彼女のらしいパスワード Ⅱ

 苛烈極まる猛暑の中の草抜き作業が終わりを告げた。

 降るような蝉時雨せみしぐれさえもが、それ抜けやれ抜けと、口うるさく指示しているように聞こえてしまう。美化係の保全活動とは名ばかりの、前世で悪行を働いた者への制裁であるかのような修行じみた作業であった。励行れいこうした自分を褒めてあげたい。


 さてさて、ここからが本題と言っても過言ではない。

 塚瀬さんからのミッションを果たさなければならないのだ。僕は過酷な係活動を生き抜いた戦友達に別れを告げると、職員室へ向かう。


「あ、葉山君、忘れものじゃない?」


 後ろから呼び止められ、足を止める。

 声を掛けてきたのは、草抜きの持ち場がすぐ近くだった矢貫やぬきさんだった。

 話してみると隣の二組の所属だそうだが、正直言ってお初にお目にかかった。

 華美な印象ではないがそれなりに整った顔をした女子で、二組ではきっと相応に持て囃されていると思われる。そんな彼女が汗で前髪を濡らしながら、颯爽と駆け寄ってくる姿には、少なからずドキッとさせられた。

 矢貫さんの手には、汗で絞れそうな程に水分を含んだ、僕のハンドタオルが握られている。僕は顔がカッと熱くなるのを感じた。


「あ、ごめん! 汚いものを持たせて! でも、ありがとう!」


 恥ずかしさと申し訳なさで取り乱した僕に、矢貫さんは何事もないように笑顔でかぶりを振る。


「汚いのは美化係みんな同じだよ。お疲れ様!」

「あ、うん。お疲れ様、じゃあまた」


 爽やかに手を振る矢貫さんに別れを告げ、なんとなく塚瀬さんへの罪悪感を募らせながらも、改めて職員室へと歩を進める。

 まあ別に異性と交流することくらいはあるさ。学生だし。ということにしよう。

 


 考えをミッションの方に引き戻す。

 そもそも、なぜ塚瀬さんは今現在宿題が手元にないのだろうか。配布の日は余裕綽々といった様子だったのに、いまいち腑に落ちない。

 コピーしたファイルを消してしまっただとか、ロックがかかって見れなくなったとか、データそのものが壊れてしまったとか、まあ考えられるのはこのくらいか。

 どれもUSBメモリの扱いを誤らなければ起こりそうもないけれど。


 ……ん? USBメモリ?


 僕は根本的問題にはたと気付く。

 ないじゃん! 今持ってないじゃん!

 僕の予測能力は『終業式の日に塚瀬さんが宿題を取ってこいと言うかも知れない』などと考え及ぶほどに優秀ではない。したがって、こんな日にUSBメモリなど所持しているはずがないのだ。

 これは困ったことになった。

 塚瀬さんに取っていくと約束した手前、やっぱり無理でしたは避けたい。ではどうやって調達しようか。

 戻って矢貫さんに訊いてみる? ないな。保全活動のある日に無駄な持ち物を所持はしていないだろう。僕だってそうだし。

 じゃあコンビニで買う? 最近は安くなったとはいえ、その出費は痛い。

 自宅から持って来るか? シンプルに面倒くさい。


 じゃあ答えは一択。学校にあるという予備をお借りしてみるしかなさそうだ。

 データが壊れていて、などと泣き落とせば無下にはされないだろう。


 程なくして職員室へたどり着いた僕は、ドアの前で文字通り襟を正した。

 軽くノックをしてから、失礼しますの声と共に入室する。放課後と言えど、まだ中には大勢の教師が業務中と思しき顔つきで座っており、複数の視線が自分に注がれると緊張が走る。汗に濡れた身体に気持ちが良いはずのエアコンの冷気も、あまり感じないくらいだ。


