえて、僕はその人物と目が合った。
「あ……」
女子が一人。教室の後方で、着ているTシャツの中に手を突っ込んだまま、静止している。真っすぐにこちらを見つめたままで、時が止まったように静止している。
彼女は腹の底が読めないような無表情だった。
その双眸の眼球は全く微動だにせず、ただひたすらに僕の瞳を射抜くように見つめている。
そうして三秒間くらい、二人で見つめあった。
彼女が服の中に手を突っ込んでいることと、そのそばの机の上にある大きめのポケットティッシュのような紫色の物体を見るに、彼女は着替え中というわけではなく、ただ汗拭きシートで身体を拭いていただけらしいことを察することができた。
だからつまり僕は、女子の着替えの現場にばったり遭遇してしまったというわけではない。この教室は、そんなラッキーで犯罪的な現場ではない。
僕に咎められるようないわれはないはずだ。
だから、彼女が服の下側から手を突っ込んでいることによって露わになったその白い下腹部を僕が見てしまっていても、そのレアな光景を僕が目に焼き付けてしまっていても、僕は何も悪くないはず。無罪のはずだ。
だけれど僕はなぜだか言い訳を考え始めた。
「あー、いや、その、え、えーっと……」
後頭部に手を回して、目線を逸らしながら、僕は必死に弁解を試みた。何に対する弁解なのかもわからないままに。
「…………」
そんな風に僕があたふたしていると、彼女は僕から視線を外して、無言で無表情で何事もなかったかのように、身体を拭く作業を再開した。
つまり彼女は僕の存在を無視した。
とりあえず、彼女は僕に対してなんら不快な感情を抱いていないようだった。不快に思っているなら、さすがに何らかのアクションを起こすはず。僕はほっと安堵すると同時に、なんだか拍子抜けた。後頭部に回していた手をだらんと垂れ下げて、小さく嘆息してから自分の席に座った。
僕の席はちょうど教室の中心辺りにあるから、後方にいる彼女の様子を観察することはできない。だけれど、彼女は僕にとって、まだ一度も話したことのないような、まだ名前も覚えていないような、ただのいちクラスメイトでしかないから、別に気にならない。
二人っきりの教室で、彼女の衣擦れの音だけが虚しく響く。
時折、うっすらと体育館の歓声がここまで轟いてきた。
僕はだらしなく上半身を机の上に投げ出して、ぐてーっとした体勢で虚ろにスマホを眺めた。本当ならこんな窮屈な教室ではなく、家のベッドでくつろいでいたいけれど、学生とは縛りの多い身分なので仕方ない。
やがて、スマホをスクロールする親指が空中で止まって、うつらうつらと瞼が重くなってきたとき。
「ねえ、体育館、行かなくていいの?」
後ろからさっきの女子が声をかけてきた。
閉じかけていた瞼をなんとか持ち上げる。
「え……ああ、僕は、いいや」
「でも、みんな行ってるよ?」
お互いの顔を見ずに、そしてかなり距離が空いた状態での会話。お互いの様子を窺い知ることはできない。
「んー、別に大丈夫だよ。僕ひとりぐらいいなくても」
「……一緒に行く?」
「え」
「体育館、一緒に行こうよ」
僕は身体をひねって、後ろにいる彼女の姿を窺い見た。限りなく無表情に近い、無愛想な表情だった。
「一緒に?」
「うん。だって、今試合してるの私たちのクラスのチームでしょ? だったら応援いかないとダメじゃん」
「ダメってことないと思うけど……」
「じゃあ行かないの?」
「あんま行きたくないなあ、なんて……」
「そういうことしてるとみんなに嫌われるよ」
一瞬、僕の表情が歪んだ。彼女の声に、だんだん、面倒な子供を相手にしているような響きが加わっているのも気になった。
「じゃあ、わかった。行くよ」
僕が言うやいなや、彼女は一人でさっさと教室を出て行ってしまった。また無言で無表情で。
