第21話 貴族令嬢VSいわし
「いわし……庶民はこういう下魚ばかりありがたがって食べているのね。かわいそうなことだわ」
がらら、と引き戸が開く。外の雨音が雪崩れ込み、人影がのれんをくぐる。傘たたみながら店内へ。
すすけた壁と使い込まれて飴色を放つカウンター、その椅子に腰掛けながら貴族令嬢はゆっくりと今日の品書きに目をこらす。
「へいらっしゃい」
居酒屋の大将の言葉を無言で流し、少しの沈黙の後に貴族令嬢は口を開いた。
「お新香、日本酒……八海山の冷やで。あとは……イワシの刺身、それと塩焼き」
「あいよ」
即座に出される徳利とぐい飲み、そしてお新香。注ぎながら、マリーはため息を吐いた。
そしてまず一杯を飲み干す。
「ふぅぅ……」
少しだけ、マリーの目尻に涙が浮かんでいた。
「梅雨でドレスがカビましたわ……」
マリーの服装は今、ジャージであった。
貴族子女工業高校の校章が入った紫のクソダサイジャージであった。それとスニーカー。長い金髪はひとまとめにして巻いてある。
「まさか二着同時にカビが生えるとは……この貴族の目でも見抜けませなんだ」
現在、ドレスはクリーニングと補修に出している。
「また金がかかる……給付金ほとんど残ってませんわ」
江戸時代、金には足が生えていると言われていた。まるで足が生えているようにすぐに逃げてしまうという意味である。
マリーは思う。現在では金は進化した。足どころか翼が生えていると。
「ですが失ったものを悔いても仕方ないこと……振り向かないことが誇り高い生き方なのよ……!」
貴族は前に進み続ける。例えどれほどの別れがあろうとも。
もう一度、酒をあおる。これは弔いの酒である。ドレス二着分のクリーニングと補修費への弔い。
「へいイワシ刺、それと塩焼き」
冥福への祈りを断ち切る大将の言葉。運ばれてきた料理にマリーの視線が移った。
「入梅イワシ、梅雨入りのイワシは油が乗って最上とのことですがどれほどのものか見せていただきましょうか」
刺身をしょうが醤油で一口。口内に広がる油の甘味、いわしの旨味。
「そこに合わせて酒!」
ぐいと呑む。合わさる喜び。
「旨いですわ……」
梅雨らしく、しっとりと喜びを呟く。旨い。旨くて当然だ。
「ただでさえ旨いいわしの刺身が、油が乗ってさらに旨い……ああ、私の心がいやされていきますわ」
刺身をつまみ、酒をちびちびとやる。この居酒屋に流れる有線はいつも昭和ムード歌謡だ。音は控えめなので、外の雨音が聞こえてくる。
蒸し暑くろくなことがない梅雨でも、こうして呑めるならば悪くはないものだと思えてくる。
「さて次はいわし塩焼き……」
箸で身を摘まむと、見事な油のてかり。大根おろしと共に一口頬張ると焦げた皮と油の香ばしい香りがする。
「追って日本酒!!」
またぐいと呑む。いわしの旨味を日本酒がよりふくよかにさせてくれる。
「これは何杯でも飲めますわね」
イワシはかつて下魚とされ、豊漁だった江戸時代は畑の肥料にされたという。今はもう高級魚になりかけているというのに。
「時代により扱いは変わるもの。それは貴族もイワシも同じですわ」
逃れられないのだ。魚も人も時代からは。
「……仕事、途絶えましたわね」
梅雨入りの雨が続き、外現場の仕事が途絶えた。
「しかし耐えなければいけません。耐えることも貴族の美徳……! それには活力が必要。そして活力とはなにか」
活力とは、生きる力を与えるものとはなにか。
「それは油ものですわ。大将、このイワシの大葉チーズフライ、それと中生」
「あいよ」
△ △ △
「はいイワシ大葉チーズフライ、それとビールね!」
「来ましたわぁ」
開かれた後に、くるりと巻かれフライにされたイワシ。それをマリーはそのまま豪快にかぶりつく。
マリーは歯が丈夫なので小魚の小骨程度は気にしないのだ。顎が強いことは貴族のたしなみである。
「ふはぁ、衣のサクサク、揚げられたイワシの旨さに、チーズと大葉が渾然一体となり……たまりませんわぁ!」
そこにビールをぶちかます。梅雨を吹き飛ばす爽快感。
「くぅぅ……無限に呑めますわぁ!」
△ △ △
「ありあとやっしたー」
大将に見送られ、マリーは店を出る。
そとは相変わらずの雨であり、蒸し暑さは変わらない。
だがマリーの心にはいくばくかの爽やかさが戻っていた。
「天気予報では明日は晴れ……仕事も予定が入っていますわ。今日を不幸が覆っても、明日には明日のやるべきことがある。人生とはそういうものですわ。なによりもそれが自由というもの」
ピチャピチャと、雨の中をジャージのマリーが歩く。
「……やっぱドレス着ないほうが快適ですわね」
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