きみが息を呑む前夜(短編集)

河村ミズキ

今日も、空が青い

 今日も、空には厚い雲がかかっていた。6月に入ってから3週間は経っているのに、あの空が青色を見せたことは一度もなかった。空の色が本当に青色だったのかも怪しくなってくるほどだ。実は僕が今まで見ていた空の色なんていうのはただの幻で、本当はあの灰色の空が本物だったのだろうか。

 キャンバスと、窓の外から見える曇り空を交互に見てはうんざりする。パレット上で、スカイブルーの絵具とチャイニーズホワイトの絵具を雑に筆で混ぜる。スカイブルーが少し白みがかる。それでも、空の眩い青には程遠い。なにがスカイブルーだ。こんなものでは、あの色は表せない。空はもっと深くて、透き通っていて、そして美しいものなんだ。

 何度絵具を混ぜてもうまくいかない。苛々してきて、乱暴に絵筆をバケツに突っ込む。もう、帰ってしまおうか。


「ねえ、何してんの?」


 扉を開く音と共に、そんな声が聞こえてきた。おそらく女子の声。女子にしては少し低めだが、よく通る声だった。

 誰? という疑問が最初に頭に浮かぶ。こんな時間に美術室に来るような人を、僕は知らない。何ヶ月もここに通っているけれど、声をかけられたのは初めてだった。

 恐る恐る振り返ってみると、不思議そうな表情を浮かべた女子が立っていた。短い黒髪に、少し灼けた肌。指定のブレザーに、緑のリボンが結ばれている。つまり、僕と同じ1年生ということだ。しかし、そんなことよりも僕の目を奪ったのは、


「空……」

「え? 何? 呼んだ?」


 彼女が制服の上に羽織っている、青空を模しているパーカーだった。澄んだ青色の上に、真っ白な雲が浮かんでいる。空がそこに佇んでいた。その透き通る藍に、僕は惹きつけられて目を離せない。

 しばらくして、怪訝そうにこちらを見て空色の少女が話しかけてきた。


「いつまで見てんの? 話聞いてる? 何してんの!」

「何って……見ればわかるでしょ。絵を描いてるんだ」

「ふーん、絵ねぇ。確かに、ここ美術室だもんね。そりゃ絵描いてるか」


 自分から聞いてきたくせに、興味なさげに言う少女。彼女は扉を開け放ったまま、美術室の机に座った。僕の持っているパレットを一瞥すると、先程よりも少しだけ嬉しそうに僕に話しかけてきた。


「空、描いてるの?」

「……うん。でも、こんなもの空じゃないよ。偽物だ」

「そう? 私はその絵見てすぐに空だなあって思ったけどね」

「……」


 それでも、これは空なんかではなかった。紛い物。空になろうとしているだけの、汚らわしい怪物の色だ。僕は俯いて、手にしているパレットを睨みつけた。


「パレットにはたくさん色があるのに、全然描き進められてないんだね。スランプってやつ?」

「本物の空が描きたいんだ。それなのに、最近ずっと雲がかかっているから何も見えない」

「そうだねー。じめじめしてて嫌だよねえ、わかる」

「別にそんな話をしてるわけじゃ――」


 僕の言葉を遮るように、少女は明るい声で言った。


「私のこと、描いてくれない?」

「……は?」


 言っている意味がわからなかった。つい、青い少女の方へ振り返ってしまう。やはり、彼女は空だった。パーカーが風にはためくと、雲が布地の中で流れていくような錯覚に陥る。少女は笑いながら、言葉を続ける。


「私の名前、空っていうんだ。本物の空が描きたいんでしょ? ほら、私が本物の空だよ。ねえ、私のこと、描いてくれないかな」

「意味がわかんないよ。人物画なんて描いたことないし、僕、絵下手だし……」

「下手とか上手とかどっちでもいい。私は、君に描いてほしいの。お願い」


 どうしてそこまでこだわるのかわからない。けれど、君に描いてほしいなんて言われたのは初めてのことだった。そのことに少しだけ心が揺らいでしまったのかもしれない。いつもの僕なら絶対に断っていたのに。


「……わかったよ。でも、絶対にそのパーカーを着たままの君しか描かないからね」

「本当に空が好きなんだね。いいよ、描いてくれるならなんでもいい」

「じゃあ、そこの窓に寄っかかって。できるだけ、動かないで」

「話しかけるのは?」

「……別に、いいけど」


 彼女は言われた通りに窓際に寄っかかった。なんだか言いくるめられたような気がして、なにかいちゃもんを付けてやろうかとも思ったけれど、彼女の横顔が思ったよりも綺麗でそんな思いは失せてしまった。長いまつ毛に覆われた黒い目が、僕のことを見つめている。その黒に吸い込まれてしまいそうだった。

