第43話 貴族令嬢VSジンギスカン
「ジンギスカン……? まあ、羊臭い料理だこと……」
「このジンギスカン鍋セット二人前。ラムチョップ二本。それから……きたあかりのじゃがバター、塩辛付きで。それとサッポロ生ビール超大ジョッキ」
細い指がメニューを指し示す。夕方の店内で、金髪が輝いていた。
「はいただいまー。こちらおしぼりでーす。鍋に火付けますね」
差し出された蒸しタオル。広げて、躊躇なく顔を拭く高貴なる貴族令嬢。
「ふぅうううー……!」
熱いタオルで汗ばむ肌をゴシゴシと拭く。熱気が通り過ぎれば、ひんやりと肌が冷える。さっぱりとする感覚。暖かくなってきた頃でも、これは止められない。
「明日からは仕事の無い休み……おもわず派遣で来た現場近くの池袋に足を伸ばしてしまいましたわ」
マリーは、明日は仕事がない。というか、明日から仕事がない。日雇いがまた途切れた。
「現実はいつも厳しい……厳しいからこそ力が欲しい……そのためには脂と肉と……酒!」
「はい生ビールの超大ジョッキお持ちしましたーあとじゃがバタ塩辛つきです」
「あ、どうもどうも」
渡された特大ジョッキ。並々と揺れるビールと、うっすらと霜が張り付くデカいジョッキ。キンキンだ。
「キンキンに……お冷えてやがりますわ……!」
極大重量のジョッキを片手で軽々と持ち上げ、厳かに口を近づける。まるで貞操を無理やり奪われるかのごとく震える唇は、やがてジョッキに触れてその霜を吐息で溶かした。
ぐびぐびと、極寒の液体を喉にぶち込む。火照る体に、貫くような冷たいビール。
このときマリーに電流走る。
「最高に……最っ高に決まってますわこりゃぁ……!!」
そしてじゃがバタへと箸を伸ばす。蒸された芋を崩してバターを乗せて、さらにイカの塩辛も乗せた。フル武装である。
1口に頬張る。スパークする北海道のイメージが、マリーの脳髄に強く走った。
「試される大地っっ!!」
さらに追っかけてビール。
「ふかした芋にイカの塩辛、北海道ではポピュラーな食べ方だそうですわね……塩辛の塩分と旨味をバターが引き立てつつ芋がしっかりと受け止めて……これは美味いですわ……!」
戦慄の北の大地。その力の一端である。
「はいお待ちどうさまです。ジンギスカンセットに、ラムチョップでーす。あとこれ脂です」
「来ましたわぁ」
縁が曲がったドーム状である特徴的なジンギスカン鍋。そこにラムの脂の塊を押し付けて塗っていく。しっかりと焼けた鍋肌にじゅわりと音を立てて脂が溶けていった。
「まずはラムロースとチョップを乗せて」
鍋の頂点に肉を乗せて焼いていく。
「そしてこの曲がった縁の所に野菜を敷き詰めていく」
もやしや玉ねぎなどの北海道産の野菜達。じゅうと焼けていくラムから、脂が垂れていく。垂れた脂は縁に溜まり、野菜が脂にまみれながら焼かれていく。
「この焼かれていくジンギスカンを見て香りを嗅ぐだけで酒が進みますわねぇ……!」
ぐびりとビールを飲む。芋と塩辛のコンビネーションに舌鼓を打ったところで、
「いらっしゃいませー」
「えーと、待ち合わせで……」
見覚えのある黒髪と眼鏡の女性。クリーム色の帽子とトレーナー。そしてジーンズという地味な出で立ち。手には分厚いの紙袋があった。
「あ、こっちですわ」
手を振るマリーに、彼女は──かなえは笑顔を向けた。
「マリーさん!」
△ △ △
「いやぁ、たまたま池袋で一緒になるなんて偶然ですねぇマリーさん!」
「そうですわねぇ……ほんと偶然ですわ」
LINEで「マリーさんみたいな人を池袋で見たんですけど、池袋に今いますか?」とメッセージを送ってきた。いると答えるとでは私も池袋にいるので食事でもと誘われたのだ。
そこでマリーの知っているこのジンギスカン屋に招いた。
──なんかこの娘とはよく偶然会いますわね……