蛍光灯の消えた薄暗い教室で、一人だけ取り残される。
僕は一旦体を伸ばして、背骨をぱきぽきと鳴らしてから、小走りで彼女のあとを追った。
突き当りを曲がった渡り廊下に、僕と同じ青いクラスTシャツを着た彼女が立っていた。半身で振り返って僕の姿を確認すると、彼女はまた僕を待たずに歩き出した。
縦に微妙に距離が空いたまま、僕は彼女の背中を見ながら、歩き出す。隣り合って歩きたくはないのか。
二人の足音だけしかない廊下を歩きながら、僕は喉がきゅっと締まるような気まずさを感じていた。
僕から何か話題を振ったほうがいいのだろうか。いやしかし、下手なことをして失敗して、幻滅されるようなことがあったら、僕の今後の高校生活が危ぶまれてしまう。だが彼女は僕のことを誘ってくれたわけで、それならば今度は僕が彼女に何かしてあげるべきなんじゃないか。
「あ、サッカーやってる」
と、僕がごちゃごちゃ考えていると、彼女が不意に立ち止まって、窓のサッシに手をかけて校庭を見下ろした。僕も立ち止まって、彼女との距離は空けたまま、彼女と同じように校庭を見下ろす。
「内田くん、今日サッカーの試合出てたよね」
「え? ああ、うん」
彼女は僕の名前を覚えていたらしいことがわかった。だが僕は彼女の名前を覚えていない。小さな罪悪感に苛まれる。
「見てたよー、吹っ飛ばされてたの」
「できればそれは早く忘れてくれると助かるかな……」
「だよねー、ちょーカッコ悪かったもんね。それよりさ、肩、大丈夫だった?」
言いながら、彼女は僕に近づいてきて、そして、僕の左肩にそっと触れた。
少しひんやりした手が、優しく撫でるように左肩を触れる。
左肩の痛みが増した。身体の中で何かが持ち上がるような感覚があった。
「だ、大丈夫だよ」
鼻の奥にすーっと滲みるような匂いがした。汗ふきシートの匂いか。
僕は一歩後ずさって、距離をとった。
彼女は一瞬驚いたような表情になった。
「……あ、そう。なら良かった」
それだけ言って、彼女は身をひるがえして、また歩き出した。
心なしか、彼女の歩くスピードがさっきよりも少し速くなっていた。足音も大きくなっている。
……少し怒らせちゃったかな。
そのままお互いに無言で歩いて、体育館の入口まで来たところで、彼女は立ち止まって僕に振り返った。
体育館の床とシューズが擦れる音が、いくつも無造作に耳に入り込んでくる。
「着いたよー」
「うん。……入らないの?」
僕が言うと、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「入るよー」
僕も彼女の後に続いて体育館の中に入った。体育館に入った途端に、周りの何もかもががらっと変わる
汗と熱気が溶けあった空気が暑苦しい。
試合の状況は、先程僕が一人で観戦していた時と変わらず、僕のクラスメイトたちがやや劣勢。
彼女は入り口のそばの壁に寄りかかって、大きなあくびをしつつスマホを取り出した。そして、口をへの字にしてつまらなさそうな目で、スマホを弄り始めた。
その間にも試合は動いて、強烈なスパイクが決まった瞬間、地響きのような歓声が巻き起こる。それでも彼女は全くひるまず、首を下に向けて忙しなく親指を動かしていた。
彼女は退屈そうなため息を吐いた。
僕も彼女の隣に並んで、体育館の壁に寄りかかる。遠くの誰かが壁を叩いているのか、壁は微かに震えていた。
体育館にいる誰もがバレーの試合の行く末に集中しているなかで、一切試合に興味を示していない僕たち二人だけが、別世界に隔離されているように思えてきた。体育館の中で顔を伏せてスマホを弄っているのは彼女ただひとりだけだ。
応援するために来たんじゃないのか。
「あの、さ」
「なに?」
彼女はスマホに視線を固定したまま、短く応対する。
「応援、しなくていいの?」
「え、なんで?」
なんでって。一緒に応援に行こうと最初に言いだしたのは誰だ。
