第36話 貴族令嬢VS立ち飲み屋 ラウンド24
「さぁて、なににしましょうか!」
「……」
威勢のいいヒゲの店員の声に二十歳になったばかりの女子大生──山城 かなえは無言のまま立ち尽くしていた。
肩まで伸びた黒髪、暖色のセーターとジーンズ。顔つきはあどけない。いかにも垢抜けない女子大生といった雰囲気。
周囲には中年達が各々勝手に会話をしている。会話というかもはや酒の勢いによる大声の飛ばしあいだ。
その中で、かなえはますます萎縮していく。
元々こういう騒がしい場は苦手なはずなのに。
「あ、えっと」
口ごもる。うまく言葉がでない。落ち着きなく店のメニュー表を見る。
「なにしやしょうか!!」
「あ、あ、の、」
チュウハイ、タコワサ、アタリメ、文字は読める。だがそれがなにか彼女にはよくわからない。わからないものをどうやって注文すればいい?
「もう少し、待ってあげたらいかがかしら店員さん」
涼やかに通る女の声が、薄暗い酒場に響いた。
「せかすことはあまり良くないわ」
「へ、へぇすいません……それじゃあ決まったらお声がけください」
声の主はかなえの隣にいた。輝くような金髪と、胸元の開いた白いドレスがあった。そして整った美しい横顔とどこか儚げな雰囲気。ハイヒールと、その足元に置かれたリュックサック。警備員がよくもっている光る棒が刺さっている。
まるで絵に描いた中世貴族のような姿の女が、立ち飲み屋のカウンターにいた。
細腕で、それでもジョッキで酒を豪快に煽っていた。儚い輪郭で、それでもスルメをがっしりと噛んでいた。
酔った客の喧騒とよくわからない有線の演歌が鳴り響く店内の中で、彼女の異装は強く隔絶していた。だがなぜか馴染んでいる。こんなにもアンバランスなのに。
「あなた、ここは初めてなの?」
彼女は目線をこちらに向けず、じっと手元の新聞──競馬新聞、「馬サブロー」を読みながらかなえに語りかけた。
「え、あ、はい、そう、です」
しどろもどろになりながらも答える。
「あまり若いお嬢さんが入るところではないと思うのだけれど」
呟きながら、彼女は耳に挟んだ赤ペンに触れる。キュッと三番人気の馬の欄に赤丸を着けた。そして手元の枡酒をくいっとあおる。
もはや馴染むとか違和感がないとかそういうレベルではない。どこか粋さえ感じる。
──じゃああなたはなんなんですか…?
口から出そうになった言葉をぐっとこらえる。親切に声をかけてくれたこちらの方に失礼をしてはいけない。
むしろ、ここは頼るべきだ。
「あ、あの、お願いが」
「……なんですの?」
思いきって、勇気をだして、踏み込む。
「立ち飲み屋でのお酒の飲み方を教えてください!」
しばしの黙考の末、貴族令嬢のような女はゆっくりと競馬新聞を閉じた。
「お話を、聞きましょうか」
△ △ △
「ふぅん、大学に入ったはいいがこのご時世で飲み会もないし大学にも顔をなかなか出せないまま先日二十歳になったと?」
「はいそうです……」
ポツポツと身の上を語る女性──山城かなえと名乗った。女子大生の話を聞きながらマリーは枡酒をぐびりと飲む。
「と、友達も出来なくて……外でお酒を飲んだことがなくて、思いきって入ってみたんですけど、なにを頼めばいいのかよくわからなくて固まってしまって」
「なにを頼めばって……好きに頼めばいいのでは?」
「そ、それがよくわからなくて……外から見るとみんななにか美味しそうなものを食べてるように見えるけれど、入ってみるとそれがなんなのかよくわからないし、店員さんにも聞きにくくて」
