思い出という名のリグレット Ⅳ
カレーの準備も一段落し、今は火を囲んでまったりとしている。
竈に乗せられた金色の鍋からは、徐々に食欲をそそる良い香りが漏れてきた。
しかし、ここへ至るまでの塚瀬姉妹の料理スキルは圧巻だった。熱した鍋に肉を投入したかと思えば、鞄から当たり前のように赤ワインが飛び出し、傍目にはカレーだとは分からないような洒落た肉の良い香りが広がった。
そして順次野菜を炒めながら今度は岩塩が飛び出す。更にそれに飽き足らず、水を入れて煮込むフェーズに差し掛かった時には、何と自家製のカレー粉が取り出されたのであった。タッパーに入った怪しげな黄色い粉だったが、蓋を開けてみれば、なるほどカレーのスパイシーな匂いが漂ってくる。
僕の出る幕などはどこにもなく、ただただ言われた通りに火加減を調節していただけであった。やはり身内に料理人がいる世帯というのは、どこか世界が違うらしい。
僕は同様に火を見つめている塚瀬さんの横に移動した。
椅子が無いので、塚瀬さんは転がっていた丸太にタオルを敷いて座っている。ノースリーブから伸びた白い腕を、体育座りのように膝の前で組んでいる。
「料理、すごかったね」
「……お姉ちゃん?」
「いや、塚瀬さんも」
「そんなこと、ない」
塚瀬さんはかぶりを振って謙遜するが、緩んだ表情を見るに、まんざらでもない様子だ。元はシェフである父親と仲が良かったようだし、実は料理への造詣は深いのだろう。
そんな顔を見ていると、無理だと分かっていても、余計にお父さんとの関係を取り持てないだろうかと考えてしまう。
そもそも、心の底から嫌っている訳ではないと推測出来るのだ。例え本当に『うっさい、ハゲ』と塚瀬さんが言い放ったのだとしても、それは売り言葉に買い言葉じゃないけれど、親子ならではの行き過ぎた表現だったに違いない。
だって嫌いだったら、わざわざお父さんのお店、<
それが何となく分かってしまうから、何とかしてあげたくなる。
口下手な彼女、塚瀬さん。きっとその真意は言葉のどこかにあるのだと僕は思う。
「そろそろ、カレーいいんじゃない?」
お姉さんがそう言ったのをきっかけにして、僕らも動き出した。
*****
ついに、塚瀬家特製とも言える、アウトドアカレーライスが目の前に並んだ。空腹を心地よく刺激する良い香りがする。この匂いだけを小一時間かがされたら、気が狂うのではなかろうかというような、魔性の芳香だ。
「それじゃ、いただきましょうか!」
「はい、いただきます」
「……いただきます」
僕は一口カレーを口に含む。
……
いやこれ美味すぎるだろ。
最高のロケーション、塚瀬さんの手料理という追加要素を差し引いたとしても、これは人生で一番のカレーと言っても過言ではない。いや、文句なしにナンバーワンだと断言出来る。
「美味い……!」
思わず言葉にも心の内が出てしまう。僕が目を輝かせて絶賛をしている中、塚瀬家と言えば割と冷静にカレーを評価している。
「まあまあだね、上出来、上出来!」
「……うん、そうだね」
……マジかよ。何そのリアクション。この人達、舌が肥えすぎてないか?
このカレー、良い意味で全然普通じゃないんだけど。まあまあとかで片付けていいレベルじゃないんだけど。
自分の母親のカレーが美味くないとは言わないけれど、これを知ってしまったら、ただの家庭の味であると言わざるを得ない。そのくらい塚瀬家のカレーは、僕の中のカレー像をぶち壊したのだ。
「美味しいです、本当に、人生で一番のカレーですよ!」
僕は感動を伝えるが、お姉さんも塚瀬さんも引きつった笑みを浮かべて、そりゃどうも程度の事を宣うに過ぎなかった。なんでだ。
賛同を得られなかった僕は、とにかく食べた。言葉で上手く伝わらない以上、行動でそれを伝える以外ないと思ったからだ。日頃茶碗一杯の米程度しか食べないタイプの自分としては、信じられない程に今日は食べた。
「葉山少年、見かけによらず結構食べるねえ!」
「はい! 美味しくて!」
「……大丈夫?」
「大丈夫! 美味しいから!」
そして胃が欲するままに食事をとった結果、塚瀬さんの心配通り『大丈夫』ではなくなってしまう。
食事が終わり、塚瀬さん達が片付けを開始する中、僕は一人木陰で休息をとっていた。そう、食べ過ぎて動けないという漫画のようなことになってしまったのだ。
情けないやら申し訳ないやら……背負ってきたリュックを枕にして横になっている姿はどう見えるのだろうか。いやまさか、食べ過ぎてこんなに行動まで制限されることがあるなんて十五年以上生きてきて、初めて知った。それだけ僕は、腹八分目という法則をしっかり守ってきたタイプなのだろう。
ひとつ、いい勉強になった。
僕が脳内で猛省していると、洗い終えた金色の鍋を抱えた塚瀬さんが近付いて来た。何となく、首に巻いていたタオルで顔を半分くらい隠す。
「……大丈夫?」
「大丈夫……じゃなかったね」
さっきと同じ言葉を投げかけてくるのは、僕への戒めなのだろうか。
塚瀬さんは、僕の頭あたりに腰を下ろした。柔軟剤か何かか、それとも塚瀬さん自身の匂いなのか、胃もたれ気味の僕にとって心地の良い香りが鼻に届く。