 僕は何も考えないようにして、鉛筆で彼女の姿をキャンパスに殴り描く。やっぱり上手く似せることができなくて、何度も消して描き直した。何度彼女の顔を練り消しゴムで消したかも分からなくなった頃、彼女は唐突に口を開いた。


「そういえばさあ、君の名前はなんていうの?」

「名前なんて君に関係ないじゃないか」

「せっかく描いてもらってるんだから、君のこと名前で呼ばせてよ」

「……陸」

「いい名前じゃない。多分」

「多分ってなんだよ」


 彼女は僕の言葉を無視して、陸、陸と僕の名前を繰り返した。どこかむず痒いような響きだった。


「空と陸でなんだか運命みたい。ね、陸も私のこと空って呼んで」

「……わかったよ、空」


 そんなことを話していると、最終下校時間を知らせるチャイムが美術室に鳴り響く。空は、はっとしたように目を見開いて、何も言わずに美術室を飛び出した。その後ろ姿は、何かに怯えているようだった。

 僕は筆やパレットを片付ける。早く帰らなければ、学校警備の巡回が来てしまう。『まだ帰らないのか』と呆れるようなあの顔に見つからないように、そそくさと僕は家に帰った。


 次の日の放課後、何かを恐れていたように見えた空は、何事もなかったかのように再び美術室に現れた。


「ごめんね。早く家帰らなきゃいけないの忘れててさ」

「別に、いいよ。とりあえず、昨日と同じところで」

「わかった」


 僕は再び、昨日と同じように彼女の姿をキャンバスに捉える作業をする。少しコツを掴んだのか、昨日よりかは楽に描けるようになった気がした。

 彼女の下まぶたに隈が滲んでいた。昨日はなかったはずだ。疲れているのだろうか。

 そうして数十分が経ったころ、ふと僕の中に疑問が浮かんだ。普段は疑問があっても口に出すことなんてしなかったが、どうしてかそのまま口から出てきた。


「……ねえ」

「何?」

「なんで、急に僕に話しかけてきたの?」

「ああ……。うーん」


 思案し始める空。答えたくない理由でもあるのか、今まで僕の目に合わせていた目を伏せる。しかし、少しするとまた僕のことを見て口を開いた。


「君の描いている空が、すごく綺麗だったから」

「……」

「君がこの美術室で、ずっと空を描いているのを窓越しに見てた。最初、どうして外は曇りなのに青空が切り取られてるんだろうって思った。でも君がキャンパスに筆を乗せていくのを見て、これって絵なんだって驚いたんだ」

「……そう、なんだ」


 何故だろうか、泣きそうだった。自分の声が震えていないかが不安だった。どうして自分の目に水が溜まっているのかがわからない。褒められたから? 今までだって何回か自分の絵を褒める人間だっていたじゃないか。なのに、どうして。

 大きなキャンバスを挟んでいてよかった。キャンバス越しに俯いて、僕は顔を見られないようにする。きっと空は気づいていないだろう。


「陸はなんでそんなに青空が好きなの?」


 空がそう問いかけてきた。顔を下げたままの僕の口から自然と言葉が漏れ出てきた。誰にも言ったことがないのに、ずっと秘めていたことなのに、なぜか空に対してだけは言ってもいいと思った。


「物心ついた時から人と関わることが苦手だったんだ。誰とも仲良くなれなくて、昔から独りぼっちで絵を描いてるだけの日々だった。失敗だって多い人生だ。僕はずっと鈍くさかったから。でも、それでも空は青いんだ。孤独な日も、怒られた日も、少しだけ楽しかった日も、空だけは変わらない。あの青くて深い空の前には僕ひとりの感情なんてちっぽけなものなんだって、そう思える。だから青空が好きなんだ」

「……空の前には、ちっぽけなもの、か。なんだかすごくいいね、上手く言えないんだけどさ」


 空はそう言ってはにかんだ。厚い雲の裂け目から覗く柔らかな日差しみたいだと思った。

 そのあとは無言のまま、数時間が過ぎた。できるだけ動かないで、という昨日の僕の言葉を意外と律儀に守ってくれたおかげで全身のあたりを取ることができた。これなら明日には色塗りに入れるだろう。

 その時、昨日のようにチャイムが鳴った。空の顔が一瞬曇って、すぐに戻る。


「私、もう帰らなきゃ」

「……そうだね。じゃあ、また明日」


 どうしてそんなに暗い顔をするの、という言葉が喉元まで出かかって、そのまま消えていった。


 こんな日々が1週間ほど続いた。空模様はずっと曇りだった。静かで、けれど時々ぽつぽつと言葉を交わす数時間。それがとても心地よかった。他人と長い時間を過ごして幸せだと感じることができたのは空が初めてだった。どうして空だけは大丈夫なんだろう。