「ふぅん、こういう居酒屋のものって入らない人にはよくわからないものなのかしらね……あなた、お酒は飲んだことはあるの? 気分が悪くなったりはした?」
アルコールに耐性があるかは人それぞれである。それがわからない人間にいきなり店で酒を飲ませるのは貴族的な行いではない。
「家でお父さ、父のお酒を少し飲ませてもらったことはあります。特に体調が悪くなったりはしませんでした……正直味はあまりよくわからなかったですけど」
「そう、なら大丈夫ね。……なにを頼んだらいいかわからない、と。ならまずスタンダードを学ぶことね。よく頼まれるものから飲んで食してみればいいわ。店員さん、チューハイを一つ。薄めでいいわ、それと煮込み」
「え、薄めですか?」
「ええ、薄めで」
「へい!」
マリーの注文に小気味良く答える店員。かなえは彼女に尋ねる。
「チューハイって、なんですか?あと煮込みってなにを煮込んだもので……」
「チューハイは「焼酎ハイボール」の略よ。元々のハイボールはウイスキーの炭酸割り、その焼酎バージョンということね。こういう安い酒場では昔から安価だけれど味わいがキツイ甲類焼酎を炭酸で飲みやすくしたものが愛飲されていたのよ」
安酒場では安酒が重宝される。しかし安酒ほど飲みにくい味なものが多い。それも数十年前のものならなおさらである。それも炭酸で割りレモンで香り付けすればするすると飲めるものになるだろう。
運ばれてきたグラスと小鉢。土色の煮物に刻みネギが乗っていた。
「これは豚モツ、つまり豚の腸の味噌煮込み。煮込みも地方や店によっては牛モツや牛すじだったり醤油や塩だったりと変わるのよ。共通するのは『安価で硬い肉の部位』であること。安くて臭みがある肉を煮込んで食べやすくして出したのが発祥なのね。大鍋で煮込んで注文があればすぐ出せるのもせっかちな酒飲みが多い酒場に向いた料理ということよ」
「は、はぁ」
説明を聞きながら二つをしげしげと眺める。そういえばこういうものを外のテーブルで飲んでいたおじさんたちが食べていた。
「その二つは初めて店で飲むあなたへ私からの奢りよ。まずは体験してみなさいな」
「あ、ありがとうございます……」
頭を下げるかなえ。思っていた以上にこの人は良い人なのかもしれない。
ぐびりとチューハイに口をつける。レモンの香りと炭酸。わずかに感じる焼酎。アルコールのきつさは少しあるような気もするが薄めなのであまり気にならない。
「こ、これがチューハイ……」
「さあ、そこに煮込みをぶちこむのよ」
「ぶっ」
ぶちこむ。いきなり雰囲気に似合わないワードに吹き出しそうになるが耐える。箸で持ち上げたモツは柔らかく、プルプルと震えていた。
口にいれると濃厚な味噌味とモツの脂の旨味があった。共に煮込まれていた大根や牛蒡にもモツの旨味が染み込み、うまい。モツの臭みはなく、だがモツの味わいを消していない絶妙な味わい。
追ってチューハイ。舌の上のモツのインパクトを洗い流し、また新しくモツの味を楽しむ。
かなえの反応を満足そうに眺めながら、貴族令嬢マリーはスルメをまたも噛みしめ日本酒を一口すすった。
「豚モツはそのクセと臭みゆえに安価。ですがそれをどう料理するかに店の腕が問われる食材ですわ。臭みを取りすぎればモツの味がない。臭みを取らなくては食えたものではない。その点、この店はなかなかのバランスでしょう?」
「は、はい、すごく美味しいです!」
「七味を振るとまた味わいが変わりましてよ」
「は、はい!」
素直な反応。マリーの生活ではこういう人間はひさしく見ていない。自然とマリーの目が細まる。
