思い出という名のリグレット Ⅲ

 小野井渓谷キャンプ場と書かれた掘っ立て小屋の一帯だけ、雑草が刈り取られており、車が止められるような空間が出来ていた。しかしその周囲は小高い木々に囲まれており、耳を澄ませば川のせせらぎも聞こえてくるような、まさに大自然といったロケーションである。


 お姉さんが掘っ立て小屋に程近い位置に車を停めると、それを見ていたと思しき老人がすぐに外に出て近づいてきた。

 齢七十ではきかないだろう。肌着姿で首に手拭いを巻いた老人は、大の男の一歩を進むのに、三歩を要すような頼りない足取りだった。焦れたのか、運転席から降りたお姉さんは逆に老人へと近づいていく。


「どうも、予約した塚瀬なんですけど」


 老人はいかにも人の良さそうな笑顔を見せると、どこの方言かは分からないが、温かみのある訛りの入った口調で、ゆっくりと答える。


「ああ、あんたが塚瀬さんかい。今日は混んでただろうに」

「それほどでもなかったですよ。それで、今日使っていい場所はどこですか?」

「今日は、今のところあんたらしかおらんから、沢に下りて好きなところを使って構わんよ。先に料金だけ、ばあさんに渡してくれ」


 そう言いながら震える指先で、掘っ立て小屋の脇に見える錆びた鉄階段を指差した。あそこから沢に下りられるらしい。老人の指す先に目を遣っていたお姉さんが老人に向き直り、笑顔を作る。


「分かりました。それと、料理道具なんかは借りられます?」

「ああ、ばあさんのとこにあるから、好きに持って行ってええよ」


 そう言って、今度は掘っ立て小屋を指差した。お姉さんが返事をすると、老人はおもむろに車に近寄り、サイドミラーに針金で何かを括り付けはじめた。どうやら超アナログな駐車証明のようだ。僕らしかいなそうだが、いるのかこれ。

 お姉さんが元気よくパンと手を打って、僕と塚瀬さんに声を掛ける。


「よし! じゃあ私は受付済ませてくるから、二人は荷物持って先に沢に下りててちょうだい!」

「あの、料金は?」

「いいのいいの! そういうのは後から徴収ってことで!」


 お姉さんはそう言って笑うと、裸の財布を片手に掘っ立て小屋の方へ駆け出して行った。塚瀬さんに視線を送ると、困ったような笑顔で返されたので、僕も無言で頷くしか出来なかった。


「……運ぼう」

「そうだね」


 持参した荷物を背負い、トランクを開けて買い物袋を取り出すと、僕はすっかり手一杯になった。塚瀬さんはと言えば、大きめのバッグを肩に下げただけで、麦わら帽子が飛ばされないように手で押さえる余裕を見せている。


「……何か、持つ?」

「いや、大丈夫。行こう」


 彼女の手前格好つけてみたが、正直あまり長いこと持っているのは大丈夫ではなさそうなので、さっさと移動してしまいたい。僕は錆びた鉄階段の方へと足を進める。

 鉄階段は遠巻きに見ていたよりも急勾配で、小さな子供やお年寄りにはまず通らせたくないような代物だった。

 足場はバツ印がたくさん並んだような模様のいかにも古い鉄製で、工事現場なんかで即席で作られるやつと大差なく見える。この大自然の中、雨風に散々晒されているであろうこれに体重をかけても問題ないのだろうか。恐々と一歩目を踏み出す。

 意外にもと言うべきか、ミシミシと音を立てることもなく、階段は僕の足の動きに合わせて乾いた金属音を響かせるだけだった。それでも勾配はきついので、なるべくゆっくりと、足場を探り探り下って行く。


 沢まで下りきった僕は、その光景に目を見張った。

 そこは、崖の途中でせり出た陸地に柵がしてあるだけというような、自然のテラスとも言うべき場所だった。頼りない木製の柵の向こうには、いかにも深そうな濃緑色をした渓流が飛沫を上げて鋭く流れており、その川に蓋をするように、斜面両側から青々とした木々が伸びて影を作っている。階段を下りてからやたら涼しく感じるのは、気のせいではないだろう。