そろそろマリーもなにか怪しいと訝しんでくる。
「池袋って大学が近くてよく寄るんですよ」
「へぇそうなんですの」
──まあ、やっぱり偶然ですわね。
気づけマリー。
「はいビールお待ちどう」
出されたジョッキをかなえが掴む。
「それではまたも再会を祝って、かなえさん」
「あ、はい」
マリーがジョッキを近づけて軽くぶつける。
「乾杯」
「か、乾杯」
ぐっとビールを飲むかなえ。まだ飲みなれていないといった表情だ。
「あの、マリーさん。私ジンギスカンって初めてなんですけど……羊ってたしか臭いとかクセがあるって聞いたんですが」
「ああ、そうだったのですわね。大丈夫ですわ。ここはマトンではなくて生のラム。初心者でも美味しく頂けるものですわ」
ひょいと肉をひっくり返しながら、焼き加減を見る。ここは生のラム肉だ。焼きすぎはいけない。
「ラム肉の生って……焼く前だからみんな生肉なのでは?」
「ここでいう生は冷凍をしていないという意味ですわ。本場の北海道では冷凍のラムやマトン、タレに漬け込んだものが一般的らしいですけれど、ここは生ラムにこだわった店ですの」
焼けた肉をかなえのタレ皿に乗せる。
「さあ、ものは試しですわ。お食べになってかなえそん」
「は、はい」
タレをたっぷりとつけて頬張る。ニンニクの香りとタレの味。そして肉の美味さがあった。
「お、美味しいです! 臭みとか全然ないですね」
「癖が少ない子羊であるラムを羊肉と相性のいいニンニクと隠し味にリンゴが入ったタレで食べるこのベストマッチ感……北国の知恵ですわね」
マリーも口に運ぶ。噛み締めれば肉とタレの旨味が炸裂する。そこをビールで洗い流す。
「いくらでも食えますわこりゃあ! 店員さん、ジョッキビールお代わり!」
「お肉焼きますね。……それにしてもジンギスカンって、やっぱりモンゴル料理が元なんですかねこれ?」
肉を並べるかなえ。溶けだす脂は下の野菜へと溜まっていく。
「名前はジンギスカンだけれど、モンゴル料理とはなに1つつながりがないのよかなえさん。モンゴル料理では羊は茹でて食べるのがポビュラーなの」
「そうなんですか!? じゃあなぜジンギスカンなんて名前に……?」
「一説にはモンゴルでよく食べられる羊を使うことからの着想とか言われているけれど、諸説あってはっきりとわからないのよ。戦前から北海道で行っていた羊の畜産により羊肉が安価で手に入ったことから庶民に流行ったそうだけれど」
「へー、北海道って羊が名産だったんですね」
「いえ、現在の北海道では羊はほとんど飼われていないそうよ。なのでラムやマトンはほぼ輸入もので賄っているの。それゆえに生のラムは日本では貴重なのよ……北海道のジンギスカン通は、マトンは子供の食べ物と言うそうよ。本物のジンギスカン好きは癖の強い大人の羊、マトンを好むというわ」
じゅうじゅうと焼かれるラム肉。それを見つめながらどこかうっとりと、マリーは呟く。
「私もいつか出会いたいですわね、大人のマトンの味というものに……あ、そろそろ野菜もいいわね……」
かなえの皿に野菜をとりわける。肉から垂れた脂でじゅくじゅくと焼かれ続けた野菜は、照りと香ばしい香りを上げていた。
「ジンギスカンの主役は、実はこの野菜といっても過言ではないのよかなえさん」
「……え? 肉より野菜が主役なんですか?」
「百の言葉よりも一度の体験……食べればわかるものですわ」
1口食べる。じっくりと加熱された玉ねぎなどの野菜の甘みに、ラムの脂とタレがあわさりたまらない味わいだ。
「お、美味しい……!」
「でしょう? ラムの溜まった脂で揚げるように焼かれた野菜、とてつもなく美味いのですわ……ジンギスカンの主役は野菜といってもそれは過言ではないのよ。店員さん、野菜セット追加で。あとビールもう一杯」