 2人で色々な話をした。趣味のこと、好きな空模様のこと、晴れたら早く太陽を拝みたいこと。それでも、どうしても最終下校のチャイムが鳴るたびに辛そうにする理由だけは聞くことができなかった。

 彼女のポートレートはほとんど完成と言っても過言ではなかった。今日でもう出来上がるだろう。窓辺に寄りかかる空と、その向こうには青空が広がっている、そんな絵。現実では窓の外は厚い雲が覆うばかりだったけれど、キャンバスの中でくらい嘘をついたっていいだろ。

 待ちわびた放課後になり、僕は3階に繋がる階段を上る。自分の足音がやけに軽快だった。他人の肖像画を描くのを楽しみにするなんて、柄でもない。

 3階に辿り着き、美術室の扉を開けた。そこでは、


「あ」


 窓枠に立ち、今にも飛び降りそうな空の姿があった。


「そ、空……?」

「見つかっちゃった。いや、見つけられたかったのかなあ」


 そんなことを言って彼女はこちらを見る。僕を見つめる瞳からは涙の筋がいくつも流れていた。明らかにただごとではない。何かが起きたんだと、すぐに分かった。


「何か、あったの? どうして急にそんな……」

「なんでもないよ。ちょっと嫌なことがあったから死にたかっただけ」


 ちょっと嫌なこと、だなんて。死にたかっただけ、だなんて絶対に嘘だ。窓枠に立っている足だって震えているじゃないか。死ぬのが怖いって、それでも命を絶たなければやっていけないくらい追い詰められているんだって、全身が訴えかけてきている。


「……いつも最終下校のチャイムが鳴るたびに嫌な顔をする理由と、何か関係あるの?」


 その言葉を聞いた瞬間、彼女は目を大きく見開いた。


「あはは、わかってたんだね。バレてないって思ってたのに」

「なんであんな顔してたの」

「お父さんと仲が悪いだけ、それだけ」

「それだけなんて――」

「それだけってことにして。お願い」


 彼女の強い言葉に、それ以上の追求はできなかった。それでも僕は彼女に死んでほしくなんかない。彼女を引き留めるための言葉を必死に紡いだ。


「晴れたら太陽を見たいねって言いあったじゃないか」

「そうだね」

「一緒に見たいねって、空も言ってたじゃないか」

「そうだね」

「この絵だってまだ完成していないじゃないか」

「……そうだね」


 空はそう言うばかりだった。僕はどんどん焦ってしまって、もっと何か言わなければと再び口を開けようとする。しかし、彼女の方が先に口を開いた。


「完成してないのにこんなことをしちゃう私を許して。ごめんなさいって何回言っても足りないかもしれないけど、お願い。本当に綺麗な空だって思う。私もこうやって青空の下で笑いたかった」

「それなら!」

「でも、ごめんなさい。もう私、生きていたくないの。君に最初に会ったあの日、あの時も本当は私は死のうとしてた。でも、君が描いてた空の絵を見たら、『この人に私の遺影を描いてもらってから死にたい』って思ったんだ」

「遺影って……」

「本物の私よりずっと綺麗に笑ってる。本物の空よりずっと綺麗な青空。君と最期に話せてよかった。ああやって君と穏やかに話しながら過ごすの、今までの人生の中でいちばん幸せだった。だから」

「やめろ、それ以上行ったら!」

「だからさ、そんなに泣かないでよ、陸」


 空が飛んだ。灰色の空に向かって飛んだ。青空を模したパーカーが風にはためく。僕のぼやけた視界から彼女は消えていって、数秒したら地面にものが落ちる音がした。いつの間にか自分の目からも水が滴り落ちていたようだ。自分の中で、彼女の存在がこんなに大きかっただなんて思わなかった。足に力が入らなくなって崩れおちてしまう。何も考えられない。あまりの衝撃からだろうか、少しずつ意識が遠くなっていく。薄れていく意識の中で最後に見えたのは、描きかけのポートレートだった。




 あれから1か月が経った。あれだけ長かった梅雨は彼女が飛んだ次の日ごろからすっかり終わってしまった。もう晴れの日が、当たり前のものになっていた。空と一緒にいたあの1週間は随分と僕の心を占拠してしまっていたようで、ひと月経っても心の穴は埋まらなった。

 ねえ、空。君の遺影、完成したよ。自分で言うことでもないけれど、よく似ていると思う。

 こんなに心は重いのに、空は青かった。青くて深い空にとっては僕ひとりの感情なんてちっぽけなものなんだって、君に言ったね。君はそれをなんだかすごくいいね、なんて言ってたけれど。僕は今、少しくらいは僕の感情もわかってくれよって思ってる。どうしてこんなに空が青いんだろう。君がいないのに。


 ああ、今日も、空が青い。

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