思い出という名のリグレット Ⅴ
塚瀬姉妹とのカレー作りは、とても楽しい一日となった。
帰りの車内でも、また駅前で別れる時にも、僕はお姉さんに色々と世話になったことについての感謝を繰り返し伝えた。
結局費用だってお姉さんが持ってくれていたし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。お姉さんはと言えば全然気にした素振りもなく、また遊ぼうと言ってくれた。
塚瀬さんとも後部座席で会話をしていたのだが、来週の水曜、お父さんが帰ってくる日の話や、またその日になにか約束を取り付けるなどの動きはなかった。
塚瀬さんなりに、少しは向き合う気があるのかも知れない。
帰宅した僕は、心地よい疲労と考えすぎの知恵熱とを抱えながら大の字に寝そべる。自分はこれから、何をすべきなのだろうか。
僕はポケットからスマートフォンを取り出す。そして辞書サイトにアクセスして、今日言われた『無鉄砲』という言葉を検索する。
その結果、無鉄砲というのは本来存在しなかった言葉で『
意味自体は僕が理解しているものと相違なく、『是非や結果を考えずにむやみに行動すること。また、そのさまや、そのような人』だと記されている。
……是非や結果を考えず、ね。
それを期待されるというのは、どういうことなのだろうか。
音変化前の『無手法』が何を意味するのか分からないが、あまりいい言葉ではなさそうである。手法が無いと書くのだから。
僕はどうなのだろうか、『無鉄砲』にでも何かをやりぬくプランがあるのか、それとも、ただただ何かしたいと思うだけで、その手法を持たないのか。
僕は、前者でありたい。
そのための方法も、少しは思いついているんだ。
スマートフォンでメッセージアプリを起動して、先日交換した武田君の連絡先へとメッセージを送付する。
『武田君、訊きたいことがあるんだけど――』
*****
時は進んで、今日はお姉さんに聞いたお父さんが帰ってくるという、水曜日。
決戦の水曜日とでも呼称していいだろう。
もし後から今日のことを思い返すことがあったとしても、後悔はない。
先んじて何もしなければ、それは後悔と呼ぶのかも知れないが、自ら行動を起こした結果なのであれば、そうではないと信じたい。
今日、僕は開館一番で<
目的の本が借用済みでないかどうかが気がかりだったが、割とニッチな作品のようで助かった。難なくその本を借りることが出来た。
僕はその本を、肩から下げたトートバッグにしまい込む。これで準備は整った。
……やるのか、本当に。
いや、迷うな。もう決めたことじゃないか。
平凡こそが正義であり、僕に相応しい言葉であると考えて生活してきた。
でも今僕は、他人の家族の事情に許可なく干渉しようとしているのだ。これはとてもじゃないけれど、凡庸たる人間の為すことではないだろう。
言い方を変えれば、僕は平凡から脱却する機会を得たのだ。
塚瀬さんと出会うことで――。
*****
三十分後、僕はとある一軒家の前に立っていた。
表札を確認すると『TSUKASE』と書かれているから、ここで間違いはないだろう。僕は呼吸を調えて、呼び鈴に指をかける。電子音が響く。
『はい』
インターホン越しの声には聞き覚えが無い。恐らくは塚瀬さんのお母さんだろう。
「あの僕、塚瀬さん……岬さんの同級生の葉山と申します」
『あら、岬に何か?』
「はい。少し用事がありまして、会わせて頂くことは出来ますか?」
『……ちょっと待ってくださいね』
その声と同時にプツッと音声が切れた。
ここで門前払いを食うようでは、この先の計画も破綻してしまうが、どうだろう。
程なくして玄関が開き、見知った顔が現れる。驚いた様子のお姉さんだ。
「葉山少年! どうして――」