同時にマリーはジョッキを掲げ、喉奥にビールをぶち込む。熱々のジンギスカンとキンキンに冷えたビール。
「ああっ!!」
高貴なマリーとて思わず唸る。野菜、ラム、ビール。野菜、ラム、ビール。野菜、野菜、ビール。果てしない、あまりに果てしない幸福の繰り返し。
北海道民はその日その時気のおもむくままにこの無限ループを味わっているというのか。
「北海道は……でっかいどうですわ……!」
マリーの北海道観は貧弱であった。
「ジンギスカンってこんなに美味しかったんですね……何度か旅行でいったことあるけど、1度も食べたことなくって、こんなに美味しいなら早く行けば良かった」
「北海道ではこういうジンギスカンとか全く出なかったの?」
「父が『北海道に来たなら海産物食うでしょ普通』っていってウニとか毛ガニとかナマ物ばかりで、こういうお肉系には行かなかったんですよ」
「ふ、ふぅん……そうなんですの」
ちなみにマリーは北海道いったことがありません。
「ところで……かなでさんは池袋は大学の帰りでしたの? なにか大きな紙袋を持ってきているようですけれど」
肉を食べながら、マリーの視線がかなでの横にある紙袋に移る。なにか厚みと重さのあるものが入っているようだが。
「あ、これは、その、漫画です。漫画本です」
「漫画本……? わざわざ池袋で買わなくても今は通販でもダウンロードでもあるし、そんな重たそうなものを持たなくても」
「私はこういう本って出来れば紙で欲しいので……こう、池袋でしか直接買えないものもあって」
「……? 希少本の類いかしら、一体なんの本ですの?」
「……あ、マリーさんそっちのお肉焼けてますよ」
「え? あらいけないいけない」
「ビールお待ちしましたー」
焼けた肉を食い、新しいビールを流し込む。生きているという感覚がリバイバルする。
「さて、そろそろメインが良さそうですわね。かなえさん、お皿を用意してくださる?」
「あ、はい」
中央に控えるラムチョップ2本の様子を見る。さっきからこまめにひっくり返して丁寧に育ててきた代物だ。
「ほら、焼けましたわよ……!」
「わぁ……!」
じゅくじゅくと脂が跳ねて、こんがりと焼けたラムチョップが皿に盛られる。かなえも思わずごくりと喉を鳴らした。
「こ、これどうやって食べたら」
「決まっておりますわ……こういう手合いは、手づかみの丸かじり一択!」
骨に紙を巻いて、掴む。そのまま歯を立てて肉の塊を荒々しく迎え撃つ。しっかと咬みしめれば、吹き上がる肉汁と旨味がある。勢いよくかみちぎった。
そして間髪入れず、
「ビールをぶちかます!」
雄々しくジョッキを飲む。
「エレガンツッ!!!」
貴族令嬢は、池袋の真ん中で吠えた。
マリーの美味しそうに食べる表情に、思わずかなえも釣られて齧り付く。
「ん、んん! この丸かじり感、癖になりますね!」
「主役は野菜と先程いいましたが……やはりこの肉の塊を噛みちぎる快感は、まさしくメインイベントですわ!」
かなえもビールをぐびりと飲む。応えられない充足感があった。
「まるで肉食獣になった気分です……」
「そうですわかなえさん、私たちは今は獣……池袋の飢えた肉食獣なのですわ。あ、店員さんラム肉とビールお代わりで」
「マリーさん、このラムのたたきってのも美味しそうですね」
「じゃあそれもお願いしますわ!」
△ △ △
「うぁああ……」
「また飲みすぎですわね、かなえさん」
ふらつくかなえに肩を貸し、池袋の人混みを2人で歩く。こんな状態でも紙袋を離さないあたり、そうとう大切なものらしい。
夜になりかけた池袋には、活気があった。居酒屋とBARとラーメン屋。それとなにかよくわからない中華料理らしい店。無国籍感がより強くなった。
かつては石を投げれば埼玉県人に当たると揶揄されたカラーギャングの街であった池袋は、今はもうリトルチャイナタウンとなっている。
