彼女のらしいパスワード Ⅲ

 猛暑の中をからがら帰宅した僕は、ただいまより早く風呂場へと向かい、これでもかと汗を洗い落とした。

 七月でこの暑さだ、八月はどうなってしまうのか分かったもんじゃない。近年の集中豪雨といいこの暑さといい、熱帯の気候に片足を突っ込んでるんじゃないかと勘繰ってしまう。夏日、真夏日、猛暑日など、一体何段活用まで膨らんでいくのか。

 日本の気候を憂いながら、さらさらのバスタオルで頭を拭く。そして心地よく湿ったそれを首に掛け、今度はグラスに氷を叩きこむ。涼感溢れる音が響いた。

 麦茶を注ぎ、揚々として椅子に腰かけながらそのグラスを傾ける。胃から全身が冷えるような感覚が心地よい。


 一息ついた僕は、だらしなく背もたれに身体を預けながら、今日を振り返る。

 何といっても、先生の推理力には驚かされた。

 女性の勘っていうのかな、鋭いものなのだと実感されられる。

 そして、それによれば塚瀬さんの真意は『会う口実を作ること』だという。


 ……ていうか、宿題を入手したのに塚瀬さんに連絡をしていなかった。

 会う約束を取り付けるためにも、ここは僕から連絡をした方がいいだろう。

 机に投げ出してあったスマートフォンを手に取る。

 ロックを解除して画面を表示させると、まだ教室で開いたメッセージが表示されたままになっていた。塚瀬さんから最後に届いたメッセージである。


「ユーザー番号……パスワード……」


 独り言を漏らした僕の頭に、強烈な違和感が駆け抜けた。


 あれ? おかしくないか。

 空のSDカード、そしてユーザー番号、パスワード……。

 やっぱり、今回の塚瀬さんからのお願いにはまだ謎が残っている。


 先生の推理では説明がつかない部分があるじゃないか。

 しかもその問題提起は先生本人がしていたものだ。


「じゃあダウンロードもしていないのはなぜですか?」


 この回答にまだたどり着けていない。

 先生の言うように「会う口実」ならば、ただ単に教室に忘れ物をするだけで充分事足りる。別に課題である必要すらないのだ。

 百歩譲って課題だとしても、SDカードが挿しっぱなしであればその役割は果たせる。なのにダウンロードまでしていないのは、やっぱりおかしい。もっとSDカードが空の状態であることに着目すべきだった。


 そこから導き出せる結論はひとつだ。

 塚瀬さんの本当の目的は『配布ページに行かせること』なのではないか。


 それならばダウロードをしていなかったことにも説明がつくだろう。

 SDカードに課題データが入った状態だったならば、僕はわざわざユーザー番号やパスワードを打ち込み、配布ページには行かない。


 『配布ページに行かせること』、これが本懐なのだ。

 ならばその目的はなんだ。

 配布ページの特有のもの、もしくはそこに行くために必要なもの……。


 パスワード。

 消去法から言って、パスワードくらいしかない。

 ユーザー番号の『010365』は固定されているのものだから、ここにメッセージがあるとは考えにくい。だとすれば『ns@lnxg』というパスワードにしか、メッセージの込めようがないのだ。


 一見不規則に見える『ns@lnxg』という文字列。何だ、何を隠した塚瀬さん。

 ローマ字に置き換えて文字になるようには見えない。


 けど……うん、まあ実際に打ってみるか。

 打ってみて手の動きなどから分かる、何か法則があるのかも知れない。

 僕はスマートフォンを持って自室へと駆け上がる。


 自分のノートパソコンを開くと、メモ帳を開いて例の文字を打ち込んでみる。

 しかし、特に何らかの機転をきかせることは出来なかった。

 謎は深まる。

 

 うーん。

 あれ……最近も、こんな感じの行動をしたような気がするな。なんだっけ。

 ああ、武田君のパスワードを入力する時だ、あの時もメモ帳を開いて――。


 そうか!!!

 武田君が『C』キーを見つけられないとき、僕はこう言ったじゃないか。


「その平仮名の『そ』が書かれているとこ」


 そう。平仮名!