「お姉さん、少し入れてもらうことは出来ませんか?」
「いいけど、君……」
「じゃあ、お邪魔します」
僕は自分でも驚くほど強引に、塚瀬邸へとあがり込む。
覚悟は決めていた。だから今更ここで日和ったりはしない。
――と、思っていたのだけれど。
リビングへと雪崩れ込んだ僕の目に飛び込んできた男性の風貌が、その決意を揺らがせる。恐らくこれが、塚瀬さんのお父さんなのだろう。
「ん? 誰だ君は」
そう言って警戒心を露わに立ち上がったお父さんは、百八十センチは下らないだろう高身長で、がっちりとした体躯。頭は光沢のあるスキンヘッドに顎には髭を蓄えており、イタリアンシェフというよりは、イタリアンマフィアと呼んだ方がしっくりくるような気がする。
完全に怯んだ僕だったが、自分の頬を一発引っ叩いたつもりで、気を引き締める。
「お父さん、はじめまして。僕は岬さんとお付き合いさせてもらっています、葉山緑と申します」
「はあ? お付き合いだあ?」
初耳だとばかりに眉を顰めて、どういうことだとばかりにお姉さんに目配せする。
お姉さんもいつもの調子ではなく、幾分鼻白んだ様子だ。僕は続ける。
「今日は、お父さんに聞いて頂きたい話があって、お邪魔しました」
「誰だが知らんが、俺は君にお父さんと呼ばれる筋合いはないぞ」
わあ。テンプレ発言頂きました。
でも実際に言われてみると、恥ずかしいというか悲しいというか、何ともいたたまれない気持ちになるものなんだな。しかし、僕だって気後れしている場合ではない。
「……ここに、塚瀬さん……岬さんを呼んでもいいでしょうか」
「それよりお前は何のために来たんだ! 勝手にあがり込んできて失礼だとは思わないのか!?」
お父さんが俄然ヒートアップしてきて語気を強める。これには流石に足が震えた。
負けられない、もう、恥も外聞もない、言いたいことを言わなくては。
「――塚瀬さん!!! 葉山だよ!!! 聞こえてるならここへ来て!!!」
僕は叫んだ。なぜなら僕の話を、どうしても塚瀬さんにも聞いてほしかったんだ。
「いきなり大声を上げて何だ!? おい望、お前はコイツを知ってるのか!?」
「パパ、聞いてあげて! 何か話があるんだと思う! 別に変な子じゃないから!」
「なんだ、お前まで……!」
お姉さんもようやく僕の味方についてくれたようだ。まあ、それはそうだろう。
ここまで導いたのは、お姉さんみたいなものだ。
しかし塚瀬さんは来ない。でも流石にこれだけ騒いでいるんだ、聞こえてはいるのだろう。じゃあもう始めようかな。
「お父さん、聞いてください。あ、すみません、何とお呼びすればいいでしょうか」
「……何でも構わん。さっさと話せ」
ふう。取りあえずは話を聞いてもらえる状況にはなったみたいだな。
「ありがとうございます。それではひとまずは、お父さんと呼ばせて頂きます。
今日僕がこのように無理やりお邪魔したのには理由があります。
せっかく互いを想い、固い絆で結ばれている父と娘が、気まずい状況となっていることが見てられなかったのです。それは勿論、お父さんと岬さんのことです」
「そんなこと、他所の人間にとやかく言われたくはない!」
お父さんは再び語気を強めた。僕も負けじと言い返す。
「ですよね。いや、自分でもそう思います。だけど、人から言われて気が付くことっていうもの、あると思うんです。だから少しだけ、話を聞いてください」
お父さんはそれを聞くと腕を組んで口をつぐんだ。話して良いってことだよな。
「お父さんがイタリアに行ったことを、岬さんは納得していないと思いますか?」
「そんなの、当たり前だろう。今だって部屋から出てこないのはそれが原因だ」
「違いますよ。厳密に言えば、今は絶対に違いますよ」
「なぜお前にそんなことが分かる!? 直接岬に聞いたのか!?」
