第47話 貴族令嬢VSとんかつ

「とんかつ……? まあ下々はこういう安くて油っぽいものを好むのねぇ」




「えいらっしゃい」


「おひとりですわ」


 マリーが暖簾をくぐると、カウンターで大将が声を上げて出迎えた。

 熱波が唸る外気温から、省エネくたばれとばかりにクーラーが全力で稼働する店内。

 

「はいこちらどうぞ あとおしぼりです」


 女将のおばちゃんにまねかれて、カウンターにしずしずとマリーは座る。

 たおやかな動作で、冷たいおしぼりを広げる。躊躇無くマリーは顔に当てた。


「ふぅぅぅぅ!!」


 ゴシゴシと拭く。肌をひんやりと冷やす爽快感に身悶えする。


「はしたないとおもいつつもたまにやってしまいますわねぇ」


 いつもやってるよね。


「さて、メニューは……」


 品書きを手に取る。触れるとじっとりとした脂のヌメリがあった。ビニールでファイリングされ、手書きの文字と写真が直貼りしてある。結構年季が入っていた。歴史を感じる。


「ミックスフライ、メンチ……色々ありますけれど、ここはやはり」


 思考は無駄であった。もうすでになににするかは決めていた。ただ、なにか新メニューでもないか1度見ておきたかっただけだ。

 たおやかにマリーはメニューを閉じた。瞳は濡れて、表情には僅かな憂い。優雅に、そして堂々と店員へ手を上げる。


「上ロースカツ定食。ご飯大盛りで後出しで。あと瓶ビールください。それと大根おろし」


「はいはい」


 賽子は投げられた。あとは挑むのみ。


「はい、瓶ビール。お注ぎしますねぇ」


 冷えたグラスを手に持つと、女将がビールを差し出す。忙しいランチでは有り得ない。昼下がりだからこそ受けられるサービスだ。


「あ、どーも」


 黄金の液体に、王冠のごとく乗る白泡。いつも見慣れた光景。そしていつも見ていたい光景だった。

 まずはくっと、一息に飲み干す。


「ああ゛゛っっ!!! 美味っっ!!」


 一瞬で空になるグラス。即座に手酌でもういっぱい。


「昼からやるビールはなぜこうも美味いのか……いえ、今日は特に味が際立って感じる……」


 味が変わる。それは飲み物や食べ物が変わることではなく、それを味わう人間の状況で変わるのである。

 達成感や背徳感が、酒を美味くすることもある。心配ごとや憂い事があれば美酒も味がしなくなるもの。


「これは……やはり、あれですわね」


 グビりと飲み干す。マリーは天を、というか天井を見上げた。祈るように目を閉じて、冥福を静かに願う。安らかに眠れ。


「溜まってた年金払ってきたからですわね」


 みんなも払おう国民年金。


「失った現金を思っても仕方ありませんわ。いつかは払うもの。仕方ないことなのよマリー……私たちの世代、年金貰えるのかしら」


 答えるものはない。暗闇の荒野に、不確かなまま突き進むことが人生なのだ。


「はい上ロース定食です。あと大根おろし」


「あ、はいはい。あとビールもう1本お願いしますわ」


 深い鎮魂を呼び覚ます声。マリーの前に並ぶ山盛りのキャベツの千切りと、カツ。味噌汁。タクワン。さらに追加された瓶ビールが続く。


「……トンカツは寿司と同じく値段やランクでのジャンルわけが幅広い料理ですわ」


 トンカツのランクは幅広い。下は冷凍食品から上は専門店のものまで。それだけ日本人は上も下もトンカツを欲しているのだ。


「トンカツという料理、豚肉をフライにするだけと思われがちですが、なかなかにディープな料理なのですわ。揚げ方や揚げ油になにを使うかからパン粉の種類や豚の品種まで、1つ違えば別のものになる」


 今回マリーのチョイスした店は上ロース定食3000円近くする。値段を番付で例えるならば、小結以上のランクだろう。


「ここは揚げ油にラードを使い粗めのパン粉で2度揚げするヘビー&ハードめの方向性……」


 箸をつける。まずはトンカツの中心からだ。端の脂つきの1番美味しい部分は最後に回す。

 大根おろしに醤油を加え、トンカツにつける。


「わたくし、トンカツに大根おろしの良さに最近気づきましたわ……」


 がぶりとトンカツを食いちぎる。ハードな衣からじゅわりとラードの脂が染み出て、さらに少しレア気味に火を通されたブランド豚の味わいが舌に躍り出る。


「はふ、あふ……」


 熱い。大根おろしで少し冷ましても熱い。追っかけてビール。


「ふおおお!!!」


 唸る。応えられない。


「フライ物に大根おろしは鉄板ですけれど、やはりその真価は濃厚な味わいであるラード揚げ系と合わせて発揮されますわね……! ヘビーな味わいの後口がこんなにもさっぱりするなんて……」


 大根おろしは酵素を含み、消化を助ける。揚げ物を爽やかに食べさせてくれるのだ。

 そしてソースを回しがけたキャベツを摘む。定番の食感だ。


「誰だか分からないけれど、フライものにキャベツの千切りあわせるの考えた人は天才ですわね」


 もしゃもしゃとキャベツを頬張り、もう一度大根おろしのカツ。またもビールで追いかける。このキャベツだけでも酒が進む。


「しかし、大根おろしがいかに優秀といえど所詮は二番手……さっぱりと食べられるのは裏を返せば物足りなさにもなる」


 小皿にソースをドボドボと注ぎ、卓上の辛子をたっぷりとそこに溶いた。


「塩やおろしに浮気しても、結局最後の最後にはソースに帰るしかない。本妻の強さですわね」


 トンカツをどっぷりとつけて、噛み締める。ソース、カツ、それらを引き締める辛子。やはりトンカツはソース。


「うっま……そしてビール!」


 ぐいとさらにグラスを傾ける。そしてキャベツ。口直しに漬物のたくわんに手をだす。


「このわざとらしいほどに着色料まるだしの真っ黄色な安っぽいたくわん……これがなぜか無性に好きなんですわ」


 ぽりぽりとかじりながらビール最後の1杯を飲み干した。


「すいません、ご飯ください」


「はいただいまー」


 差し出された大ぶりの茶碗には、白米がこんもりと盛られている。そこにマリーはソースにどっぷりとつけた1番端の部分の脂身つきのトンカツを載せる。


「やっぱトンカツは最後に米と合わせてナンボですわねー」


 一気に頬張る。スパークする肉と脂と米。勝利確定である。


「んんんん美味いですわっ!!」



 △ △ △


「ありがとうございましたー」


「ふぅー、やっぱたまには上のほうのトンカツもいいですわね」


 女将に見送られ、マリーはとぼとぼと街を歩く。真夏の昼間でも人通りは多い。


「確実に人が戻ってきてますわね。にぎやかになってきたけれど……」


 それでも畳む店はあるという。やはりまだ飲食店がすぐ楽になるほどに戻ってきてはいないのだろう。


「原価高騰に病気の流行、店を続けるだけでも相当な努力をしてるのでしょうねぇ……」


 飲食店は文化の1つである。そして文化とは豊かさの現れだ。

 特に日本のように値段の上下区別無く安全で、多種多様なジャンルを保持し許容できる飲食店層文化を持つ国はそうないのではないだろうか。

 その日本の特徴が、どうにも崩れ始めている。


「文化を尊ばぬものは愚か者ですわ……あ、あっちの立ち飲み屋もうやってるんだ。それでは文化を尊ばないと行けませんわね」

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