第38話 貴族令嬢VS上野 ラウンド3
「何度目の上野よ……もう好きにしてちょうだい……」
「蕎麦はとにかく論争が尽きないジャンルですわ」
上野駅2階ホームを歩くドレス姿。優雅に、そして淑やかに、どこかうきうきと進む方向には、蕎麦屋があった。
「十割から始まり田舎風。それに更科、砂場や薮と言った老鋪三系統。出雲やへぎそばなど地方名物の蕎麦。古来からエネルギーと創意工夫が注がれてきた食文化の極みの1つといっても過言ではない……」
マリーは浮き立つ気分を沈め、平静を保つ。だがどうもどこかで抑えきれない。仕方がない。上野は何度来ても楽しいところだから。
「まあ、全部昨日の漫画喫茶で読んだそばもんの受け売りですけれどね!」
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「しかし個人的に十割そばってあんまり美味しかった記憶が無いのですわ。良い腕のところならば美味しいのでしょうけれど、なんというかポツポツ切れて喉越しが悪かったのよね……」
マリーには十割そばに良いイメージがない。地方の蕎麦どころでやたら推されていても、麺としての出来ならば小麦粉二割蕎麦粉八割の二八蕎麦のほうが上だと思う。
「それだけ十割は腕を問われるということ……よく知らないところなら十割より二八が安牌ですわ。そう、二八なら間違いは無い……!」
通常、立ち食いそば屋など安い傾向のそばはそば粉と小麦粉の割合が半分半分なところも多い。下手をすれば蕎麦粉のほうが少ない場合もある。それでも法的にはそばを名乗れるのだ。
それでもいいとマリーは思う。大切なのは味だ。だが、たまには蕎麦粉が多い蕎麦を手繰りたい。そんな日もある。妥協と諦めだけでは人は生きられない。
マリーがたどり着いた場所は、上野二八蕎麦蕎香。その店前の券売機。
「迷わず冷のワカメそばをプッシュですわ!」
▲ ▲ ▲
「はいお待ちどうさまです」
「これですわー」
間接照明が柔らかに照らす都会的な雰囲気の店内。椅子に腰掛けるマリーの元には生ワカメが盛られた二八蕎麦があった。上に少し乗せられた柚皮に色気を感じる。
「上野二八蕎麦、蕎香。通常の立ち食いそば屋とはクオリティが段違いなのですわここは……そのぶんちょっとお高いけれど、上野駅ホーム内というアクセスしやすさでこのレベルの蕎麦はなかなかありませんわ!」
山葵を溶かし、蕎麦と共にワカメをすする。肉厚のむっちりとした歯ごたえ。
「マーベラスですわ……!」
弾ける蕎麦のコシと喉越し。ワカメの噛みごたえと味わい。止まらない。一気に啜り込む。
「ここのワカメは国産塩蔵生ワカメを使用していますわ……この歯ごたえと蕎麦の腰が癖になりますの」
ズルズルと啜り込み、噛み締める。若い頃はワカメ蕎麦の美味さなど理解できなかったが、今はもうそんな自分を思い出せない。
「まだ肌寒いけれど蕎麦はやはり冷やしですわね……ギリギリまでこの喉越しを味わっていたいの……!」
蕎麦は冷やしこそが一番美味いとマリーは思う。人は気候にはやはり勝てない。しかし耐えられなくなる直前まで、冷やしで味わいたいのだ。
「ふぅ……上野巡りの序盤は上上……後もあるのでここは軽めに済ませて」
立ち上がる。長身に翻るドレス。軽やかに鳴るヒール。
「久しぶりの上野を楽しみますわ!」
今日は給料日だ。
▲ ▲ ▲
もつ焼き おとんば
「えいらっしゃい」
「おひとりですわ。あと生ビール」
間髪入れず注文。待ちきれない。
「へい、こちらへ」
案内されマリーはカウンターに腰を下ろす。見渡す店内。はっきりいって狭い。
「しかしこの狭さがこの店の味なのですわ……レバー、かしら、各2で。あとこのレバー3種セットに……このタン炙り焼きというのを」
「タン炙り焼き2人前からの注文なんですが良いですか?」
「え、そうなんですか……じゃあ2人前で……」
さほど高くないものだ。別にいいか。
「へいビールです」
ドンと置かれたジョッキ。見つめながら、マリーは深く息を吐く。震える指を抑え、潤む眼で黄金の泡沫を見つめた。
落ち着け。静まるのだ。酒は逃げない。
伸ばされた指が取っ手を掴む。しっかりとした感触。今が夢ではないことを確かめる。
持ち上げて口をつけた。泡と、流れ込むビール。
止まらない。喉に流し込む。舌ではない。喉だけで味わうことがビールを飲む正しき作法。
やがて口を離し、ダンッとジョッキを置く。
「たまりませんわねこりゃぁッッ!!」
時刻は平日の12時半。会社員ならばやっと昼休みだろう。日はまだ高く、世の中は勤勉に働く人で満ちている。
その中で流し込む酒。1週間ぶりの酒。
飢えと背徳感が、焦燥と充足が複雑に絡まり合う快感。叫ぶしかない。
「美味くて当然ですわこんなんッッ!!」
「はいかしら、レバー、それとレバー3種盛り」
感動に震えるマリーへ差し出されるつまみ。ますまはかしら肉にかぶりつく。
「弾力ある肉の旨み、素晴らしいですわ……」
はぐはぐと肉を串から剥がす。ビールをチビりと飲む。二杯目、どうするか。
「このレバー3種……低音火入れレバー刺し、レバームース、レバーパテというそこらの呑み屋ではなかなか見ない代物ですわ」
付属のバゲットにパテを乗せてかじる。濃厚なレバーの旨み。ビールが進む。パンもこの店手作りらしい。本当だろうか?