「直接は、聞いていません。いや、きっと聞いても答えてくれないと思います」
「だったらなぜそんなことをお前が決めるんだ!?」
核心だ。そして塚瀬さんに鍛えられた、僕の推理能力を発揮する時だ。
「……その理由は、お父さんと離れる悲しさよりも、お父さんのことを大好きな気持ちが、優っているからです」
僕はトートバックから図書館で借りた一冊の絵本を取り出した。
タイトルは<タツノコタッツー>だ。そう、いつか塚瀬さんが教えてくれた本。
「あ、タッツーだ」
思わぬ方向から声がして目を遣ると、その主は塚瀬さんのお母さんだった。
そうか、塚瀬さんの好きな本だったら、お母さんも知っていて当然か。
というか塚瀬さんはお母さん似なんだな。お母さんも中々の美人だ。
……いかん、そんなことを考えている暇はない。話はタッツーだ。
「あの……そうです<タツノコタッツー>です。前に岬さんが言っていました、とても好きな本だと。内容は実際のタツノオトシゴの生態に則して書いてある、確かに面白い本です。この本が大好きであることこそ、お父さんを想う気持ちだと、僕は思います」
「意味が分からん。そんな絵本になんの関係があるんだ」
「お父さん、タツノオトシゴの生態ってご存じですか? 僕も先日初めて知ったのですが、驚きなんですよ。実は父親が出産するんです」
「はあ!?」
お父さんが素っ頓狂な声を上げる。そりゃそうだ。突然訳の分からない生物考証が展開されているんだから、そうなるよな。
「厳密には、メスがオスの袋のようなものに卵を産み付けるんです。そして、その卵を守って、立派に育て上げるのは父親の仕事なんですよ」
「それが何だ!?」
「<タツノコタッツー>では、それがとてもコミカルに描かれていて、父親のタッツーが悪戦苦闘しながらも、子供を愛し育てていく話なんです。
このタッツーの姿に、岬さんはお父さんを重ねていたんじゃないでしょうか。
だってもっと可愛い話や面白い話はたくさんありますよ。その中でこの本を真っ先に手に取った姿を見た時、何か思い入れがあるんだろうなと感じたんです」
「……確かに」
お母さんがお父さんの後ろから言葉を発する。
「昔、岬は言ってましたよ、タッツーはパパみたいだって」
「……そうか」
お父さんは、それしか言わなかった。僕は大きく息を吸って口を動かす。
「その前提で、二年前のお話をさせて頂きたいのですが――」
塚瀬家全員の表情が曇った気がした。空気がピンと張りつめている。
「……お前、そんなことまで知っているのか」
お父さんはぎろりとお姉さんを睨む。お姉さんは視線を虚空に彷徨わせている。
「はい、それが決定的な出来事だったのだと思っています。
でも違うんですよ。塚瀬さん……岬さんは、そんな暴言を吐きたかった訳じゃないと思うんです」
「知ってるんなら分かるだろう!? あの言葉のどこをどうとれば、そんな風に思えるんだ!?」
強い口調で僕を責め立てる。この空気であの言葉を口に出すの嫌だなあ。
「……本当に、聞こえたんですか? その……『うっさい、ハゲ』って」
「小さい声だったから曖昧だが……口の動きは確実にそう言っていた!!!」
「……違います。岬さんはイタリアへ戻るお父さんに『気を付けてね』と、言いたかったんですよ」
「だからぁ! どうすれば、うっさいだのハゲだのが、そんな風に聞こえるんだ!」
「イタリア語です!」
「はあ!?」
「岬さんは、よくネットの翻訳機能を使うんです! いつもは英語だけど、別にイタリア語に変換するのだって難しくありません! それで、あの口下手で頑固な塚瀬さんが、ようやく口に出来た言葉が、イタリア語の『気を付けてね』なんです!」
僕はスマートフォンを取り出し、翻訳サイトを起動した。そして音声入力機能をオンにして、こう吹き込む。