「いやさっき教室で、応援しないとダメとかって言ってたから」
「……あー……うーん……そだねー……」
スマホを弄りながら、彼女は曖昧に答えた。
「いやまあ、応援しないといけないのはそうなんだけどー……」
彼女は小さい声で要領を得ないようなことをごにょごにょ呟く。
僕と彼女の沈黙を埋めるように、ボールが跳ねる音とシューズが擦れる音と、誰かの話し声が幾重にもなった雑音が、洪水のように耳に流れ込んでくる。頭が痛くなってきそうだ。
すると、彼女が急にスマホから顔を上げて、僕を見た。試合を見ずにずっと彼女のことを見ていた僕は、彼女と目が合って少し驚く。
彼女は薄く微笑んでいた。
「だってめんどくさいじゃん、声出すの。それに、バレーとか別に興味ないし、勝っても負けてもどーでもいい」
「えぇ……」
「でも、一応は顔出しとかないと、後々になってなんか言われたりするかもしれないじゃん? だからとりあえず来てみただけ。応援は別にいいや」
言って、彼女は目を細めて微笑んだ。
僕は少し面食らった。
彼女は顔を正面の、試合が行われているコートの方に戻した。
「そういう内田くんは応援しないの?」
「僕は別に、あんまり声出したくないし、いいや」
「だよねー、内田くんそんなキャラじゃないもんねー。なんとなくわかるよ」
苦笑交じりにそう言う彼女の目は一切笑っていなかった。
「……わたしさ、あいつのこと嫌いなんだよね」
彼女が右手に持っていたスマホで指した方向には、コートの中で試合に出ているクラスメイトの女子が一人。相手チームのサーバーの動きを、目に力を入れて注意深く見つめていた。
「それはまた、なんで?」
今日になって初めて話したような僕というクラスメイトの男子に対して、彼女は今から第三者の陰口を言うつもりなのだろうか。意外と見た目に似合わずとんでもないことをする人なんだなと、彼女への評価を改めざるを得ない。
いや、改めるような評価なんてもとより存在しなかった。彼女について何かを思うほど、昨日までの僕は彼女のことを見ていなかった。
「なーんかテンションの波長が合わないっていうかー、あいつのパッションについていけないっていうかー……、とにかくあいつは全体的にめんどくさいし、うざい。あいつってあんまり他人の事情を考えてくれないんだよね。今だって、自分がバレー部だからって他人の気も知らずに自分だけめっちゃ本気になっちゃってるし。どうしようもなく運動神経悪い人だっているのにさ。チームメイトがかわいそうだよ」
彼女の指していた女子は、あの、ミスした人を無言で非難するタイプの厄介な種類の人間だった。確かに僕もああいう人は苦手だ。
だがしかし、だからといって安易に同調しても良いのだろうか。
「そ、そうなんだ。へー……」
こういうときはどういう反応をするのが正解なんだろう。男子同士ならまだしも、女子相手だと本当にわからない。
「だから、あんまし応援する気になれないっていうのもある。嫌いな奴に勝ってほしくないし」
彼女はどこか寂しそうな笑みで、伏し目がちにそう言った。
また、僕のクラスメイトたちのチームがボールを落として失点した。彼女が嫌いだと言ったあの女子は、強く眉を寄せて舌打ちしていた。
不意に彼女の眼球がぬるりと横に動いて、隣にいる僕の顔を捉えた。
そして彼女はにやりと笑む。
「なーにその気まずそうな顔。もしかしてショック受けちゃった? 内田くんは今までわたしのことを、純情可憐で清楚な深窓の令嬢だと思ってたから、わたしが急にあんなこと言ってショック受けちゃったの?」
「いや、そんなことは全然思ってないけど。なんで僕に言ったのかなって」
彼女の言ったことは、普通、初めて話す異性のクラスメイトに対して喋るような内容では決してない。それも他ならぬ僕のような、魅力が薄くてとりわけ特徴もない男子にあえて話すようなことではない。