「レバ刺しも見事な温度キープによる素晴らしい火入れ。ムースも軽やかな味わい……これは1杯呑み屋のメニューではありませんわ。まるでイタリアンやフレンチ料理店の前菜を食べているような気分になりますわ……本当にここは上野なの……?」
ぐびり、とビールを飲み干す。圧倒的に酒が足りたい。
「ガリ酎ハイおひとつお願いしますわ」
「へい!ガリ酎!」
タンと置かれたグラス。水鉢に金魚が泳ぐように。赤いガリ生姜が沈む。
「ガリ酎、焼酎にガリと甘酢を入れた代物ですわ。ゲテモノと思われるかもしれませんが、この甘酢がなかなか安焼酎に合いますのよ」
コップからガリを箸でつまんでかじる。口の中をリセットし、レバー串を齧った。
「新鮮で臭みのないレバー! そして絶妙なやや半ナマのベストな火入れ。的確、全てが的確ですわ。やはりここの店主は相当な達人ですわね」
上野の有名な呑み屋の串物はだいたい食べたが、正直な感想としておとんばの串物はレベルが一段上の代物だとマリーは思った。
しかも各部位ごとに細かく別れていて、値段も安く1本から焼いてくれる。
強い。この店は強い。
「これは本腰を入れてかかるべきですわね……!」
▲ ▲ ▲
「うわー本当に無くなってる……」
おとんばをほろ酔いで出て、上野駅前方向でアメ横に向かう。
その途中ではかつてマリーが愛食した牛丼屋、「牛の力」の姿は無くなっていた。
「なんか油そば屋になってる。あんなに有名で客入りも良さそうだったのに」
コロナ禍で潰れる店は多くなっている。無名の個人店どころか、最近は有名店や名物店も潰れるようになった。
有名だが、薄利多売の経営モデル故に客の減少は致命的だったのだ。
だが、客の回転率を上げた薄利多売故の低価格だからこそ誰にでも気軽にこれる店になった。
コロナにより生活が変われば、そこに付随した商売の在り方も当然変わる。変わるだけならいい。実際は失われるものも多い。
「早くワクチン接種をバンバン打ちまくってくれるようになってほしいものですわね……そうすれば多少は元に」
おもちゃのヤマシロヤ前を通り過ぎ、高架下のゾーンへ歩く。
「ここも前は鞄と甘栗を売る上野の名物店だったのに、無くなって薬局になってますわ……」
いつも前を通ると香ばしい栗を焼いた香りが楽しめたものだが、今はもう無い。
「世の中の変化というものは恐ろしいものですわ。それでも頑張って耐えている店もある」
マリーの足は、そこから曲がったところに。
宇奈とと
「久しぶりにウナギ入れたいですわねぇ……」
▲ ▲ ▲
「はいいらっしゃいませー」
「おひとりで。あと瓶ビール」
「はいただいま!」
「ふぅー」
カウンターに座りため息をつく。わかっていたとはいえ、急激に変わる上野の風景にマリーの心は少し疲れていた。
「ダメよ、過ぎ行く思い出に囚われていては……すいません、このくりから焼き5種類セットと、鰻串1つ」
「あいよ!」
悲しみも思い出も時代に流れていくだけ。この傷を癒すものは鰻。そして酒。
「それにしても鰻がどんどん値上がりする昨今、宇奈ととの鰻は相変わらず安いわねぇ。昼から飲めるし」
鰻は高くなった。残酷である。しかし残酷な世界でも人は生きねばならない。マリーはそう決意していた。
「はいビール! あとくりから焼き5種類と鰻串!」
「来ましたわぁ」
皿に並ぶそれぞれ卵黄、大根おろし、梅肉、マヨネーズ、山葵醤油のくりから焼き。それと串に刺さった鰻の蒲焼。
「まずはマヨネーズ!」
ほっくりとした食感と脂の強いくりから焼き=巻き付けられた鰻のヒレ部分の旨みがマヨネーズで倍加される。旨い。油と脂は旨い。
コップに注がれたビールで追って、オイリーな口中を洗い流す快感。
「次に大根おろし、それから山葵!」
マヨネーズとはちがうさっぱり感。いくらでも入る。
「人心地着いてからの卵黄をつけたくりから焼き! パワー溢れるぅ!そこからの追ってビール!」
鰻と玉子。精がつく組み合わせ。そこにビールをぶちかませばもはや言うことはない。