「すごい……」


 塚瀬さんが珍しく、感に堪えないといった様子で言葉を漏らす。


「こんなところがほぼ貸し切りなんて、信じられないね」

「うん」


 僕らは荷物を隅に置くと、柵の目の前まで歩み寄ってみた。

 近くで見ると迫力がある。濃緑色の水は岩にぶつかって渦を巻いており、あそこに落ちたらひとたまりもないだろうなと、下腹部が冷えるような感覚が走る。


「……今日は、ありがとう」


 塚瀬さんが正面を見ながらそう言った。


「なんで?」

「嫌でしょ、お姉ちゃんがいて」


 僕は首を横に振る。


「この間も言ったけど、僕は構わないよ。そりゃあ二人きりがいいと思う気持ちもあるけれど、僕ら二人だったら、こんな景色見られなかっただろうし」

「そう……だね」

「……それに、今日でお姉さんに信用してもらえればさ、これから二人で出かけやすくなるだろうし。何て言うか……今日は頑張るよ」


 僕がそう言って笑うと、塚瀬さんは両手で僕の手を握り、


「……ありがとう」


 と小さく言った。

 麦わら帽子から覗くその顔は、暑さのせいか少し赤らんでおり、手から伝わる塚瀬さんの体温と相まって、僕の血流を加速させた。


「――おうおう! いちゃついてくれてんじゃん!」


 そう発しながらお姉さんが階段から姿を現すと、塚瀬さんは顔を赤くして、僕と同極のマグネットであるかのようにピョンと離れた。

 お姉さんは両手で薪や炭の入っていると思しき段ボール箱を抱えていた。


「葉山少年! 妹に手を出している時間はないよ! 小屋に言っておばあさんから鉄鍋とかおたまとか、料理道具を一式借りておいで!」

「え、あ、はい!」

「……私も」

「岬は違う! あんたはあそこの隅にあるかまどに、この薪をくべなさい!」

「……はい」


 こうして僕らはてんでに作業を開始した。

 階段を上って小屋へ行き、おばあさんに『カレーを作る』と告げたところ、大きめの金色の鍋がドカンと目の前に置かれ、その中に飯盒はんごうやら包丁やらまな板やらがどんどんと突っ込まれて行った。僕はそれを漫然と見つめる。

 そうこうしている間に一式が揃ったらしく、おばあさんは『あい』と一言だけ発した。僕は用意されたその一式を両手で持つと、おばあさんに礼を言って沢へと戻る。


 沢に下りると、隅にあるコの字型の竈に塚瀬さんが一生懸命薪をくべていた。その傍らには、いつぞや見た着火剤などの道具も散らばっている。

 そう言えば、塚瀬さんの望みは一緒に火起こしをすることだったな。僕もさっさと荷物を置いて、あちらの作業に参加しよう。


 そんな風に考えていた僕だったが、お姉さんは一式を持った僕を発見すると、大きな身振りでこちらへ来いと手招きする。


「よし来たね! 岬、仕込みに行くよ! 葉山少年とチェンジ!」

「え?」

「だから、葉山少年は火を起こしといて! 私と岬で米と肉と野菜、準備してくる」

「いやそんな、僕もやりますよ」


 お姉さんが僕の方を向き、人差し指を立ててウインクして見せる。


「こ・こ・は、イタリアンシェフの娘達に任せなさい!」

「……はい」


 渋々納得して塚瀬さんの横にかがむと、それと入れ替わるように塚瀬さんが名残惜しそうに立ち上がる。共同作業の火起こしはまた今度だな。いっそのこと玉砕覚悟で校舎裏の焼却炉跡で、火起こしをしてしまおうか。そんなことを思ってしまう。


 僕は塚瀬さんによってやぐらのように重ねられた薪の下に、チョコレート状の着火剤を一つ割って潜り込ませると、傍らにあったマッチを擦って火をつける。

 着火剤のところに火をあてがうと、すぐさま点火して、上の薪を炙り始めた。こうなればもう、時間の問題だろう。


 暇になった僕は沢の端に構えられた炊事場へとこっそりと向かって行き、物陰から視線を送る。炊事場とは言っても、簡易的なステンレス製の調理台と水道があるだけの殺風景なものだった。水道は蛇口辺りからホースが伸びており、その大元は山の方に繋がっているので、湧き水でも引いているのだろう。調理台はまな板が一つの乗るくらいしかスペースがなく、後は洗い場を利用するしかないようだ。


