第29話 貴族令嬢VSさんま

「秋刀魚……? いかにも下々が好きそうな油臭い魚ですこと」





「いらっしゃい」


「お一人ですわ。キュウリの浅漬け。それと……涼しくなってきたからビールという気分ではないですわね。久保田の冷やで」


 流れる金髪が、指を一本立てて入店する。足取りは軽く、だが背負ったリュックサックの重さで足音は重く。まるで彼女の生まれもった高貴なる家名の重量を象徴するように、ハイヒールは軋んでいた。


「へい」


 流れる有線は90年代もの。大将の言葉は少なく、腕は信用できる。そういうところに酔客は長居したくなるものだ。


「ふぅ……」


 リュックを下ろし隣の椅子に置く。ミシリと椅子が鳴った。


「えーと、オススメは……」


 キョロキョロと周囲を巡る。黒板に書かれた品書きに目が止まる。オススメにはピンクのチョークで花丸が付いていた。大将の趣味か。


「アジ刺し、それと豆アジの南蛮漬け」


「あいよ」


 同時に浅漬けと日本酒が来た。


「すっかり涼しくなってありがたいのですけれど、現場仕事も長めになってきましたわねぇ」


 秋はいつの間にか深くなっていた。こんなときこそ、季節を偲ぶのが高貴な生き方というものである。

 きゅうりをつまみ、ぽりぽりかじる。ぐいと冷や酒をあおった。


「日が落ちるのが早いと外仕事は面倒になって困りますわ……」


 すぐ暗くなると、外仕事は難儀になる。

 またも日本酒を呑み、マリーはほうとため息をつく。


「浅漬けと日本酒でしっとりと呑める……私も少しは大人になりましたわね」


「へいアジ刺しと小アジ南蛮」


 醤油に生姜を溶いて、刺身を摘まむ。夏も終わりだが、まだまだアジに脂を感じる。


「いかように料理しようとも味がいいからアジ……なんて直球な名前の魚かしら」


 アジ、生でも焼いてもうまい。干してもうまい。隙のない、そつのない魚だ。しかも値段も安い。


「そこに合わせて久保田……」


 うまい。しみじみとした、それでいて奥行きがある。なによりこの少し寒さを感じる秋という情景に、マリーは浸っていた。

 

「盛りをとうに過ぎて名残のアジ……あえて粋を外すのも乙なものですわ」


 江戸っ子は旬を大事にする。それも早めに出回る走りものを食べることを粋とする。だが味は盛りや名残の頃のほうが上だ。

 粋にやろうと片意地を張るのもまた粋ではない。甲を目指して力むのではなく、どこかで力を抜いて乙に落とすのもまた粋である。


「その食材の美味しくなる手前を走りといい、一番美味しくなることを盛り、時期の終わりかけを名残という。昔の人々は季節の捉え方が繊細でしたのね……」


 豆アジの南蛮を箸でつまむ。ザクザクと頭からかじった。ここの南蛮漬けは漬け込みが長めで頭から食べられるから好きだ。


「今日はゆるりと上品に池波正太郎的な世界でお送りしますわ……」


 貴族令嬢はこういうこともできる。ビールと油物と炭水化物だけにうつつを抜かすだけでは高貴な身分の示しにならないのだ。


「豆アジの南蛮漬け、からりと揚げた小アジを野菜を千切りにして作ったピリ辛の南蛮酢に漬けたこの逸品。飯のおかずにもいいですが、やはり酒と合わせてなんぼのもんですわ」


 チビリチビリと杯を空かす。


「当然久保田との相性は良くて当然……!」


「すいません、お銚子もう一本!」


「へい」


 運ばれる酒、とくとくと注ぎまた呑む。


「今年はイワシが豊漁でサンマは不漁だそうですわね。自然の摂理には所詮人は叶わないもの……」


 人は自然から恵みを受け、自然から奪われる。いかに科学が進もうとも人類が天然自然に翻弄される存在であることは変わらない。


「私も雨が続いて日雇いが途絶えたら、耐えるしかありませんものね」


 マリーもまた自然に翻弄される存在である。できれば変わりたい。


「家で安酒あおりながら録画してたタモリ倶楽部みてるだけの毎日も乙なものですわ……タモ様、なぜ私は手ぬぐい止まりなのですか? その程度の女なのですかわたくしは……」


 マリーはジャンパーが欲しかった。


「さて、秋も深しならばサンマも食べたくなるものですが、ないならないで我慢もすれば、あ、マツタケあるんだ…」


 品書きの真ん中にマツタケがあった。値段が高めだったので、どうやら本能的に視覚から拒絶していたらしい。金銭感覚は認識に影響を与えるものだ。


「……マツタケの天ぷら? はー……まあ中国か北朝鮮産かカナダ産でしょ、値段は……」


 土瓶蒸しの値段と、日本酒の値段を比べる。

 マツタケ焼きの値段と、日本酒の値段を比べる。


「……マツタケよりも日本酒もう一本頼んだほうがいいですわね……あ、サンマある。でも焼きだけで刺身はないわねぇ」


「冷凍もんですけどねーどうしますか」


 いつのまにやら来ていた店員の兄ちゃんが人懐っこい笑顔で聞いてきた。

 去年の冷凍ものだから刺身は避けたのか。

 どうするか、貴族令嬢は迷う。


「……一尾、焼いてもらおうかしら」 


「うっす」


 頷いて、青年は大将に注文を伝えた。


 △ △ △


「はい焼きサンマ!」


 じゅくじゅくと焦げた皮に脂が沸騰する。さんまの焼ける匂いは、この魚はなぜこんなにも人の魂をたやすく掴むのか。


「ここは焼き魚には大根おろし多めにしてくれるのが嬉しい店なのですわ……醤油とレモンで、いただく!」


 熱く焼けた身をたっぷりの大根おろしで冷ます。そのまま口に運べば、力強い秋の味がした。

 貴族令嬢マリーは焼き魚の大根おろしは多めでないと許せない女だ。大根おろしをケチる店は死罪にすべきだと思っている。


「やはり秋はサンマですわね……冷凍ものでも、サンマを秋に食べるというこの感動が大事なのですわ!」


 秋に秋の物を食べ、酒を呑む。ただそれだけでいい。風流とは、本来は贅沢なことではない。富めるものにも貧しきものにも季節は平等に過ぎるもの、春夏秋冬を味わうことは誰にでも開かれた楽しみである。


「肝の苦味も私の好み! 久保田が、久保田が足りないわ……!」


 マリーは凛々しく、空の徳利をかかげた。


 △ △ △


「ありがとやっしたー」


「ふぅ……やはり秋にサンマを食べると食べないでは満足感が違いますわね。冷凍ものでも、おいしいものはおいしいものですわ。それに、もう少し待てば生サンマにも出回るはず……」


 最初は水揚げがなくとも、後から復活することもある。今は焦らずにゆっくりと待とう。

 秋風に吹かれながら、夜の街を歩き出す。深くなった夜は、そるでもまだどこか生ぬるかった。酔いを冷ますほどではなくて、それでもまだ喧騒は戻らなくて。


「『会えないことは、もう一度会ったときに嬉しさを倍にしてくれる』そう叔父様は仰っていましたわね……」


 微笑えみながら、マリーはアラン男爵の言葉を反芻する。アスファルトを蹴るハイヒールは、酔いにどこか踊っていた。


 「二度目の浮気がバレて奥さん子供に実家に帰られて、子供に二年間会わせてもらってない叔父様……」


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