「あれ葉山さん、どうしました?」


 硬直していた僕に向かい、担任の鵜久森うぐもり先生が立って手招きする。

 教室では落ち着きを感じるアラサー女教師といった風情だが、平均年齢がグッと高いこの職員室にあっては、ちょっとした華に見えなくもない。

 僕は先生の横まで身を小さくして進む。


「すみません……宿題のデータが壊れてしまって、もう一度ダウンロードしたいのですが、ノートパソコンをお借り出来ますか?」

「あら、それは大変。気付くのが早くて良かったですね。鍵を準備するので、先に教室に行って待っていてくれますか?」

「はい、ありがとうございます」


 先生に一礼し、再びドアまで移動する。ドア前で失礼しましたと発しながら頭を下げて職員室を出る。ドアを閉めると、ごく自然にふうと息が漏れた。

 蒸し暑い廊下に戻ったはずなのに、職員室よりは余程生きた心地がする。

 僕は大きく伸びをしてから、頬を叩いて気を引き締め、教室へと向かった。


 一年三組の教室には、当然誰もいなかった。ここに再びクラスの面々が揃うのは一月ひとつき以上先なのかと思うと、哀愁が漂って見えるのはなんでだろう。

 さっきまではここに自分や武田君や安藤、それに塚瀬さんが、当たり前に座っていたというのが何とも感慨深い。


「――面倒ですよね、ひとりひとり課題に名前さえ印字されてなければ、お友達からコピーしてもらえるのに」


 ほうけてる僕の背後から、いつの間にか教室に来ていた鵜久森先生が声を掛ける。

 驚いて身を反らせた僕になど気付かず、先生は続ける。


「でもね、名前を印字しないと、みんな課題をコピーして回しちゃうでしょ? だから仕方ないんですよ。これからは忘れ物には注意して下さいね」

「は、はい、すみません。お手数おかけして」


 先生は教壇の脇に構えられた金属棚に鍵を差し込みロックを解除すると、作業していいよと目顔で示した。僕は積み重ねられたノートパソコンの背に目を走らせ、自分の名を探す。

 一人一台ノートパソコンがあるなんてすごいと感動したものだが、他の学校に通う友人も、まして中学に通う妹も、そんなの普通だと言うのだから参ってしまう。

 僕は中々見つからない自分のパソコンより先に、塚瀬さんの名が刻まれたパソコンを発見した。ダウンロードするだけなら別にどれでも変わらないから、塚瀬さんのを使っちゃうか。実際塚瀬さんの用事だし。

 先生の様子を伺うと、教卓に寄りかかってスマートフォンを眺めている。誰のマシンを使うかまでチェックするようなつもりはないらしい。僕は塚瀬さんのノートパソコンを引っ張り出すと、適当な席に腰かけた。


 パソコンを立ち上げると認証画面が表示される。ここは全学共通のパスワードなので問題はない。まあそれもどうかと思うけど。

 そしてようやくとデスクトップが表示されて、課題のダウンロードまで進む準備が調った。僕はブラウザを開いて校内イントラから配布ページへと進む。


 じきにユーザー番号とパスワードを確認するダイアログが表示されたので、僕はスマートフォンを取り出して塚瀬さんのメッセージを再確認した。

 ユーザー番号が『010365』で、パスワードが……『ns@lnxg』か。

 入力してエンターキーを叩き込むと、程なくして画面が遷移し、ログインが完了した。ページにはしっかりと『塚瀬岬つかせみさき』の文字が表示されている。


「あら、塚瀬さんのお使いだったの? 葉山さん、嘘は良くないですよ」


 いつの間にか背後に回り込んで画面を覗き込んでいた鵜久森先生に、再び意表を突かれる。

 だが言葉とは裏腹に、先生の表情は怒っている訳ではなく、むしろコケティッシュな笑みを浮かべていた。僕は苦し紛れの言い分を展開する。


「いや……最初から、とは言ってないですよ……」

「ああ、確かにね。いや、でもこういう時は素直に言ってくれた方が好印象ですよ」

「すみません、塚瀬さんにお願いされました」

「それでよろしい。ふーん、塚瀬さんって物静かなイメージだったけど、案外よろしくやっているのね……」


 仔細しさいありげにそう言うと、先生は肘で僕の脇腹をつつく。


「葉山さんも人畜無害みたいな顔して、中々やるじゃないですか」

「いや、やるって何がですか」

「いいなあ、先生もそんな青春してみたかったです」


 別に交際しているだとか言った覚えはないのだけれど、先生の頭の中ではそういう結論に至ったらしい。当たっているけれども。

 先生は僕の言葉などお構いなしで、自分の青春時代にでも思いを馳せている様子である。先生がこんなに砕けた表情を見せるのも新鮮だ。生徒のみならず、教師にとっても夏休みというのは、常ならぬ感情が溢れ出るものなのかも知れない。


 ま、それはいいとして。

 僕は自分のミッションに集中するとしよう。僕は課題のダウンロードを進めるべく、リンクをクリックしようとした。

 しかしそこで違和感を覚える。


「あれ」

「どうしました?」

「あ、いえ、大したことじゃないんですけど」

「何ですか、言ってみて下さい」

「いや、リンクの色が変だなって」

「リンクの色?」


 先生はいまいちピンと来ていないようだが、これは明らかにおかしい。

 僕は今、塚瀬さんのパソコンで、塚瀬さんの配布ページにアクセスしている。であれば当然、一度リンクは色が変わるはずだ。

 具体的に言うなら、この『ダウンロード』と書かれたリンクの青文字が、一度ダウンロードを行った後ならば紫色の文字になっているはずである。


 この事実が何を示すのか。

 それは、塚瀬さんは課題のダウンロード自体をしていないということである。首を傾げていた先生も、はたとそれを察したように言う。


「塚瀬さん、配布日にUSBメモリとか忘れちゃったんですかね?」

「いや、それなら昨日も一昨日も取るチャンスはあったはずです」

「それもそうね……」


 二人して頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、先生が画面の右下を指差した。


「デバイス接続中のマークがついてませんか?」

「本当だ」


 そこにはUSBなどの外部からデバイスを接続をした時に表時される『安全に取り外し』のマークが点灯していた。

 しかしぱっと見、USBの差込口には何も挿し込まれてはいない。

 今度はパソコンの側面を水平な高さから覗き込む。すると、薄っぺらい差込口の中に、SDカードがしかと装着されているのを見つけた。

 SDカードはデジカメや携帯ゲーム機なんかでよく用いられるものだが、これも『記憶媒体』であることに変わりはない。つまり、塚瀬さんはしっかりと課題のデータを持ち帰る準備が調っていたということになる。

