第35話 貴族令嬢 VSちゃんこ鍋
「ちゃんこ鍋……? これは相撲取りが食べるもので貴族が食すものではなくてよ?」
「へいらっしゃい!」
店主の声が客の少ない店に響く。貴族令嬢マリーは優雅にドレスを翻し、ヒールを脱いで案内された座敷へ上がる。
「ふぅ……」
作業着の入ったリュックを下ろし、八時間労働後の疲れた体を座布団に置く。疲労は見えるが、まだマリーの目には闘志があった。
新年一発目のちゃんこ鍋である。ここで貴族が気後れを見せるわけにはいかない。
「イカの一夜干しと力士味噌。それと唐揚げ。あと……このどんぶりビールで。鍋は、この横綱味噌ちゃんこ一人前でお願いしますわ」
「へい。こちらどんぶりビール! それと力士味噌!」
麗しく細い彼女と対照的に、おおぶりのどんぶりへ並々と注がれた生ビールが置かれた。
マリーの白く長い手が、がっしりとどんぶりをつかむ。がぶりとふちにかみつくようにビールに口を着けた。
無言で飲む。
ゴッ ゴッ ゴッ
豪快な喉の音だけがあった。
「あ゛あッッ! 仕事後のビール、雅ですわ……!!」
相撲取りはビールをどんぶりに空けて飲むという。あのガタイではたしかに小さなコップでは足りないだろう。まさに力士らしい豪放磊落な習慣だ。
今宵はちゃんこ鍋。教育と教養に溢れたしとやかな彼女でも、今日だけは力士の豪快さにならおうと思う。
「……あまりの寒さについ飛び込んでしまいましたわ。やはり冬の乙女にちゃんこは外せませんものね」
ちゃんこ。相撲部屋においてはじつは食事全般がちゃんこと呼ばれている。また相撲出身者が多いプロレス団体も習慣的に食事をちゃんこと呼ぶことが多い。
その中でも多量に調理しやすく、なおかつ材料を選ばない料理の「鍋」が代表格となっていったわけである。
「それにしても、新年会のシーズンにこの空きようですか……」
見渡す店の客は数人しかいない。ちゃんこ鍋屋には忘年会と新年会がある冬はまさにかきいれ時である。それがこれとは。
例年ならば宴会客で満杯で予約無しではとても入れない。本来ならば飛び込みで食いにいける時期ではないのだ。
「恐ろしいわねぇコロナは……さて」
力士味噌に添えられたきゅうりに、味噌をつけてポリポリとかじる。肉そぼろの旨味と鰹節の旨味、それらをまとめあげる甘めの味噌とニンニクの風味。爽やかなきゅうりの歯ごたえ。
ぐびりとどんぶりビールで流す。
「くはぁ」
たまらない。
「ふぅ……正月でも仕事があるのはありがたいものですが、やはり冷え込み厳しいのは外仕事には辛いものですわね……」
雪が少ないのはありがたいが、冷えることだけはどうにもならない。
「ホッカイロ、そろそろ買い足しておかないと切れますわ……」
グビリ、ポリポリ。そうやってきゅうりが無くなるころ。
「はい! イカの一夜干しと鶏の唐揚げ。それとちゃんこ火にかけときますね!」
運ばれる具と、汁の入った鍋がカセットコンロの上に置かれる。着火し離れていく店員。マリーはビールをぐいと飲み、鶏の唐揚げをかじる。
「ん! ジューシーで柔らかくニンニク醤油が効いているわね。定番だけれど外れがない……こういうことって大事なのだわ」
相撲は験担ぎで鶏肉を好む。2本脚で立ち前足を地面に着かないことが負けない力士の姿と重なるそうだ。
「弾力が強いイカも一夜干せばプリプリと柔らかく旨味溢れる……七味マヨネーズに醤油でかじりつき……」
プリプリとした食感と濃くなった旨味。日本人はイカが好きだ。大好きだ。刺身で焼いて揚げて干して炒めてさらには塩辛にもする。イカにイカれている民族だ。明日もしもイカが進化して人並みの知能を手に入れたら真っ先に血まみれの復讐をされるだろう。
「追ってビール……!」
だがそんな日はないので当然酒のつまみとする。軽くなるどんぶり。反比例して加速していくマリーの飲食速度。マリーはついていけるだろうか。ビールの無いこの世界のスピードに。
「煮立つまでのこの間……黄金の時間ですわ。どんぶりビールお代わり!」
「へいただいま!!」
できませんでした。
「しかし、明日からはまた仕事が切れる……正月明け早々にデンジャラスムーヴですわ……」
マリーの戦いの日々は常にデスロードである。
お代わりのどんぶりビールをごぶりと飲み、ほおと悩ましげにため息をついた。その横顔は花のような可憐さである。ただどんぶりの迫力のほうが上まわっていた。
「また緊急事態宣言だすのかしら……それにしても菅のおじさまが国民全員にお年玉五万円くれるって話どうなったのかしら」
ガジガジとイカをかじる。ビールをガブガブと飲む。しかし不安は無くならない。
「私に優しく接してくれるのは今はこのイカの一夜干しだけですわね」
そろそろ酒以外の恋人が欲しい。そんなことをふと思う。そういえばコロナなど社会不安が増えると結婚率が上がるという話は本当だろうか。
