造花

 目が覚めると私はもう花だった。

 細長く、口が広い透明なグラス――花瓶、と聞いて最初に思い浮かべるようなそれ。その中でたった今、私は目を覚ました。明らかにおかしい。昨晩私は自分のベッドで横になったはずなのに。少し硬い枕の感触も、体を預けたマットレスの温度もしっかりと覚えているのに。その枕もマットレスもここにはなくて、ただただ冷たいガラスに囲まれて三角座りをしているだけだった。やけに頭上からの光が眩しい気がした。

 こんなに意味が分からない状況であるのにもかかわらず、不思議と私の頭は至極冷静で、自分が花なのだという自覚もあった。自分が植物に変身しているというわけではない。しっかりと人間の四肢がついていて、この花瓶の表面に反射しているのもいつも通りの自分の顔だ。それなのに、私は人間だと言えなかった。私は、花だ。そういう意味でも、目が覚めると私はもう花だった。

 何か悪い夢でも見ているのかと自分の頬を抓ってみるが、返ってくるのは無情な痛覚だった。痛みでやっと寝起きのぼんやりした頭が段々と冴えてきて、この透明な檻の外に目を向けてみようと思った。三角座りのまま、頭上を見上げてみた。花瓶の中を覗き込んだことはあっても、花瓶の中から外を見るなんて初めてだった。光が眩しいと感じていた理由は花瓶の真上から卓上照明で照らされていたからだとわかった。柔らかな橙色の光がこちらに向けられていた。光を受けた手足がじんわりと熱を持っていくのを感じる。

 明かりはこの卓上照明以外には無いようで、このガラスの檻の外がどうなってるかはよくわからない。花瓶が卓上照明と一緒にテーブルなのか棚なのか、とにかく平らなどこかに安置されているということしか理解できなかった。

 ガラスに映る自分にもう一度目を向けてみる。ようやく気付いたが、パジャマを着て寝たはずなのに、今の私はセーラー服姿になっていた。そう、本当ならば今日は高校の卒業式の予定だったのだ。正直、高校生という肩書がなくなってしまうなら死んでしまった方がましだとか考えていたのを思い出す。人生のピークは18歳。ここからの人生はどうせ下り坂。適当な大学に行って、適当に就職して、適当に死んでいくんだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。美しい花としての寿命が尽きてあとは萎んでいくだけならば、華やかなうちに散ってしまった方がましではないか。だから、卒業式の当日に私は死んでやろうと思っていたのだ。そうだ、そうだった。どうして忘れてしまっていたのだろうか。

 けれど、花に成ってしまった今、人間と同じように死んでしまえるのかはわからない。死ねるのならば、花として散って逝きたい。


「ん……」


 その時、不意に声がした。私ではない女性の声だ。そう遠くない場所から、少しかすれた寝起きのような声が聞こえた。

 衣擦れの音がする。布団から出た音だろうか。フローリングの床を歩く足音がする。どこに向かっているのだろうか。数歩ほどの冷たい足音のあと、ぴたりと音が止んだ。すると突然私の視界が真っ白になった。唐突な眩しさに私は目を細める。再び目を開けてみると、部屋の窓から太陽光が差しているのだと理解できた。

 この光によって檻の外の景色が鮮明になった。カラーボックスの上に花瓶が置かれているのだ。おそらく、先ほどの声の女性のものだろう。そして、その女性が寝ていたベッドはこの部屋の奥にあって、彼女は開けたカーテンをタッセルでまとめているところだった。

 後姿しか見えていないけれど、女性は綺麗な人だと直感的にわかった。私とは真逆で、腰まである長い黒髪が印象的だった。よく手入れされているようで、窓から差し込む光に照らされたその黒髪には天使の輪が輝いていた。

 カーテンをまとめ終わると、女性はこちらを振り向き花瓶のあるカラーボックスの方へ足を運ぶ。こちらに近づいてくるたびに彼女の容貌がはっきり認識できるようになっていく。綺麗な人だという直感は間違っていなかった。陶器のような真白な肌に切れ長で形の整った瞳。鼻筋はすっと通っており、白い肌と真赤な唇のコントラストに自然と目が奪われる。まるで作り物みたいだ。私よりも、よっぽど花みたいな人だった。

 彼女はカラーボックスの前で立ち止まると、花瓶を持ち上げた。目が合ってしまう。吸い込まれそうなほど深い黒色の瞳だ。この色のことを漆黒と呼ぶのだろう。そんなことを考えていると、広がった花瓶の口から彼女の手が入ってきて、片手で私のことを掬いだした。今まで感じていた冷たいガラスの温度が急にぬくもりを持った女性の掌になって、その人肌の温かさに少し戸惑った。

 そんな私を見て、彼女は柔らかな微笑みを向けてきた。


「おはよう、今日も綺麗に咲いているね」


 空いた左手を私の頬に添えて、慈しみを浮かべながらこんなことを言うのだ。辞めてくれ、貴女の方がよっぽど綺麗だ。そう言いたかったけれど、どうしてか声にはならなかった。それどころか、綺麗だと言われて私はえもいわれぬ喜びに身を震わせてしまっているのだった。これも花の本能なのだろうか。


「私のことを手折ってください」


 やっとのことで声に出したのは、そんなことだった。か細く震えてしまう声を、一生懸命ふり絞った。

 驚いたように彼女は目を見開く。そして、酷く悲しそうに表情を歪めた。その歪んだ眉の形すらも美しいのだから、もうやってられない。


「私、もう嫌なんです。枯れるのを待つのが嫌なんです。このまま生きていても、ゆっくりと萎んでいくのを待つだけ。きっと私、今が一番美しい。だから、せめて美しいまま死んでしまいたいんです。お願いします、私のことを手折ってください」


 一度口にするともう言葉は止まらなかった。いつの間にか自分の目からは涙が零れ落ちていて、それを彼女は人差し指で拭ってくれた。そんなことすらも最上の喜びに感じた。

 別に手折ってくれと乞わなくても、一人で死んでしまえばいいじゃないかと人間の私が叫んでいる。でも、それじゃあ駄目なのだ。愛でてくれる人に最期まで見届けてほしいんだ、私は花だから。

 涙でぼやける中で、それでも私は彼女を見つめる。黒い瞳は揺れていた。そりゃそうだ、花にいきなりこんなことを言われたのだから。しかし、少し経つと彼女は真直ぐこちらを眼差した。


「……君が、そう言うのなら」


 ハスキーな、けれど耳触りの良い声でそう言った。この声を聴いているだけで耳が溶けてしまいそうだった。

 彼女はゆっくりと、私の頬に添えていた手を首元まで下ろしていく。陶器のような手は震えていた。この体温が愛おしい。一生この温かさに浸ってしまいたい。いや、もう死ぬのだから一生浸ってしまえると言ってもいいのかもしれない

 ゆっくりと私は目を閉じた。自分の命を人に委ねているというのに、まったくもって穏やかな心だった。それも、名前も知らない私の持ち主に。

 多幸感が体を駆け巡る。真っ暗な視界の中で、彼女の嗚咽だけが聞こえてきた。泣いてくれるのか、私のために。最期まで、この人に私は愛でてもらえるんだ。首元を掴む彼女の手に力がこもっていく。意識が遠くなっていく。あの瞳みたいに真黒な世界の中にあるのは、只々幸せという気持ちだけだった。


 ああ、どうしようもなく私は花に成ってしまったのだと、そう実感した。

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