 エクスプローラーからSDカードの中身を確認したが、空っぽだった。


「SDカードが入ってます」

「あらまあ、じゃあ何で塚瀬さんは持ち帰らなかったのかしら?」

「取り外し忘れたんですかね」

「じゃあダウンロードもしていないのはなぜですか?」

「う……確かにそうですね。こういう時は大体、彼女――塚瀬さんなりの、メッセージが隠れてるんだと思います」

「……メッセージ、ですか……フフフ」

 

 先生は口元に手をやってクスクスと笑った。何が面白いのかは分からないが、何となく恥ずかしいというか、少し不快である。

 そう言えばすっかり忘れていたけど、僕は先生にUSBメモリも借りるつもりだったのだ。しかし結果的には忘れていて問題なかった。塚瀬さんの私物と思しきSDカードがあるのだから。

 塚瀬さんは口下手で言葉足らずではあるけれど、懸念事項がある時は伝えてきそうなものだ。だから今にして思えば、彼女が記憶媒体の心配をしなかったことが不自然に思えてくる。


「……最初からSDカードありきで僕に頼みごとをしたんだ」


 思わず考察が口から漏れてしまった。先生は少し呆れたような顔で笑う。


「葉山さん、こんなも分からないようでは駄目ですよ」

「え、先生分かるんですか!」

「そりゃ、女の子同士ですから」


 この際、先生がであるかどうかの議論は端に置いておくとしよう。

 なぜ先生に分かるんだ、その理由が気になる。僕が訊くより先に、先生は得意げに話し出す。


「お二人は、お付き合いしてそんなに経ってないんでしょう?」

「そうですね……そんなには」

「じゃあ、休日に会ったりはしてますか?」

「まだ数度ですかね」

「じゃあ決まりです! 塚瀬さんは、会う口実がほしかったんですよ」

「口実?」

「そう。SDカード――課題を渡すときには直接会わなきゃでしょ?

 学校があれば自然と毎日のように会えますが、夏休みに入るとその前提がなくなりますからね」


 なるほど……そういう考え方もあるのか。

 塚瀬さんは暇なときはそれを伝えてくるし、休日だろうが何だろうが、何かあればごく自然に連絡が来るものと思っていた。けれど内実は分からない。本当は『暇』の一文字を送るのにも、色々な葛藤の末に行われているのかも知れない。

 僕はそういった女性の機微というものに本当に疎い。自分でも嫌になる。


「そういう回りくどいこと……塚瀬さんしそうだな」

「回りくどいなんて失礼ですよ。可愛いじゃないですか。

 こういうのって休みに入って一回目がドキドキなんですよね。一回会えてしまえば、その場で次の約束を交わすことも出来ますから」

「僕は鈍いので、そういう女性の気持ちが分かってあげられなくて……。

 今日鵜久森先生が一緒にいてくれて助かりました」


 先生は幾分大人びた表情を作りながら言う。


「その様子を見ているとお二人は健全そうなので問題ないですが、休みだからって羽目を外し過ぎてはいけませんよ」

「はい、大丈夫です、そこはご心配なく」

「うーん、そうよね、逆に健全過ぎて心配です。たまにはこうして進捗でも聞かせてもらいましょうか」

「いや、本当大丈夫なので、勘弁してください……」


 先生は笑うと、作業を進めるように促した。

 僕も額に発出した変な汗を肩で袖口で拭いながら、ダウンロード作業を再開した。

 ダウンロードとそのファイルをSDカードに移すのは一分もしないで完了した。僕はSDカードを取り外すと、それを筆箱にしまい込む。


「先生、お陰様で終わりましたので、パソコンを戻します」

「そうですか、お疲れ様でした。いや、中々楽しい時間でしたよ」

「……はい。なら良かったです」

「進捗の件、楽しみにしてますね」


 そう言いながらウインクをすると、僕の手からノートパソコンを受け取って金属棚へと戻していく。僕は無言で口角を上げることしか出来なかった。

 先生は僕に背を向けながら金属棚の鍵に向けて指差しをする。


「……施錠よし! じゃあ葉山さん、夏休み楽しんでくださいね」


 振り向きざまにそう発した先生に、僕は深々と頭を下げた。


「はい、ありがとうございました」


 先生は手を上げてそれに応えながら、ヒールの歩行音をコツコツと響かせて教室から遠ざかって行った。


 ……ふう。

 じゃあ僕も帰ろうかな。

 外から漏れ聞こえる蝉時雨に見送られて、僕は教室を後にするのだった。


――Ⅲ(解決編)へ つづく――

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