「いっぱい食べてくれて、嬉しかった」
「……え?」
「……ありがとう」
「いや、こちらこそ、本当に美味しかった」
塚瀬さんは、寝転んだ僕の額に手を当てる。その手はひんやりとして気持ちよく、塚瀬さんが水仕事をして来たのだということを物語っていた。
母親以外にこんなことをされたことがない僕は、内心ものすごく取り乱した。タオルが僕の表情を隠してくれていて、心底助かった。
「暑さで、とかじゃないよね……?」
「あ……うん。本当に、ただの食べ過ぎだと思う」
「……そう」
塚瀬さんは立ち上がると、また炊事場の方へと向かっていく。途中振り返って、笑顔で小さく手を振った姿が、いつもより幼いというか、とても可愛らしかった。
数分してようやく起き上がることが出来た僕のもとに訪れたのは、お姉さんだった。塚瀬さんとは打って変わって、近付いてくる段階でもう面白がるようにニヤニヤと笑みを漏らしている。
「葉山少年、体調はどうだい?」
「すみません、そろそろ動けますので……」
「君が自分の限界を超えてしまうような無鉄砲なタイプだとは、思わなかったよ」
「……僕もです」
僕がそう答えると、砕けた表情だったお姉さんの顔が次第に強張って真剣なものになっていくのが分かった。僕は、片付けなどを出来なかったことを責められるのかと思い、身構える。
「その無鉄砲に期待して……っていうのかな、ひとつ教えておくよ」
「え?」
「来週の水曜、パパが帰ってくるんだ。二年ぶりにね」
「そうなんですか」
「そ、二日間だけなんだけどね……。
岬は……また逃げようとすると思うんだ。君と遊ぶ約束をしたり、部屋に籠ったりして……」
「そう……でしょうか」
「だからさ、もし、その日に何か誘われても、その日だけは断ってほしい」
そう言うとお姉さんは、真っすぐに僕を見据えた。
「……頼むよ?」
「……はい」
僕が返すと、お姉さんはまた明るい表情に戻る。
「まあ、パパが帰ってくるのは今年の初め頃から決まってたことだし、現時点で何の予定も入れてないみたいだから、そこは安心したけどね!」
お姉さんはそう言いながら二、三度膝を曲げて屈伸運動をした。
そして腕を上げて大きく伸びをすると、手で拳銃を象り僕の方に向ける。
「クイズ! 楽譜なんかにある<
「なんですか、突然」
「いいから」
「分からないですよ、音楽やったりしてないので……」
「あらら、残念。では正解発表。それはね『ダ・カーポ』って読むんだよ。
意味は、『最初に戻って再度演奏する』ってことなの」
「へえ、そうなんですか……それで、なぜその話を?」
僕が問いかけるとお姉さんは困ったような笑みを僕に向けた。
「……それ、イタリアにあるパパの今のお店の名前なの」
「あ……そうなんですか」
「その『ダ・カーポ』にはさ、どんな意味が込められているんだろうね……」
そう発して一瞬顔を顰めたお姉さんだったが、すぐにかぶりを振りながら、再び手で拳銃を象り僕の方に向けた。
「じゃあ葉山少年! もう少し休んでていいよ! その代わり、帰りの荷物を車まで運ぶときには活躍してもらうからね!」
そう言ってバンと打つような仕草をすると、わざとらしく豪快に笑いながら炊事場の方へと戻って行った。
僕は頭の中で、今お姉さんから聞いた内容を反芻していた。
塚瀬さんのお父さんが帰ってくる。それも二年ぶりにだ。帰ってくる理由は分からないが、少なからず塚瀬さんとの和解というのも念頭にはあるのではないだろうか。
だとすれば、この機に僕が塚瀬さんのそばにいられるというのは、ある意味チャンスなのではないだろうか。お節介かも知れないけれど、そんな風に思った。
今、お姉さんは言った。『無鉄砲に期待して』と。
その言葉が何を意味するのか。なぜ僕にその日付を告げたのか。
本当に塚瀬さんからの誘いを固辞させることだけが目的なのだろうか。
どうにも引っ掛かる。
そして取ってつけたように僕の頭にインプットされた、お父さんの経営するイタリアの店名。その名も<
これに込められた意味とは、僕に知らされた意味とはなんなのだろう。
塚瀬さんは言葉が足りないことで、その補完を促す形で僕の頭を回転させてくるが、お姉さんの方は情報を託して頭を回転させてくるタイプのようだ。
僕は先程とは違った理由で、また横になった。
*****
その後、僕も身体が動く様になり、お姉さんの宣言通りに荷物運びを率先して行ったり、川に向けて石を投げ、誰が一番渦の中心に投げられるのかなどの遊びを満喫した。塚瀬さんがお湯を沸かして作ってくれたコーヒーも、とても美味しかった。
だけど、僕はそれらを心の底からは楽しめていなかった。
お姉さんに言われた言葉、そして今までの塚瀬さんの言動、それらを無意識に頭の中で振り返っていたからである。
そして漠然とだが、その真相に、近付きつつあるような気がしていたのだ。
―― Ⅴへつづく ――
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