第10話 貴族令嬢VSうなぎ
「うなぎ……? 庶民らしい泥臭そうな食べ物ね……」
「瓶ビール。それとうなぎのかぶと串二本、鯉の洗い。あと柳川鍋をおひとつお願いしますわ」
カウンターに座ると同時に注文を発する。年季を感じさせる店内は午前11時からすでに活気に沸いていた。
赤羽の名店であるこの店では、開店から酒を呑む客でいっぱいになる。夜勤明け、徹夜明け、そういう客が酒を求めてなだれ込むのだ。
「はい、それとお先にかぶと串お待ち」
レスポンス良く置かれるビールと、割られたうなぎの頭が串に連なるかぶと焼きがマリーの元に並ぶ
「ビールをコップに注いで……」
トットット、と小気味よく黄金がコップに注がれていく。
「かぶと焼きを一口、ビールでおっかけて」
口内で一体となるうなぎの味と、ビールの苦味。
「う゛ま゛い゛ですわ!」
赤羽の真ん中で、貴族は吠えた。
うなぎのかぶと串はそのままうなぎの頭がいくつか刺さってるインパクト溢れる串焼きだ。
「ここはうなぎを捌きタレも造りますので、頭も出汁取りに煮込まれて柔らかく食べられますの」
ガジガジと、頭をかじりながらさらにビール。
「ああ、頭でもしっかりとうなぎの味がしてエレガントですわ」
「はい鯉の洗いと柳川鍋ー!」
ややとつっけんどんに洗いと柳川が置かれる。赤が入った白く輝く洗い鯉の身と、グツグツと湯気を立てるドジョウの柳川鍋だ。
「ここはうなぎを始め川魚料理全般が持ち味。当然鯉やドジョウも美味しいですわ。時期によっては鮎はもちろんナマズもいただけてよろしいですわ」
鯉の洗いに酢味噌をつけて一口。この店は鯉料理が一年中リーズナブルに食べられるのも特徴の一つである。
「洗われた鯉の身に、酢味噌……そこに酒を合わせて……」
グビリとまたも杯を傾けた。
「無限に呑めますわ……!」
箸が動く。今度は煮え立つ小鍋へ。
「そして柳川……ドジョウの食べ方でわたくし一番好きですわよ……」
濃いめの割り下に骨抜きのやわらかドジョウ、ささがきのゴボウとの相性は抜群だ。そして玉子。酒が進まないはずがない
マリーの箸は止まらない。
「ハイリキおかわりお願いしますわ…!」
ハイリキ、またはジャン酎と呼ばれるチューハイのボトルとグラスが運ばれてきた。とくとくグラスに酎ハイを注ぎ、まずは一口。
この店の酒は一人三杯まで。いつどのタイミングで酒を頼むかが生死をわける。
「それから……」
マリーは、ゆっくりと店の天井を見上げた。年季の入った、煤けた天井だった。
この
「わたくしは昨日、特別定額給付金を投函してきました」
ゆっくりと、マリーはつぶやく。
「十万円がもうすぐ入ります」
もうすぐ、入るはずだ。入るはずなのだ。
「十万円ですわ」
大きい。十万は大きい。
「しかしそれは最短でも三週間後ですわ」
長い。三週間は長い。それ以上伸びる可能性もある。
「それまで十万円は手に入りません」
もう一度、マリーはチューハイをあおった。
「入りません」
サバイバルだ。生き延びねばならない。
「ですが」
しかし、貴族は今を最大限楽しむから貴族なのだ。
「もう手には入ったも同然と考えてもいいのではないでしょうか?」
考えても、いいはずだ。
「手に入れたも同然ならば、使ってしまうことは道理ですわ」
金は使うもの。それが経済である。
「使って経済を回すことが肝要であり、来るまで待つなど愚の骨頂ではないでしょうか?」
なにかに、といかけるように言葉を続ける。
「ないでしょうか?」
答えるものは、ない。
「愚の骨頂ですわね」
マリーは制定した。
「というわけで、うな重。特上肝吸い付きお願いしますわ!!!!」
貴族の咆哮が、再び店内にこだました。
「あいよ」
△ △ △
「はい特上肝吸いねーそれと生ビールお待ち」
目の前に重箱があった。カウンターの上にある、余りにも懐かしいその重量感に、貴族たるマリーも思わず唾を飲み込む。
「うなぎ…考えてみればこういう個人店でちゃんとしたうなぎを食べるのはかなりひさしぶりでしたわね……」
蓋をあける。湯気と共に現れる、丑の日の王、キングオブ焼き魚料理。
「焼きたてのえも言われぬ芳香……! 嗅覚への暴力……!」
うなぎの香りに、食欲が暴走する。マリーにはこれ以上耐えきれない。
「突撃するしかない……!」
箸を重に潜らせる。柔らかに切れるうなぎ、そしてタレの染み込んだ白飯を無心にほおばった。
「香ばしい香りと芳醇な脂、タレの旨味、うまい…やはりうなぎはうますぎる生き物ですわ……」
こんなにうまい生き物は、乱獲されて当然である
「これは絶滅不可避も同然……! それをハイリキで洗い流す…!」
グビグビと杯を傾ける。うなぎの脂を押し流し、リフレッシュした舌でまた挑む。
「また食べる!」
勝てない。人はうなぎに勝てないのだ。例え人がうなぎを食い尽くそうと、人がうなぎに勝利する日はない。
なぜなら、うまいから。
「幸福の再生産……!!」
△ △ △
「ありあとやっしたー」
明るい店員の声に見送られ、マリーは店を出た。
「ふぅ…あまりのうまさにあっという間に食べ終わってしまいましたわ…ひさしぶりとはいえもう少し味わって食べなければ……」
うなぎは高くなった。貴族でさえおいそれとは食べられない。だが、一年に三度くらいはうなぎは店で食べたいものだとマリーは思った。
「……十万円、いつ届くのかなあ」
欲望が叶えられれば、今度は不安が頭をもたげる。満足感とともに、今月はあといくら使えるか家計を再計算する。
「しかしさすが赤羽ですわね……朝十時からでも余裕で呑み屋が開いてる……」
赤羽には「日が高いうちは呑ませない」などと真人間なことを言う店はない。むしろ「昼から呑むのが普通」といった顔で店を開ける。
「あ、あそこの餃子屋ちょっといってみようかしら」
時刻は昼一時、マリーの赤羽巡りはまだ始まったばかりだ。
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