「そして梅肉……うなぎに梅干しは食い合わせが云々なんて話も会ったような気もしますが私は気にしませんわ! 迷信に囚われては美味いものを楽しむことはできませんもの!」
怒涛のくりから焼きを梅肉の酸味で締める。これが様式美というもの。
「そして最後の鰻串……山椒をかけて、と」
一息に頬張る。久しぶりの鰻の蒲焼きのタレ味が染み渡る。やはり鰻は旨い。というかタレは旨い。
「最後の残り1杯のビールを飲み干し……!」
完全なる勝利。
「フィニッシュですわ!!」
▲ ▲ ▲
「ありがとうございましたぁ」
「ふぅーやはり鰻は旨いですわねぇ……絶滅を叫ばれてもこれには抗いがたいですわ」
店を出て見上げる。高架下のメカニカルと、まだ日の高い空。いつものアメ横の空だ。
「人は時代に流されるだけ……悲しいけれど仕方ないこと……はっ、あなたは」
視線の先に、彼はいた。生きて二度と会えないと思っていた相手が。
「クラウン…クラウンカレー! 生きていたのね……!」
上野アメ横名物店の1つ、クラウンカレー。コロナで閉店したと聞いていたが、
「これは入るしかありませんわね……!」
マリーは突撃した。
▲ ▲ ▲
「えーと、カツカレー大盛りで」
券売機から券を取る。店の中はかなり変わっていた。
店の中心にあった円形のカウンターは無くなり、四角い机と仕切りが並ぶ。
「コロナ対策に座席を変えたのね。生き残るために自らを変える……これが生命力というものですわ」
券を渡し着席して待つ。取り放題の青菜漬けや福神漬けは変わっていない。値段もさほど変わらず安い。今この値段でカツカレーが食べられるのは学食くらいしかないだろう。
「はい大盛りカツカレーです」
タンと置かれた大きい平皿。暗褐色のルー。薄めのカツ。変わっていない。何も変わっていない。
「懐かしいですわ!」
1口頬張る。辛さはなくまろやかさとコクと甘みに特化したカレールー。ルーが染み込む薄いカツ。
「変わりませんわね、このノスタルジー溢れるカレー……あまりに古式ゆかしいクラシックスタイル。落ち着くわぁ」
日本人はカレーへの懐がずいぶんと深くなった。
昔の洋食屋スタイルから始まり、スパイスの辛さや香りに偏重が置かれ、本式インドカレーやタイカレーが知られるようになる。近頃はスマトラカレーやスリランカカレーも有名になり、プーパッポンカレーやマッサマンカレーが世界の美食としてレストランに並ぶ。またご当地カレーも当たり前になった。
世界でもっとも多くの種類のカレーが食べられる国とは、間違いなくこの令和の日本である。
「それでも、このクラシックなカレーの人気はけして無くなりませんわ」
ガツガツと頬張り、福神漬けをぽりぽりとかじる。これだ。どんなカレーを味わっても、結局日本人はこういうもったりとした古いカレーを忘れることができない。カレーは辛くないと許せないマリーでも、なぜかこういうカレーは許せてしまう。
「落ち着く癒しのカレー……やはり上野は癒しの街ですわね」
カランと、置かれたスプーンが皿を打った。
▲ ▲ ▲
「大盛りカレー。結構効きましたわね……」
アメ横を1人歩く。足取りは少し重い。
「それでも、二度と会えないと思っていた相手に再開した喜びは嬉しいものですわ。また景気が戻ったらどこかで店を再開する料理屋とかでてくるんじゃないかしら」
復活する店もたまにはある。常連が店主を継いだという話も珍しいものではない。生きていれば、またどこかで出会えることもあるのだ。
「『生きていれば人はいくらでも奇跡に出会える。世界には幸運が満ちているのさ』……アランの叔父様はそう言ってましたわね。叔父様、お元気かしら」
思い出す。いつも快活に笑うマリーを可愛がってくれたアラン男爵のことを。
「『特にこの教祖様からもらったパワーストーンが幸運をもたらしてくれんだ。なんといまなら30パーセントオフで15万で買えるよ』と怪しげな新興宗教のところに出入りするようになった叔父様……」
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