 日本語のキーボードにはアルファベットと平仮名が併記されている。これは『かな入力』機能に対応するためだ。

 実際、ローマ字を入力する方が慣れてしまえば早いので、かな入力なんて機能はほとんど使われてはいないだろうけど。


 僕はパソコンの文字入力設定を初めて『かな入力:有効』に変更した。

 そして『ns@lnxg』を打ち込んでみる。

 すると、こんな文字が浮かび上がってきた。


『みどりみさき』


 これは……。

 僕の名前と塚瀬さんの名前だ。偶然ではないだろう。

 これが塚瀬さんからのメッセージなんだ。


 ……解けたのはいいのだけれど、どういうことだ。


 単に「私はパスワードに彼氏の名前入れてるのよ」という事ではないだろうし。

 いや、ね。確かに嬉しくはある。僕はやっぱり塚瀬さんにとって彼氏なんだな、と客観的に再認識させてもらえたというか、そういう感情で口元が緩むのは確かだ。

 でも僕を喜ばせるって、このパスワードに込められたメッセージはそれだけだとは思えないんだよなあ。それに『みさき』って自分の名前までいれる必要性も分からない。


 意外と「みさきとみどりはベストカップル☆」みたいな変なノリだったりするのだろうか。いや、まさかな。

 普段の呼び方とも違うし、違和感しかないよそんなの。


 ――その時、僕の脳裏に先生からの一言が表情付きで蘇る。


「お二人は、お付き合いしてそんなに経ってないんでしょう?」


 先生は、なぜ自信ありげにそんな推論を披露したのだろうか。

 僕の言葉尻や態度などから、付き合い始めを感じるような、初々しさのようなものがあったということなのだろうか。

 そう考えると一番に浮かび上がるのは『呼び方』だ。

 僕は『塚瀬さん』と苗字プラス敬称をつけて呼んでいる。これは下手をすれば、ただのクラスメイトよりも余所余所しい呼び方かも知れない。

 僕自身はそれでも特に問題なく、『葉山君』『塚瀬さん』の関係をむしろ気に入っているくらいなのだが、塚瀬さんがそれを良しとしているかどうかは、本人にしか分からない。


 もしかしたら塚瀬さんは、そんな苗字で呼び合う関係性に終止符を打ちたいと考えているのかも知れない。

 そんな言えない思いを、パスワードに託し、夏季課題の取得というメッセージに変えたのかも知れない。


「岬……さん……か」


 ……うう。

 独り言ちても照れくさいものを、本人に呼べるはずがない。

 しかも本当にそう呼んでほしいかなんて分からない。あくまでも僕の推論が導き出した結果であって、何も確証を得ていないのだから。


 それでも、それでも、塚瀬さんが僕に課したお願いには、僕達の距離を縮めたいという意思は明確に感じることは出来る。

 二人の名前を使ったパスワードをアピールしたかったというのは、どう考えても塚瀬さんの意図なのだから。


 僕はスマートフォンを手に取り、指を滑らせる。

 いや『滑らせる』は嘘か。変な汗なのかグラスの水滴のせいなのか、そんなに滑りはよくなかったから。


『塚瀬岬さん、課題の入ったSDカード、いつ渡せばいいかな?』


 ……よし、送信っと。

 僕に出来る精一杯のアピール。フルネームにしてお茶を濁すという情けないもの。

 これで分かってくれるかな。塚瀬さんのメッセージ、受け取ったよと。

 僕のような経験不足な男では、塚瀬さんのメッセージを直ちに行動には移せないんだ。もっと咀嚼して、反芻はんすうして、自然に出来るだけの時間を下さい……ごめん。


 自責の念に駆られていた僕だが、塚瀬さんからの返信は、少しだけ距離が縮まったんじゃないかと思わせてくれるものだった。


『ありがとう。明日会えるかな』


 ……どこが離が縮まったって?

 『かな』だよ『かな』。いつもの塚瀬さんなら『明日』の一言で済ませるさ。

 でも会えるかな、なんて親しみのある言葉は、充分な進歩の証だと思う。

 少なくとも僕と塚瀬さんにとってはそうなんだから、異論は受け付けない。

 限りなく小さな一歩かも知れない。でも一歩が無ければ目の前まで近づくことは叶わない。この一歩を、この『かな』を、僕たちなりに重ねていければいい。


 パスワードもメッセージも、その真意を読み解く鍵は『かな』の文字にあるという訳だ。僕はそう受け取った。


 今年、僕は人生で初めて恋人がいる夏を過ごす。

 いつものような、のんべんだらりとした夏休みにはなり得ないだろう。

 希望もあれば不安もある。でもやっぱり、単純に楽しみだ。

 キャンプ場なんかに行って火起こしをしなきゃいけないし、もう一回くらい図書館にも行きたい。そんな想像をするだけで気分が高揚してくるのだから、僕にとって塚瀬さんが、大切な存在であることに疑いはない。たとえ今はその呼び方が、おぼこかったとしてもだ。


 呼び方や、関係性を変えていく……か。

 これこそが僕に課された、本当の夏季課題なのかも知れない。


――彼女のパスワード おわり――

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