「内田くんだから話したんだよ」
彼女は妙に含みを持たせた言い方をした。
どういう意味なのか全然わからなかった。
すると彼女は、両手の指を交差させてそれを天に向かって伸ばしてつま先立ちをして、身体全体をぐぐぐっと伸ばしてから、すっきりした表情で言った。
「なーんかお腹空いてきちゃった。今からコンビニ行かない?」
「え、それって、学校の外に出るってこと?」
「そ。一緒に帰ろって言ってんの。内田くんもう出る試合ないでしょ? わたしももう試合出なくていいし、お腹空いたし、帰りたいし」
「……勝手に帰っていいのかな?」
「いいんじゃない、別に。もしまずいんなら明日謝ればいいじゃん」
及び腰になっている僕を彼女が男らしく説得する。これでは僕の格好がつかない。
いや、僕は別に、無許可で勝手に早退することを躊躇しているわけではない。女子と二人でコンビニに行くというその状況において、僕がうまく立ち回れるのかどうかを憂慮して、僕はこんなにも及び腰になっているのだ。女子と二人で廊下を歩くだけでも、気まずさに喉が引きちぎれそうになっている僕だ。自信は全くない。
「ほら、早く行こうよ。内田くんも帰りたいでしょ?」
彼女の脳内からは既に帰らないという選択肢は消えているようだった。仕方ない。当たって砕けろだ。
「わかった。行こう」
僕が言うやいなや、彼女はまた無言でさっさと体育館を出て行ってしまった。僕はあわてて彼女の後に続いて、廊下を歩く。さっきと同じように、縦に微妙に距離が空いたままで。
気のせいか、先程体育館に向かっていたときよりも、彼女の背中を近くに感じた。
*
「内田くん、何買ったの?」
「ツナマヨおにぎり」
「おー、小学生みたいなチョイスだね」
うまいんだから別にいいじゃないか。
「……キミは、何買ったの?」
「カップラーメン」
「え」
見ると、彼女は確かに、割りばしの乗ったカップラーメンを大事そうに両手で抱えていた。
普通、学校帰りに寄ったコンビニでカップラーメン買うか?
「やっぱ空きっ腹にはラーメンでしょ」
彼女は僕の隣に並んで、コンビニの駐車場の柵に体重を預けた。
彼女は楽しそうな表情でカップラーメンの蓋をぺりぺり剥がして、割りばしを片手で器用に割って、そのセミロングの髪の毛をはらりと耳にかけて、上品に麺を啜り始めた。
もくもくとした湯気の向こうの彼女は、とても幸せそうに口をもぐもぐ動かしていた。
さっき体育館にいたときよりも、彼女の機嫌が幾分か良くなっているのは明らかだった。
僕は横目で隣の彼女を見ながら、ぱりぱりと手のおにぎりを頬張った。
当然だが、カップラーメンとおにぎりだったら、おにぎりを食べている僕のほうが早く食べ終わる。最後の一口を飲み込んで、ビニール袋をごみ箱に捨ててから、また彼女の隣に並ぶ。
彼女のカップラーメンからはもう湯気が出ていなかった。彼女の表情はやはり、さっきよりも明るい。いや、明るいというより、柔らかい。体育館では、口をへの字にしてどこかつんけんした雰囲気だったのに、今はその角が取れたような柔和な雰囲気を纏っている。
中の具を全て食べ終わって、カップラーメンの容器をコップのようにして豪快に中のスープを飲んでいた彼女が、やっと僕の視線に気づいて、スープをごくりと飲み込んでから、口を開いた。
「女の子がラーメン食べるなんて意外ー、とか思ってる?」
「いや、別に全然そんなこと思ってないよ。むしろ、素敵だと思う」
「なにそのちょー安っぽい素敵は。絶対てきとーでしょ」
彼女は僕をからかうようにじとーっとした目を向けてきて、それからまた容器の中のスープを飲み始めた。
容器を高く上げて、全部飲み干す勢いで飲んでいる。彼女の喉がごきゅごきゅ鳴っている。