「これも時代なのかしらねぇ……」
池袋とはこんな街だったろうか、いや、街とは時代によって変わるものだ。
「おねえさん、どこいくの?」
いかにもなチンピラ風の男が声をかけてくる、が無視する。とりあえずかなえを早く駅まで送り届けねば。
「ねぇ、ちょっとだけさあ。ちょっとだけ。奢るからさあ」
──こういうときにめんどくせぇですわねぇ。
相手にするのも馬鹿らしい。無視をしとけば勝手にいなくなるだろう。
「なぁ、なんか言えよ金髪ぅ!」
「……ちっ」
目の前に立ち塞がる。どうもしつこいやつらしい。
「邪魔ですわ」
マリーはぐいと手で男を押しのける。すると男がかなえの肩に手をかけた。
「なぁあんたじゃなくて、こっちの黒髪のほうのが好みなんだけどなあ」
「ま、マリーさん……」
かなえが声を出す。酔いも吹き飛んだようだ。彼女の震えが肩越しにマリーにも伝わる。
──少々、遊びが過ぎますわね。
「あらあらおやめになってほしいのですけれど」
すっと肩にかけられた男の手首を掴む。細い指で柔らかに握ると、そのまま無造作に──引き剥がした。
「ぐおっ!?」
呻く男。顔色1つ変えないマリー。そのままギリギリと力を込めて握る。みるみる鬱血する手首、骨が軋む。
驚愕から悲鳴にチンピラの表情が変わった。
「マナーがなっていませんと、こういうことになりますのよ」
手首を離すと男は後ろに下がる。怯えながらマリーを見つめていた。
「な、なんだこいつ……!」
「よくいる貴族ですわ」
「わ、わけわかんねぇことを……」
「へぇ、そこの金髪。やるじゃねぇか。それに比べて情けねぇなあおめえは」
声がマリーの頭上から聞こえた。
背の高い、男だった。首も、腕も、胸板も腰も標準より明らかに太い。潰れた鼻と沸いた耳は、男の経歴を伝える。つまり寝技の経験者だ。
チンピラが、連れ合いらしい大男に助けを求める視線を送る。どこか薄ら笑いながら、大男はマリーから視線を外さない。
「かなえさん、離れていて」
「ま、マリーさん……」
マリーが構えを取る。左拳を中段に置く、クラシックな空手の構えであった。
○ ○ ○
なんでさぁ、人の恥の話を聞きにくんのかなぁ。まあいいけどさ。
知ってるよな、俺がどういう目にあったか? ブクロじゃもちきりだってな。
ガキの頃から喧嘩やってて悪ガキでさあ。あんまり見かねたお袋に、柔道の道場にぶち込まれたんだよ。そこで有段者にボコボコにされて、そっから必死に練習して3年後には逆にそいつら絞め落としてやった。
あとは外で喧嘩起こして、道場叩き出されてよぉ。それから総合格闘とか、キックボクシングとか色々通ったなぁ。
もう喧嘩ばっかでよぉ。しょうがねぇよ。強そうなやつみるとふっかけたくなるんだもん。性分だなこりゃ。
今はブクロも結構大人しいし、こんなことそろそろやめるかって思ってたんだけどさぁ。
たまたま見つけたおもしれえ格好したやつが、また強そうだったんだよなあ。
ありゃ空手だったと思う。それもかなりやってる。構えでわかったよ。足を広げて、体勢を揺らさない。フットワークとかそういう考えのねぇ古臭い空手だよ。
総合やらシラットやらシステマやら、護身術なら今どき色々あんのにめずらしいと思ったけどさ。まあ、空手だけしかやってないやつなんて楽勝だって思った。
掴めば終わりだもん。
「なぁ、金髪」
だから掴んだよ。手首を掴んでちょいと固めれば終わり。そう思った。
──痛っっ!?
最初は刺されたと思った。刃物で刺されたと思ったよ。
違うんだ。蹴られたんだ。ハイヒールのつま先が俺の腹にめり込んでた。蹴ろうとするモーションが見えねえ。とんでもねぇ速さの前蹴りを、即座にぶち込んできやがった。
──痛って痛って痛って冷たい痛い痛いっっ!!
今まで色んなやつ相手にしてきたからなぁ。蹴りも色々受けてきた。しなる蹴りや響く蹴りなんてやつもいた。顔面にモロに食らったことなんてやまほどあるよ。
でもあれは違うんだ。
深く刺さる蹴りなんて生まれて初めてだった。固めた腹筋が役に立たねぇんだ。痛いとか以前に、体に力が入らねぇ。呼吸が詰まって上手くできねぇ。耐えらんねぇんだよ。
喉奥に胃酸が登ってきた。吐きそうなのをなんとかこらえたんだ。
気がつけば膝を付いてたよ。両手もついてた。アスファルトが生暖かくてよぉ。そこらへん通るやつのよぉ、声がやたら遠く聞こえるんだ。
視線の上のほうに、金髪がいたよ。追撃はしてこないが、構えは解いてねぇ。残心は残してる。なにより目が「立ち上がったら殺す」って訴えてた。
それでもよぉ、このままあっさり終わるのもなんかイヤだったもんで、口からヨダレ垂らしながら立ち上がったよ。バカだよなあ。
「おおおおおおおっっ──!!!」
立ち上がりながら、金髪の足元にタックルを仕掛けた。
どんな空手のうめえ野郎でも、寝技を知らないなら、転がしさえすればあとはどうでも料理できる。そう思ったからだよ。
もちろん、そこをぶん殴れるか蹴られるリスクはある。だが、鼻潰されても、前歯折られてる、なにがなんでも相手の脚さえ取って転がせば後は帳消しにできる。思う存分返せる。俺らみたいなのはそう教えられるもんよ。
そう思ってたんだ。
金髪のスカート──やたらデカいフワフワした布地ごと膝に触れて掴んだ。
勝ったと思った。その時の俺は笑ってたよ。でもすぐに表情は変わった。
──!?!??
動かねぇんだ。金髪の脚は俺が必死に持ち上げようとしても、びくともしねぇ。金髪の体格は明らかに俺の以下のはずなのにだぞ?
まるで──小さな岩をどかそうと思って持ち上げようとしたら、地面の下にはそれ以上のとてつもなくどデカい岩石が埋まっていたのを理解するような……そんな気分だった。
根本から違うんだな、と思った。身長が、体重が、足腰が、積み上げたものが、強さが、生まれが……俺のようなもんとは全部決定的に違う生きもんなんだよ。あの金髪は。
そっから先は……あとは気絶しちまって覚えてねぇ。多分マヌケ面してる俺の無防備な後頭部を、あの金髪が振り下ろしの鉄槌か肘でも使ってぶっ叩いたんだと思う。
それで……あとは連れに聞いた話だよ。俺をぶちのめした後、あっけに取られる連れをそのままにして──逃げちまったんだそうだ。めちゃくちゃ脚速かったらしいな。ハイヒールなのになぁ。
とにかく俺ぁ、二度と貴族に喧嘩は売らねえと決めたんだ。
△ △ △
「ま、マリー、マリーさん!!」
「こ、ここまできたなら大丈夫ですわね……?」
脚を止め、周りを見渡すマリー。その額には汗が滲んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ、い、息が……」
「ああ、無理やり走らせたから……ごめんなさいねかなえさん」
「い、いえ、マリーさんは、私を助けようと思ってしてくれたことで……」
大男をぶちのめしたあと、即座にマリーはかなえの手を引いて脱兎の勢いで逃げ出した。
「良く考えればさっさと通報すれば良かったですわね……ついカッとなってしまって……恥ずかしいことですわ。淑女にあるまじきこと、許してくださいまし」
かなえの手を取り頭を下げる。
「そ、そんな! マリーさんが頭を下げることは……それにすごいかっこよかったですよ! あれ空手ですか?」
「え、ええ、少し覚えがあったもので、身を守る程度は使えますの」
「なんか持ち上げられそうになったのを耐えたのも空手の技なんですか?」
「あれは単純に足腰の力で耐えただけで……工事現場やってると自然に鍛えられますわ」
「え、そうなんですか……?」
ただの身体能力です。
「そうなんですのよ……ところで、駅から遠ざかってしまったのですけれど、どうしましょうか」
「え、えーと、どうせだから他のところで飲み直しましょうか?」
はにかみながら答えるかなえ。その今までよりもどこかたくましくなった姿に、
「……いいですわね、それ。じゃあ中華料理屋いきませんこと?」
マリーもまた笑いながら、歩き出す。
池袋の夜を、二人が行く。
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