第32話 貴族令嬢VSてんや
「てんや……わたくしこういう下品なところで天ぷらをいただいた覚えなんてございませんことよ……?」
「晩酌セット、それに穴子天にまいたけ天をつけて。それとタコの酢の物お願いしますわ」
「はいかしこまりました」
翻す白のドレス。注文を済ませ、どっかりとマリーは椅子に腰をおろした。
「ふぅぅ……」
いつもは余裕ある彼女の横顔に、あきらかな疲労があった。
「さすがに群馬の現場は遠かったですわねぇ……仕事は早めに終わっても帰りのバスが長いこと……」
駅が近くない現場仕事が増えた。移動手段が徒歩か電車か原付の三択しかない貴族令嬢には、アクセスが悪い現場はやはりきつい。
「マン喫で一泊というのも考えたのですが、それでは利益が薄いし明日も別の現場ですわ。なによりマン喫で一泊すると疲れが取れないのよね……いやだわ年かしら」
疲れが取れないのは、ついつい懐かしい漫画を読みふけり寝るのが遅くなるせいである。「ああ播磨灘」を全巻一気読みして睡眠時間が二時間になった。
「それにしても久々のてんやね……手頃に天ぷらが楽しめるこの店、このコロナ禍で関西方面のてんやは消滅したそうだわ。まさに選ばれし関東の民のみが味わえる店ということ……」
天ぷら屋。実は地方それぞれにチェーン店があるジャンルである。大衆店ではてんやを筆頭に九州では博多天ぷらのひらお等が有名だ。高級店ではつな八などがある。
「天ぷら、ご家庭ではなかなか本格的に揚げるのは難しいものですわね。それを手軽に食べられるとあってはそりゃ根強いものですわ」
家でも揚げることはできるが、油や道具までを本格的に揃えてつくるのはそうそうできるものではない。
「はいタコ酢とビールですお客様」
「これこれ……疲れた身には酸っぱいものが染みるのよ……」
ムグムグとタコの酢の物を噛み砕く。タコの弾力とワカメ、酸味の味わいはくたびれたこの身に無性にありがたい。
そして、追ってビール。
「ぷはぁ……これだわぁ」
仕事の後の一杯。明日への活力のために始めたことだが、気がつけばこのために生きている気がする。
「近頃は店が八時で閉まるので急いでいかないと間に合わなかったりして困りますわね……コンビニに寄ってつまみを買うものたまには楽しいものですが続くと飽きますわ」
あとレジ前のホットスナックや饅頭や和菓子をつい買ってしまう。やはり大手チェーンの売上をつくるノウハウはすごいとマリーは思った。
「はい天ぷら盛り合わせ」
「来ましたわぁ」
運ばれる皿に並ぶは、いんげん、れんこん、イカ、そしてエビのいつものメンツ。それに穴子とまいたけというマリーのチョイス。
「天ぷらは揚げたてを親の仇のように食うのが一番美味い食べ方ですわ……まずは塩でれんこん!」
ガブリとかじれば小気味良い歯ごたえとほっくり感。塩で引き立つ甘味。二口目を天つゆでさらにかじる。
「そこにビール……たまりませんわこれは!」
グビリと呑み、そしていんげん。またもグビリ。次にまいたけ。塩でかじれば豊潤な香り。
「おほぅ……! 私舞茸の食べ方はやはり天ぷらが一番好きですわ。追ってビール!」
飲み干す一杯。躊躇無くマリーは二杯目を頼む。天ぷら相手に一杯で済ませるなどという不作法、貴族がしていいはずがない。
合間に卓上のつけものを挟んで摘まむ。てんやのつけものは時期で変わる。今は大根の壺漬けだ。ポリポリと小気味良い歯ごたえ。
「疲労につけものの塩分が染みますわ……てんやのつけものってなんか美味しいんですわよね」
いざとなればつけものだけで呑めそうな気がする。
「生ビール! もう一つ!」
「はいただいまー」
即座にくる二杯目を、噛みつくように呑む。続いて穴子の塩、天つゆ。はぐはぐとあなごの身を噛み締めた。
「穴子の脂の旨味……この味わいプライスレスですわ!」
てんやではあなご天は300円(税込)です。
「この感動をそのままで、はいここで暖かいそば一つ!」
「はいおそばですねー」
△ △ △
「はい暖かいおそばです」
シンプルな、ただシンプルなかけそばがあった。
「てんやの蕎麦、わたくしは地味に好評価なのですわ……」
とっておいた半身のあなご。そしてエビ天をのせる。即席の天ぷら蕎麦だ。
「安めながら二八のしっかりめのそば……寒くなるとやはり汁物や麺類はほしくなりますものね」
一気にずずずっとそばをすすりこむ。衣に汁を吸ったあなご、そしてとっておいた最後のオオトリ、エビをかじる。
「旨ッ……! 天ぷらの醍醐味はやはりこの衣。汁を吸った衣の旨さは酒のつまみにもなる!」
汁を溶けた衣ごとすすりこみ、最後に残ったビールで熱くなった口内を冷ます。寒い冬にしか味わえない喜び。
「ぷはぁ……天そばの名残惜しさをビールで流す、これがいわゆる残心ですわ……!」
全然ちがいます。
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「ふぅー、夜風が染みますわねぇ」
冬も一段と濃くなって、風は骨身に染みてきた。
人ごみがずいぶんと減った夜の街を歩きながら、貴族令嬢マリーはとぼとぼと歩く。
看板の明かりが消えた町並みは、寂しさを通り越してどこか非現実感さえある。
「まだ八時でこの有り様……みなさまはこの長くなりすぎた夜をどうすごしているのかしら?」
コロナ禍で商売は大きく変わりつつある。人がたくさん集まればそこに大きな商売があるという今までの鉄則は、もう通用しない。
それでも、このもてあます夜の長さが変わるわけでもない。時代は簡単に変わっても、人が簡単には変われない。
若い頃は、この楽しい夜がもっと長ければいいのにと思うことはいくつもあった。
今はもう、退屈な夜の長さにうんざりとしている。
「夜の短さに嘆く日はいつかまた、訪れるのでしょうか……?」
答えるものはない。ただ、明日の板橋区での仕事だけが確かな未来だった。
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