「お新香や煮込みは大抵の店ではすぐ出てくるものですわ。そして煮込みが旨い店なら大抵の料理は悪くはないもの。最初に入った店ではそれらで店の腕を見極めるのが酒飲みがよく使う手というところですわ」
「あ、あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なにかしら」
「メニュー表に書いてある以外に、あっちの黒板に書いてあるメニューはなんでしょうか?」
「あれは……ようは定番のメニューではなく日替わりやオススメということですわね。なにか気になるものでもありまして?」
「白レバーってなんですか?あと肉刺しって……」
「白レバーは鶏の脂肪肝ですわ。つまり鶏肝のフォアグラ版ということ。たまに鶏をさばくと見つかるもので結構レアですわ。それとここの肉刺しは牛モモ肉を流行りの低温調理したものですわ」
「完全な生じゃないんですか?」
「いろいろ事件があって、今は保健所がうるさいので馬以外の肉の生食は厳しいのですわ。ですがもちろん低温調理でも味は……ま、食べてみればわかることですわね」
「それじゃあ……店員さん、肉刺しと白レバー焼! それとチューハイの薄めもう一杯!」
「私は泡盛。それと豚の角煮で」
おどおどとしていたかなえが、今はもう普通に注文している。マリーの導きで彼女は酒飲みとして踏み出したのだ。
「それにしてもかなえさん、家ではお酒を飲んだことがあるそうですけれど、どんなものを召し上がったのですか?」
「父の持っていたお酒ですね。父はお酒を集めるのが趣味で、私が飲んでみたいといったら色々出してくれたんです」
「それはお父様もお喜びになったでしょうね」
酒好きの父が大人になった娘と杯を交わす。親として実に感慨深いことだろうとマリーは思った。
「最初に焼酎を進めてくれたんですけど、割らずにそのまま飲んでみたらあんまり好みじゃなくて」
「へぇ、それはどのような名前の焼酎かしら?」
黒霧島、白波、いいちこ、あるいは大五郎か。まあ初めてでそういう焼酎をそのままでは飲みにくくて当たり前だなとマリーは思った。
「ええと、モリイゾーって名前のお酒でした」
「……はっ?」
思わずつぶやくマリー。
「ど、どうしたんですか……?」
「い、いえなんでもないわ。続けて」
落ち着きを取り戻すために泡盛を一口啜る。森伊蔵、高級焼酎の代名詞だが、貰い物で入手することも特に珍しくはない。
──あ、あれですわね。会社の福引きとかで運良く入手できたのですわね。
虎の子を娘に飲ませる。なんて優しい父親だろうか。
「でもあんまり美味しいと思えなくて、じゃあ他のお酒を試してみようと」
彼女の舌には合わなかったらしい。
「それで今度はウイスキーを進めてくれたんですけど、あんまり美味しさがわからなくて」
「なんてウイスキーを?」
「名前はよく覚えてないんですけど、山なんとかって」
「……へぇ、多分それ山崎ですわね」
マリーの動きが一瞬止まる。落ち着け。森伊蔵を飲ませる父親だ。ウイスキーもそれくらいは出すかもしれない。
「あ。それですそれです」
「そ、それは何年ものを……十年とかそういうやつでは」
「いえたしか『これは25年ものだ』って父が言ってました」
「ぶっ!?」
思わず酒を吹き掛ける。寸前でこらえた。
「ど、どうしたんですか!?」
「い、いえなんでもないわ……い、いい経験をさせてくださる優しいお父様ね」
※アマゾン参考価格、山崎25年 700ml134万円。
──ど、どういうお家の子なんですのこの娘は……?