それから彼女は空になったカップラーメンをごみ箱の中に突っ込んで、間の区切りをつけるように息を吐いた。
平日の昼下がりにコンビニ前でたむろする高校生男女二人。
「内田くん、なんでさっきわたしのことキミって言ったの?」
「え……っと」
「内田くんって基本的に人のことは名前で呼んでるからさ、なんでわたしだけキミなのかなーって、食べながらずっと考えてた」
「それは、……その」
あなたの名前がわからないからです、とはさすがに言えなかった。失礼極まりなさ過ぎる。
さてどうやって言い逃れしたものかなあと頭を悩ませていると、
「……もしかして、わたしの名前がわかんない、とか?」
察しの良すぎる彼女が助けてくれた。
「実は……」
「ほー、まじ? あー、まあまだ五月だし、クラス全員の名前なんて覚えてないか。わたしも男子の名前はほとんど覚えてないしねー」
「ごめん。僕の記憶力が悪いだけだからさ」
「いや別に謝んなくてもいいんだよー。全然ショックなんか受けてないしー。ほんとに全然」
彼女はショックを受けているようだった。今まで小さかった罪悪感がむくむくと膨張した。
そして、少し冷たい風と共に気まずい沈黙が降りる。
もう空いていたお腹はお互いに満たしたのだから、あとはもう家に帰るだけなのだけれど、完全に帰るタイミングを逸してしまった。今この状況で「じゃあ、そろそろ帰るね」と言って本当に帰ったら、明日以降僕と彼女の間に得体の知れない歪なわだかまりができてしまうような気がする。
それならばこちらから何か話題を振ればいいだけなのだが、振るような話題なんて何一つ持ち合わせていない。今を時めく女子高生が、いったいどんな話題に興味を持っているのか、全く見当がつかない。まさかゲームの話をしても盛り上がれないだろうし。
「……ねえ、内田くんってさ」
と、僕が自分のコミュ障の言い訳を考えているうちに、彼女が沈黙を破ってくれた。なんだか今日の僕はずっと彼女に引っ張ってもらっている感じだ。
「うん。なに?」
「内田くんって、恋愛経験ゼロでしょ」
「……は?」
「いいから、どっち? 恋愛経験あるのかないのか」
何を言い出すかと思えば、彼女は急に踏み込んだことを訊いてきた。恋愛なんて高校生にとってはとてもデリケートな部分を、直に素手でべたべた触りにかかってきた。
もちろん僕はすぐに防衛体制に入る。
「あんまりそういうことは人に訊くものじゃないんだよ。同級生の異性に対しては、特にね」
「急に上から目線になったってことはけっこう動揺してるんだね。ってことは恋愛経験ないんだ」
少し笑いながら愉快そうに彼女は言う。
「べ、っべつにそんなことないけど?」
「ふうん? じゃあわかった。言い方を変える。内田くんってさ、友達少ないでしょ」
僕は友達が少ない。
僕の友達の数は、多いか少ないかで言えば、確実に多くはないと思う。まあ、少ない。
だけど。
「友達なんて少ないほうがいいんだよ」
「じゃあ少ないんだ。やっぱり、予想通り」
すると、彼女は座っていた柵から身体を離して、そして僕の正面に立った。
そして僕に向かって真っ直ぐ指を差す。
「内田くんの青春は歪んでいます」
「は……」
変に詩的な表現で断言されてしまった。
僕の青春は歪んでいるらしい。
「それどういう意味?」
言葉が抽象的すぎて何も意味がわからない。
「正しい青春のカタチっていうのはね、さっきの体育館でわたしの誘いを断って、そのまま体育館に残って声が枯れるまでバレーの試合の応援をすることなんだよ」
「は、はあ……。え、それが本当に正しいの?」
「そうやって疑問を感じてる時点でもう内田くんは歪んでるの」
彼女は妙に真面目な表情で、僕を諭すように言う。
つまり彼女は、体育館で声が枯れるまで必死になって自分たちのチームの応援をすることが、正しい青春であると。球技祭のあるべき正しい青春のカタチとは、こうして学校を抜け出してコンビニでたむろすることではなく、体育館で声を振り絞ってバレーの試合を応援することだと、そう言いたいのか。