 料理道具と材料を運び込んだ塚瀬姉妹を観察していると、流石と言うべきか、シェフの娘を自称するだけの事はあり二人とも手際よく作業を進めていく。

 塚瀬さんも乗り気ではない表情とは裏腹に、手際よく野菜の不要箇所なんかを切り分けていく。こんなに家庭的な一面があるとは驚きだ。

 お姉さんはと言えば鞄から取り出した米を研いで飯盒に移しているようだ。


 うん? まずいな。

 お姉さんは飯盒を持って戻って来るかも知れない。こんなところで油を売っていると、何を言われるか分からない。僕はそそくさと、竈へ引き返した。


 程なくして、予想通り飯盒を携えたお姉さんが一人こちらへ向かって来る。僕は薪で竈の中を整えながら、炭を投げ込んでいく。そう、やってる感を出すために。


「おお、火は順調みたいだね!」

「はい。すみません、料理の方任せてしまって」

「だからいいって! それは私らの仕事!」


 飯盒を火の前に置くと、お姉さんも僕の横に腰を下ろした。

 そして、改まったようにトーンを落として口を開く。


「……ちょっと訊きたいんだけど、いい?」

「はい、なんでしょうか」

「岬から父親の事って何か聞いてる?」


 はいと答えたかったが、先日のことが頭を過る。お父さんの話題になると、塚瀬さんはあまりいい顔をしないのだ。言い淀んで、知っていることだけを口に出す。


「……どうなんでしょう、昔駅前で店をやっていたことや、今は単身イタリアで店を出しているってところまでは聞きましたが……」

「あとは?」

「二年くらい、会っていないと言っていました」

「……そう」


 お姉さんは答えると、指先で小さな石を火に投げ込んだ。

 僕は逆に、気になっていることを口に出す。


「こんなこと本人のいないところで訊いたら良くないかも知れないですが、塚瀬さんとお父さんの間には、何かあったんですか?」

「……うーん。あったような、なかったような」

「……言えない、ですか」

「そんな訳じゃないんだけどね……。

 まず言わせて。岬とパパはね、パパがイタリアに行くまでは本当に仲が良くて、岬はめちゃくちゃ可愛がられていたんだから」

「へえ……そうだったんですか」

「でも、逆にそれが災いしたのかな。パパがイタリア行きを決めた時、岬はそれがどうしても受け入れられなかったの。寂しかったのね、まだ中一くらいだったし。

 立場は違えど、可愛さ余って憎さ百倍ってやつ? 二人は和解出来ないまま、パパはイタリアへと旅立って行った」


 僕は口をあけたまま、その話に聞き入っていた。

 そんなことがあったのか。それならば納得出来る言動が、今までの塚瀬さんから端々に見えてくるような気がした。


 ……あれ? でもお父さんがイタリアに行ったのが中一の時なら、それって三年前だよな。塚瀬さんは二年くらい会っていないと言っていた気がする。


「それから塚瀬さんとお父さんは会っていないんですか?」

「……会ったわ、二年前に。そこで問題があったの」

「問題?」

「ええ。パパが一年ぶりに帰ってきたのに、岬は部屋から一歩も出てこなかったのよ。パパが呼びに行っても、誰が声を掛けてもね」

「そんな……」


 僕の真剣な表情を見て、お姉さんは小さく笑った。


「気をつけなさい、あの子、あれで中々頑固なんだから」

「そう……みたいですね。それで、そのまま会わなかったんですか?」

「会ったわ。パパが帰る直前に、ようやくね」

「それで、話は出来たんですか?」


 お姉さんは下を向く。そして目から光が失われたような、虚ろな表情を浮かべた。


「……岬はね、一言だけ発して、そのまま逃げた」

「一言、ですか」

「そう。パパがようやく姿を見せた岬に言ったのよ『岬、ごめんな』って」

「それで?」

「岬はこう返した。『うっさい、ハゲ』って。小さな声でね」


 予想外の展開に、僕は素っ頓狂な声を上げた。


「え??? うっさい、はげ???」

「……信じられないでしょ? でも確かに、そう聞こえたの」


 考えられない。塚瀬さんは基本的に人のことをあまり悪く言わない。もちろん腹に一物抱えていそうな雰囲気を醸し出すことは多々あるけれど、それでも人を故意に傷つけるようなタイプでは決してない。


「聞き違いじゃないですか? 声も小さかったんでしょう?」

「そうだといいんだけど、じゃあ、何と聞き違うの、こんな言葉」


 お姉さんは、少し語気を強めた。

 それもそうか。定員と店員とは違う。『うっさい、ハゲ』。何かを仮に当てはめようとしても、お父さんの『ごめんな』の回答にはなりそうもない。

 塚瀬さんは、心底ショックを受けて、フラストレーションを抱えていたのだろう。まともな心境で、そんな言葉が飛び出す訳はないのだから。


「楽しい思い出が、いっぱいあったはずよ。岬とパパにはね……」


 お姉さんはそう言うと、また遠い目をしながら、悪戯に火をつついた。

 何とかしたいんだろうな。間に挟まれて、お姉さんも辛いのだろう。今日だってお姉さんは父親の代わりのようなもので、ここに来ている。責任感の強い人なのだという事は明らかだ。


「僕で……何か力になれますか」


 お姉さんはこちらに顔を向けると、塚瀬さんと似ていない笑顔を見せた。


「君と付き合うようになって、岬は口数が少しだけど増えたよ。それだけで充分。

 パパがイタリアに行ってから、本当に無口になったったんだから」

「……すみません、何も出来なくて」

「そんなことないってば。

 そうだ! 役に立ちたいならば、この飯盒を火にかけて、決して焦がすことなく炊き上げておくれ!」


 お姉さんはわざとらしくギアを入れ替えて、僕の方に飯盒を突き出した。

 そうだな。出来もしないことでウジウジ悩んでいても仕方がない。僕は今出来ることをして、今の塚瀬さんを楽しませることを考えよう。


「わかりました、飯盒は任せて下さい」

「その意気だ!」


 お姉さんに肩をポンと叩かれて、僕も仕事をすべく立ち上がる。

 何も出来ないけれど、何も知らないという訳ではない。もし僕の力が必要な日が来れば、その時は全力で力を貸そう。そう心に決めた。


 ―― Ⅳへつづく ――

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