「そ、そういうお酒を飲んだ後に、ここのチューハイは口に合うのですか?」
「自分でも不思議なんですけど……口に合うとか合わないとかじゃなくて、なんていうか、楽しいんです。ここにいると騒がしいところで知らないものを食べて飲む。そういうことがすごく」
「そう……そうね。外でお酒を飲むってことは単純な味だけじゃなくて雰囲気を楽しむということも大きいわね」
喧騒と人の賑わいが欲しくて酒場をさ迷うものもいる。飲みにいくということは、ただ飲み食いをするだけではないのだ。
「だからこういうところでお酒を飲むってどんなことなのかなって店に入ってみたんですけど……注文もできなかったです」
どこか寂しげに笑うかなえ。彼女が欲しかったものは酒の飲み方ではなく、酒をいっしょに飲んでくれる友人なのだろう。
「……あなたはお酒の飲み方を知りたいそうだけれど、そんなものに別に決まりなんてないわ。他人に迷惑をかけないなら好きなものを好きに食べて飲めばいいだけなのよ」
自由こそがもっとも尊ぶべきものだとマリーは思う。
「で、でもかっこいいとか渋いって言われるお酒のみっていろいろセオリーありますよね? 焼き鳥は塩がいいとか、あんまり油もののつまみを頼みすぎてはいけないとか」
「酒飲みはこう飲むべしなんて昔からいわれていますけれど、──はっきりいって結局ただの自己満足ですわ」
ばっさりとマリーは切って捨てた。
「え」
「塩だけつまみで飲むとか油ものばかりは粋じゃないとか、結局年食って胃腸が弱くなった高齢者のぼやきですわよ。旬のものを上品に調理したものも美味しいですけれど、ビールでポテトフライやメンチカツをジャンキーに流し込みたい日もありますわ」
「そ、そんな身も蓋もない……」
「好きなものを好きに飲んで食べる。これに勝る酒の飲み方なんてありませんのよ。ストイックな呑み方の良さもわかりますが、それができるからって人より偉いとか上級だなんてこともありませんわ」
「そ、そうなんですか」
「そもそもは酒を呑むというデメリットだらけの行動が人生の大いなる矛盾。それに合理性やかくあるべしというスタイルを押し付けてもナンセンスでしょう。ただまあ、あえていうならすべての酒飲みがほぼこだわるいわば『普遍の真理』、というものは一つあるかもしれませんわね」
普遍の真理。ここまでばっさりと切り捨ててきたマリーがそこまでいうとは一体なんなのか?
「そ、それは一体?」
「それは」
泡盛を一口呑む。ほうと火の吐息を吐いて、彼女は気高く天を見上げた。
「度数あたりのコスパですわ」
「コスパ」
話の方向が変わった。
「酒飲みが酒に慣れれば必然的に度数の高い酒を求めるようになる……そうなれば当然気にかかるのはアルコール濃度あたりのコスパですわ。一杯目が安い。それだけで優しく見える。酒が濃い。それだけで良い店に見えてくる。グラスで頼むよりボトルのほうが濃い目をお得に飲める。じゃあいっちゃおっか。そういうふうに酒飲みは流れていってしまう。悲しい生き物……」
今の話で悲しみ要素あるか?
「それでチューハイ薄めといったらさっき店員さんちょっと驚いてたんですね……」
「薄いと怒る客はいても薄くしてくれと頼む客なんてまずお目にかかりませんからね……」
△ △ △
「今日はぁ、ありがとうございましたぁ」
「はいはいそうね」
ろれつの怪しいかなえを肩に担ぎつつ、マリーは人気の無くなった商店街を歩く。コロナ規制で夜八時で大半の店は閉まった。
冬のひんやりとする空気は、酒で熱くなった体に心地良い。少し前はこんな風に二軒目三軒目を呑み歩いたものだが。
「また、またいっしょに呑んでくださいねぇ」
「はいはいそうね」
薄くしたチューハイをカパカパと開けて気がつけば彼女はこうなっていた。酒に酔ったのか酒場の雰囲気に酔ったのか。年頃の娘が一人でこうなっていたら危ないどころの話ではない。
「……これは送らないといけないかしら」
彼女の家はどこなのか。そんなことを考えていると。
「あぁ、大丈夫ですよぉ。もうすぐ家のものが迎えに来ますからぁ」
「ああ、すでに連絡したのね」
そんな会話をしていると、目の前に車が止まった。
「お嬢様、大丈夫ですか」
車から降りる中年の男性。娘の名前ではなくお嬢様、ということは。
──運転手付き……?
よく目を凝らす。多分ベンツだ。それもCクラス程度ではない。
──これ、A……いやSクラスじゃ
「ご友人の方ですか? お嬢様がお世話になりました」
「え、いやまあ、特に大したことでは」
頭を下げつつ男がかなえを回収する座席に乗せて車を出す。
「また会いましょうねぇ!」
大声を出すかなえを乗せてベンツは走り去っていった。
しばしの沈黙の後、マリーはトボトボと家へ向かって歩き出す。
「……いるのねぇ、本当のお嬢様って」
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