「じゃあ、キミの青春も歪んでるってこと?」
「そう。だからわたしは内田くんを誘ったんだよ」
「僕の青春が歪んでるから?」
「そうだよ」
彼女は、自分と同じ歪んだ青春を持った人間を求めて、僕に近づいてきたというわけか。
体育館に入った途端にスマホを弄り始めたときから、彼女は普通の人間ではないのかもしれないと脳内の片隅で予想していたけれど、その予想が今確信に変わった。
青春に正しいも歪みもへったくれもない。あるべき青春のカタチなんてもともとどこにも存在しない。
「僕は、こうやって同級生の女子と学校を抜け出してコンビニに行くのも、ひとつの正しい青春のカタチだと思うけどな」
「……えっと?」
「ここには僕たち二人しかいない。つまり歪んでる青春しかないから、ここでは歪んでる青春こそが正しい青春になる。だから僕たちは正しいんだよ」
「……なにそれ。よくわかんない」
彼女は怒ったようにむっとした表情になって、僕の頬をつねって引っ張った。
「んぎ」
「よくわかんないー。内田くんの言うことなんにもわかんないー」
表情はそのままに口調は子供っぽくなった彼女が続ける。
「わたしたち二人だけが特別だーって話がしたかったのー。ほんとに内田くんは察しが悪いというか理解力がないっていうか、ダメダメだねー。もっと精進しなさい!」
僕の頬をぐりぐりねじってから離して、そして彼女は僕に背を向けた。
「じゃ、わたし帰るから。内田くんは電車通学でしょ? わたしバスだから。また明日ね。さよならー」
彼女は雑にひらひらと手を振りながら、駆け足でバス停のほうへを行ってしまった。
僕は彼女に頬を触れられたときから忘れていた呼吸を再開して、ゆっくりと一歩一歩確実に踏み込むようにして、彼女とは反対方向、駅のある方角へと歩き始めた。
少しひりひりと痛む自分の頬を撫でる僕の頭の中は、彼女のことでいっぱいになっていた。
彼女はなぜか、僕のことについて多くのことを知っていた。
まず一番わかりやすいのは名前だ。彼女は、まだ五月だし男子の名前はほとんど覚えていないと言った。しかし彼女は、男子である僕の名前を覚えていた。彼女と僕は、二年生になってクラスが同じになって初めて顔を合わせた間柄なので、以前から僕の名前を知っていたという可能性はないはず。僕と同じクラスになってから、彼女は少なくとも僕の名前を覚えるくらいには僕を注視していたのかもしれない。
その次に、サッカーの試合。僕が球技祭において唯一出場した今日の午前のサッカーの試合は、一回戦ということもあって注目度が低く、誰も応援に来ていなかった。それにも関わらず、彼女は僕が試合中に三年生に吹っ飛ばされたことを知っていた。それはなぜか。
それに加えて、ついさっきの彼女の、僕の青春が歪んでいるという発言。確かに僕は、自分が球技祭の応援もろくにできないような、正しさとは少しずれている人間なのかもしれないことは少なからず自覚している。だが、まだたった一か月と少ししか知り合って間もない彼女が、なぜその僕の性格を見破っていたのか。
それに、うがちすぎな見方かもしれないけれど、僕が教室に戻ってきたときに、彼女がたった一人だけ教室に残っていたのも、少し気になる。
僕は彼女のことをほとんど何も知らないのに、なぜ彼女は僕のことについてそれなり多くのことを知っていたのか。
僕が彼女と同じ歪んだ青春を有していたからなのか。
それとも。
いや、まさか。
少し熱を帯びた頬をもう一度撫でてから、僕は何かから逃げるように駅の改札を通った。
視界がいくらか明るくなったような気がした。
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