「あ、そろそろ煮立ってきた、つみれ入れとかないと」
鍋蓋を取る。慣れた手際でいわしの生つみれの入った貝殻から、くるりと一口にまとめたつみれを鍋に落としていく。
「こうやって塊から手際よく玉にして生つくねを入れられるかが良家の淑女として教養と格を問われるところなのですわ……」
沸き立つ鍋に、まずは硬いものから入れていく。
「……五万円、本当にないのかしら…」
多分無いです。
「いけませんわ。所詮は不確かな約定、もうアテにするような子供ではありませんのよ私は……!」
確かなものだけが武器となる。ロマンより確実動作性。最先端武器よりも砂が挟まり凍結しても必ず動く古い武器のほうが兵士には喜ばれるものである。
「店員さん、赤閻魔のロック下さる?」
「へい喜んで!」
久々に、ガツンと弱気に火を入れたい気分だ。
「世相は暗く先行きは見えず、だがこういう時にこそ貴族の強さというものが問われるのですわ!」
「へい! お待ち!」
「『未来はわからない。だからこそ楽しいものだ』、そうおっしゃっていましたわよね叔父様……」
思い出す。叔父のアラン男爵の力強い笑顔。
「最近未来予知ができる超能力者とセミナーで出会ったから競馬で儲けられるか試してくると言って変な宗教にはまりつつある叔父様……」
叔父様大丈夫か。
「ん、そろそろいいですわね……固いものはすでに煮えているのでまずは柔らかいものから入れて」
肉類と魚に葉野菜を加え煮立たせる。煮立ったところを引き上げて皿にいれた。七味を振る。そして一口。
「うまい。やはり冬の味噌鍋は貴族の魂に染み込む魅力がありますわ……!」
間髪いれずに焼酎のグラスを傾ける。
「ここに赤閻魔ロックで追いかけ……!」
「強いッッ!!」
冬の味噌ちゃんこ。焼酎。それらを疲れた体に染み込ませる。強い。すべての状況が強い。
「ちゃんこは力士のための鍋……そりゃ強くなる料理ですわ」
煮立った肉。つみれ。キノコ。食える。無限に食える。
「煮込まれてくったりとしたあたりから白菜や根菜に手を出す……!! そして熱いのど奥を焼酎ロックで冷やす!」
グイと杯を傾けた。
「燃えるッッ!!」
命が、極寒に燃え盛る。
「そして出汁がしみしみの油揚げ……!ちゃんこ鍋には縁起を担いで前足を付かない鶏と『上げる』をかけて油揚げが必ず入るのですわ!」
箸が止まらない。全勝街道バクシンである。
「私も勝ちたい……世の中に……!」
わりとマリーの今は切実であった。
「赤閻魔ロックお代わり!」
△ △ △
「ふぅー、あらかた食べ尽くすと次は締めをどうするか……」
品書きに目を通す。やはり鍋のシメはセンスを問われるものだ。うかつなことをすれば社交界では即座に笑い者となる。
「ラーメン、うどん、おじや……さて……」
安牌はおじや。ラーメンやうどんも並ぶ。モチという手もある。だがこれではない。今一つピンとこない。
「……これは」
貴族令嬢の目が止まる。
「不安だらけの新年、こんな時こそは」
硬直した状況を切り開くのは、状況を壊す勇気である。
「冒険、してみましょうか……締めの餃子お願いしますわ」
△ △ △
「へい、締め用の餃子」
皿には、生の餃子があった。
「日高屋で餃子、川越でホワイト餃子、そして明けも餃子、思えばこれも運命かしらね……」
餃子まみれの一年。だがそれも悪くない。クツクツと鍋が沸くのを待つ。
「ちゃんこ味噌鍋で煮込まれる締めのスープ餃子…果たして味は」
ちゅるり、ハフハフと餃子を食べる。しばしの間。ぐびりと焼酎をあおり、叫ぶ。
「閻魔のロック、もういっぱい!」
「ちゃんこスープが皮に吸い込まれてるんだからそら旨いに決まってますわよね!」
ハフハフと2個目を食う。口の中に餃子に吸い込まれていたスープが炸裂。
「焼酎との相性も
「これでは締めになりませんわね!! 失敗、失敗ですわ! ですがこれは嬉しい失敗!!」
△ △ △
「まいどー」
店員に見送られ、商店街を歩く。正月の明けごろでは人も少ない。
「ふぅ。思わず力士飯を堪能してしまいましたわ。力がつきますわね、やはり淑女たるものパワーが大事ですわ」
諸説いわく横綱は人ではなく神だという。相撲とは本来は格闘技というよりは神に捧げる神事。いわば相撲取り自体が神官に近いものなのである。その中の最高峰である横綱ならば、神と同一視されるのはたしかに道理。
力を欲するならば、神に至る力士の飯を食そうとするのは当たり前なのだ。
「しかし例年ならばこの時期は新年会でちゃんこ鍋屋に予約無しで入るなんてまずできないはずですのに……」
先が見えない世の中、力を求めたくなるものだ。気丈に振る舞おうともマリーはか弱い乙女なのだから。
「……明日からまた暇かぁ」
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