「気を付けてね」
入力されたのを確認して、変換先をイタリア語として再生アイコンをタップする。
『スタイ・アテント』
女性の声でネイティブな発音のイタリア語が流れる。
そう、イタリア語で<
「言ってみてください。『スタイ・アテント』って。それで口の動きを感じてみてください。『うっさい、ハゲ』と似ていませんか?」
「……スタイ・アテント……うっさいハゲ……」
お父さんは小さく呟いた。流石にイタリア暮らしというだけあって、少し舌を巻いたような、良い発音だった。
「そんな……」
お母さんは、両手で口を押えて小刻みに震えている。お姉さんも言葉を発しない。
僕は構わずに続けた。
「岬さんはイタリアへ戻るお父さんにイタリア語で『気を付けて』と言うことで、応援しているという気持ちを、伝えたかったんだと思います。
それが小さな声と聞き違いのせいで、いらない
塚瀬家は、誰も何も言わなかった。きっと気持ちを整理しているんだろう。
勘違いで二年を過ごしたんだから無理もない。
「塚瀬さん、いるんでしょ」
僕はそう発する。何となく、そんな気がしたから。
するとその予想通りに、塚瀬さんはドアの向こう側からゆっくりと姿を現した。
きっとドアの向こう側で聞き耳を立てていたに違いない。
「……岬!」
お父さんが、久しぶりに会った娘の姿に思わず声を漏らす。
それに応えるように、塚瀬さんは声を振り絞って言葉を発する。
「……私、ハゲなんて、言ってないの」
「……わかった、わかったよ」
お父さんは、そう言いながら、何度も何度も頷いた。
良かった。これにて一件落着……とはいかない。
今度は逆に、塚瀬さんに分かってほしい想いがあるんだ。
「塚瀬さんはお父さんの昔のお店<
僕が訊くと、塚瀬さんは不思議そうに言う。
「……何で今、そんなこと……意味は、ボスとか、首領とかって、聞いた」
「それ、違うよ」
塚瀬さんは首を傾げている。この様子だと本当に気付いていないのか。
「得意の翻訳はしていないの?
塚瀬さんの名前『岬』をイタリア語にするとどうなるか分かるかな」
「岬を……イタリア語……」
「その答えこそ<
「……え?」
塚瀬さんは目を見開いた。そして塚瀬さんのお母さんも思わず声を出す。
「お父さんは、いつも塚瀬さんの名前を背負って頑張っていたんだ。日本でも、そしてイタリアでも」
「イタリア……でも?」
「そう。イタリアでの店名は<
僕はお父さんの方を見る。お父さんは小さく頷いた。
「……そうだ」
「ダ・カーポにも入ってるんだよ。岬が、<
塚瀬さんは、お父さんの顔を覗き込む。お父さんは照れくさそうに顔をそむけた。
「た、たまたまだ! イタリアで一から出直しだから『最初から』って意味のダ・カーポって言葉にしただけで、別に他意はないんだ!」
これまたテンプレのようなツンデレ。
でもその言葉を信じたなら、よりすごいじゃないか。最初からという意味の中に自分の娘の名前が入っていたなんてさ。
「……ちょっとよく分からないけど、僕が塚瀬さんに聞いてほしかったのは、お父さんも好き好んで娘と離れた訳じゃない。いつも娘のことを思っているんじゃないかっていう、推測の話なんだ」
「うん……」
塚瀬さんは、目を潤ませながらも僕に微笑みかけてくれた。
「……ありがとう」
良かった。でしゃばるなとか、干渉してきて気持ち悪いとか、そんな反応も全然あり得ると思っていた。でもこの表情を見るに、そういう感じではない。
こんな僕でも、少しは役に立てたのかな……。
僕はお姉さんの方に視線を送る。すると、お姉さんは眉を八の字形にしながらも、親指を立てて、僕を称えてくれた。
―― Ⅵへつづく ――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます