第39話 貴族令嬢VS天下一品

「まあ天下一品……?なんだか健康に悪そうなラーメンだわ…」





「ふぅ、ふぅ」


 吐く息は暗い空に吸い込まれて消えていく。マリーの脚は降り積もる雪を力強く踏みしめていく。


「ふぅ、ふぅ」


 雪道に脚を取られまいと力を入れる。それせいで現場終わりの疲れた体にさらに負担がかかった。マイナスの気温はそこに拍車をかける。


──家に帰ったら、風呂を入れてその間に野菜を切って鍋の用意を……


 寒い。疲れた。軽い雨か曇りと言っていた天気予報は大きく外れてまさか大雪になるとは。


「うぅ、さぶ……たかが積雪10センチほどで何を騒ぐと雪国の方は笑うけれど……そういう都市機能が備わっていない関東民にはそれでも大事おおごとなのですわ」


 関東民、特に千葉や埼玉などの人間にとって積雪はもはや年1あるかないかのレジャー感覚なのである。

 とはいえ、由緒正しき貴族たるマリーも突然の大雪には困る。

 大雪で遅れた電車に揺られ、寒さに震えながら家路を急ぐ。そんな彼女の沈んだ視線が動く。


──あ……


 オレンジの看板。4文字。天下一品。

 マリーの脳裏に蘇る、こってりの味。


「いや……いけませんわ。今日は冷蔵庫にあった食材を整理するから鍋にしようと決めていたはず……寒さや疲れ程度に初志貫徹を忘れるなぞ貴族の名折れですわ」


 心に力を込めて、店の前を通り過ぎる。マリーは意志の固い女であった。鉄の女であろうとした。たとえ京都発祥の有名チェーンの天下一品でもその心を折ることはできない。欲望が尽きぬのが人ならば、欲望を制御できるのも人。


「いつまでも欲望のままに生きる私ではないのです」



 △ △ △


「はいお待ち、こってりのチャーシューメン大盛りに唐揚げ定食セットのチャーハン変更です」


「……」


 マリーは無言で箸を割る。備え付けの唐辛子味噌を溶き入れさらにおろしニンニクも投入。


「……」


 かき混ぜてそれらとネギとどろりとしたスープが

渾然一体化した麺を持ち上げて、


 ズゾゾ ズゾゾ ズゾゾ


 すする。すすり込む。粘性の高い天下一品こってりスープもマリーの鍛え上げた高貴なる肺活量の前には無力である。


 ズゾゾ ズゾゾゾゾ


 無言であった。無言で麺を啜り上げる。

 一体となる天下一品独自のこってり感とネギ。麺の熱量。凍えたマリーの体に深く染み込む。


「ふぅ……」


 麺を半分ほど胃にぶち込み、ようやくマリーは声を上げた。


「ううぅっまぁ……」


 青白かった表情に、いつもの精気が宿る。


「やっぱ寒さには勝てませんわ。久々の天下一品、効きますわねぇ……」


 寒い時には熱いものを食べる。結局はこれに勝る対処法はない。貴族令嬢が天下一品の誘惑に勝てなかったのも仕方ないこと。


「やはり暖かさ。生命とは根本的に熱を欲するもの……イタリアンギャングも『熱が無い所では生命は発生しないッッ!!』というようなことをおっしゃっていますものね」


 セットの唐揚げに齧りつく。脂と肉の旨み。天下一品は唐揚げも美味い。


「このこってりが売りなのに京都発祥というギャップ……まったく京都らしさがないですわね」


 京都のラーメンは京料理のイメージとは真逆に油こってり系が多い。京都は学生が多いため「安くて量があって満足感が高い中華料理」が流行りやすくそうなったらしい。


「寒さが落ち着けば、我が身を振り返る余裕もある……勢いのまま頼みすぎたような気もしますが」


 いまだテーブルに並ぶチャーハン、唐揚げ、ラーメンの黄金の布陣。


「この並びなら仕方ないことですわ。生ビール1つ!!」


 マリーは欲望に負けない。欲望を常に上回るからだ。


「はい生ビール!」


 即座に運ばれてきたジョッキを喉を鳴らし呑む。寒さに震えていた彼女はもういない。


「すかさず唐揚げ!」


 噛み締める肉。迸る肉汁。


「そしてラーメンアンドチャーハン!」


 麺を一度チャーハンにバウンドさせてすする。さらにスープがついたチャーハンを口に放り込む。


「再びのビール!!」


 油まみれの口内を洗い流す。快感と充足がマリーを貫く。もはや冬はない。彼女は今春の中にいる。天下一の春の中にいる。


「バースオブスプリング!!!」


 思わず上がったテンションのまま巡らす視線。入口の窓ガラスには雪道を急ぐ人々。凍える彼らを見送りながらの酒と肉とラーメン。なんという優越。


「とりあえず鍋は明日にすればいいのですわ明日にすれば……」


 ふと、マリーの視線が止まった。店前を通り過ぎるベンツがあった。

 見た事のあるSクラスだった。

 後部座席の女と、目が合った。


「あ」


 見覚えがある顔だ。だが、それだけだ。


「まあまさかこないでしょう」


 気をおちつけるためにビールを傾ける。麺をズゾゾとすする。その数分後。


 即座に天下一品の入口が開いた。


「いらっしゃいませー」


 入った瞬間、小走りでマリー目掛けて駆け寄る小柄な体。地味なダウンジャケット、ジーンズ。


「マリーさん!」


 息を切らせ、先日知り合いになった女子大生の山城かなえが声をかける。


「……」


 一瞬、知らないふりをしようか迷ったマリーだが無駄だろうと悟る。


「こ、こんにちわかなえさん。大雪の日に会うなんて奇遇ですわね」


 振り返り立ち上がる。ドレスを持ち上げて会釈。笑顔を作る。貴族はいかなるときも礼儀と体裁を忘れない。


「たまたま店先を通ったらマリーさんがいたんでビックリしました! あ、隣座ってもいいですか良いですよね!」


 ノータイムで横に座る。距離感が、近い。


「なに食べてたんですか? ラーメン? ラーメンですかこのドロドロしたの? これ食べ物なんですか?」


 圧も強い。


「ちょ、ちょっと待ってかなえさん。食べ物なんですかって、あなた天下一品知らないの?」


「全然知らないです。初めて入りました……ひょっとしてこないだの山盛りラーメンみたいなところなんですか……?」


 今更心配しだすな。


「べつにああいう独自ルールのある店ではないですわ天下一品は……とりあえず頼んでみればわかりますわ」


 差し出されたメニュー。目を通す。


「このあっさりとこってりというのが目玉メニューなんですか?」


「そう、天下一品はこのこってりラーメンが柱であり個性なのですわ」


 麺を持ち上げ、すする。


「これはとんこつ?」


「いいえ、ベースは鳥と数種類の野菜のスープですわ。このトロミはその野菜が煮溶けたことによりついた植物性のもの。ようはポタージュに近いもの。こうみえてヘルシー(貴族基準)なのですわ」


※こってりラーメンは一杯約949kcalです。(成人男性の一日に必要kcalは2000kcal)


「じゃあ私は……この唐揚げとビール。それとこのあっさりで!」


「え」


「え」


 互いの時間が止まる。


「な、なにかまずかったですか……?」


「い、いえかなえさん……わたくし天一のあっさり頼む人初めて見たのでちょっと驚いてしまって」


 マリーはこってりしか食べたことがない。というかこってり以外の選択肢はない。


「そ、そうなんですか……?」


「店によってはこってりとあっさりを合わせてこっさりなんてメニューもあるそうですが……基本はこってりですわね」


「こってりにしたほうがいいですか……?」


「い、いえあなたのお好きな方にするべきですわ。人間は自由に在るべきですもの」


「じゃ、じゃあすみません店員さん。このあっさりと唐揚げと、あと……ビールも」


「いいですわね、唐揚げにビール」


 チャーハンに乗せた唐揚げを頬張りながら、マリーは笑う。


「じゃあ私もビールをお代わり」


 △ △ △


「はいあっさりと唐揚げ、ビールのお客様」


 並べられるラーメン、かなえの目が好奇心に光る。

 まずかなえは1口スープを飲む。あっさりとはいうがしっかりと味はある。箸を割り、麺をすする。


「どうですか、かなえさん。はじめての天下一品は?」


「……おいしい、です」


 強烈なコクこそはないが、味そのものははっきりとした輪郭を持つ醤油。ごはんが欲しくなるタイプのラーメン。


 輝く表情のかなえをツマミに、マリーはビールをあおる。

 距離感が独特で少し押しも強いが、よくよく見れば新鮮な反応を見せてくれる面白い娘かもしれない。


「ぷ、ぷっはぁ!」


 唐揚げをかじりビールの苦味に顔を少ししかめるかなえ。どこかぎこちないが、そのうち慣れるだろう。


「あの、マリーさん、私……ラーメン屋とか友達と来たことないんです」


「そうなの?」


「……誘われたこととか、なくって、生まれて初めて入ったラーメン屋も前みたいなお化けみたいなラーメンの店で……変ですよね、いい年にして」


 どこか寂しげに、自嘲するようにかなえが笑う。


「……何歳でも初めてやることなんていくらでもありますわ。大切なのはいつやるかではなくてやるなら楽しむってことだと私は思いますのよ」


「マリーさん……」


 チャーハンをかっこみながら、マリーは微笑む。


「それに二郎はラーメンじゃないからあれは初一人ラーメン屋としてはノーカンでいいんじゃないかしら」


「……あれラーメンじゃないんですか?」


「二郎は二郎という食べ物ですわ」


 ※諸説あります。



 △ △ △


「どぉーも、そろそろ門限なんで帰りますね!」


 ビール1杯でやたら上機嫌になったかなえ。若干引き気味になりながらマリーは手を振る。


「パパがァ、うるさいんですよ、あたしもう二十歳なのに!」


 店の前に運転手がいた。お嬢様かなえを後部座席に迎え入れ、エンジンをかける。


「それじゃああ!!また会いましょおぅっ!」


 かなえの絶叫を垂れ流し、ベンツが行く。


「……色々と彼女もストレスがあるのかしら」


 ため息をつきながら、マリーも会計を済ませ店を出る。

 雪はまだ降っていて、雪の高さも前より増している。

 明日も仕事だ。

 降り積もる雪の中で、マリーは夜空を見上げた。オリオンと冬の大三角形があった。

 雪空に佇む金髪の令嬢は、静かにぽつりと呟いた。



「やっぱかなえさんに頼んで送ってもらったほうがよかったかしら……」


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