第8話 貴族令嬢VS豚骨ラーメン


「豚骨ラーメン……? なにこの豚骨臭い下劣な店は……!?」





「中瓶、あと皿盛りチャーシューとネギメンマ」


「あいよ」


 のれんをくぐると同時に注文が発せられた。ドレスに日傘といったいでたちの金髪の美女、マリーが豚骨ラーメン屋のぬるつく床を闊歩する。

 長年の営業で染み付くラードの滑りを、優雅な動きで制御しながらカウンターに着席する。


「ひさびさにフルで働くとちょっと疲れますわねぇ……」


 久しぶりの八時間労働をこなしたマリーの肉体は、渇き餓えていた。


「へいビール、御注ぎします。お客さんお疲れさまです!」


 トクトクと小気味よく注がれる黄金の液体を掲げ、今日を乗り切れたことをマリーは一人祝福する。


「あ、どーもどーも」


 飲み干す一杯。疲労気味の体に染み渡る。


「あー、染みますわね!!」


 タンっ、と置いたグラスの音が、客の少ない店内に響いた。


 コロナから仕事が戻ってきている。ストップしていた現場が動き出せば、当然間に合わせるために仕事を急かされる。久しぶりのフルタイムと残業には、厳格に育てられた貴族といえど堪えるものがあった。

 だが弱音は見せられない。マリーは貴族である。貴族たるものハードワークを乗りこなさねばならない。


「はい皿盛りチャーシューとネギメンマ!」


 小気味よく出されたつまみ二品。とにかくすぐ出てくるのがこの二品の良いところだ。


「ラーメン屋、それも街中華ではない博多とんこつの店で呑む…こういう呑み方を覚えたあたり、わたくしも大人になりましたわね……」


 ラーメンが専門の店で呑む。これにはなかなかの経験値が必要になる。だが、酒が注文できる限り、そこは必ず呑める店なのだ。攻略法は必ず存在する。

 皿盛りチャーシューを一口かじる。


「ここのチャーシューはモモを使った歯ごたえ重視…噛み締めると赤身の旨味が感じられますわね……」


 チャーシューは部位により味わいがかなり変わる。柔らかさを求めるなら脂の多いバラを使うが、この店は歯ごたえと肉本来の味わいを重視したモモ肉派である。

 古式的な豚骨ラーメンでない、新しい店や二郎系ほど柔かさ重視のバラ肉を使う傾向が多いが、マリーはこの不器用な豚骨ラーメン屋のモモ肉のがっしりとしたチャーシューが好きだった。

 そこへネギメンマ。メンマの味わいにネギの香味、そしてラーメンのタレが足され箸がすすむ。

 

「そしてアサヒスゥッパァドラァィ……!」


 追ってビール。喉を鳴らしコップを飲み干した。


「非常事態宣言もやっと解除……そろそろ仕事も増えてきましたわ」


 仕事は増えてきた。忙しいことの有り難さをかみしめながら呑むビールは旨い、旨いが、いつまで続くのか不安はある。

 二度目はないという保証はない。


「家飲みでしのぐ日々もこれで終わりになるかしら……檸檬堂がなかなか美味しいのでそれはそれで助かりましたけれど、やはり店で飲む瓶は一味違うように感じますわ……」


 ストロングゼロをはじめとする缶チューハイ群雄割拠の時代、マリーは熱烈な檸檬堂派だった。


「ビールを飲み干してネギメンマとチャーシューを少し残してから……」


「すいません、とんこつラーメン麺固めおひとつお願いしますわ」


 頷く大将、麺茹で機に投下される麺。大型の寸胴鍋から注がれる豚骨スープ。この店は豚骨スープの自作に大型の寸胴と高出力コンロを複数備えている。本格的な博多豚骨ラーメンを作っているのだ。

 店でスープを自作する以上は、店に豚骨の匂いが出る。臭さもまた店の個性だ。


「さぁ締めに移りますわよ……」


 豪快な豚骨ラーメン屋、だが精緻なる策謀こそが貴族の武器である。締めを制す者が店を制すのだ。


「へいお待ち!」


 渾身の一杯である。白濁し湯気をあげるスープと、刻み青ネギが散らばる。中心に鎮座するは歯ごたえを加味して薄めに、だが大きく切られたチャーシューがあった。そばには脇を固めるようにノリがある。


「初手はコショウとおろしニンニクでいただく……!」


 明日のことは気にしない。ニンニクをぶち込むのだ。果てるまで。もっとも明日は休みなのだから問題ないのだが。

 スープにコショウとニンニクをなじませ、一気にすすり上げる。豚骨の風味を纏う麺に、ニンニクの固まっている部分が溶け合っているこのバランスを、マリーは愛飲していた。

 理性を消し、すする。すすり込む。いまこのときこの瞬間だけは、マリーは貴族ではなく豚骨をむさぼる鬼であった。


「これで麺を食べた後に……替え玉、固めで」


「へい替え玉固め!」


 速い。早いではなく速い。大将はすでにこのタイミングでマリーが替え玉をすることを見切っていた。


「さすがですわ大将……替え玉投入、さらに残しておいたチャーシューとネギメンマを融合……」


 マリーの策謀が火を噴く。このために準備を整えてきたのだ。


「現れよ我が切り札……とんこつネギメンマチャーシューメンを場に召喚!!」


 完全である。完璧ではなく、完全が目の前にあった。勝利確定。


「ウッメ……通常のラーメンにチャーシュー倍増とネギメンマがプラス…もはや覇王の風格…!!」


 ガツガツと、ズルズルとラーメンをすすり込む。先につまみでビールを楽しみ、一度目はシンプルな豚骨ラーメンを楽しむ。そして替え玉による二度目で今度はつまみと融合させた豚骨ラーメンを楽しむ。

 策謀と奸智、マリーの貴族たる力をフルに活用した完全勝利だった。


「あーうまかった……さてあとは家に帰って……」


 丼を置く。カランと鳴った。


「帰って……」


 あとは帰って寝るだけだ。ゆっくりと朝寝を楽しむだけだ。

 だが、


「かえっ……」


 マリーの目は、残っているスープから目が離せない。

 あとは帰るだけだというのに。


「……大将、小ライス一つ」


「あいよ」


 即座に来た半ライスを、マリーはためらいなく丼へぶち込んだ。


「やっぱスープにご飯入れないととんこつラーメンへの礼儀を果たせませんわよね!」


 ザブザブと飲み干される豚骨スープおじや。カロリーや塩分など気にはしない。カロリーと塩分は相殺され実質ゼロになることなどは貴族として当然知っている嗜みである。


「あーこんどこそフィニッシュ……」


トゥルルルルルル


 丼を再び置いた直後、マリーの電話が鳴った。


「はい、はい、あ、明日の現場ですか? 大宮? 朝九時? ……えーと、はいはい入れます入れますではお願いしますチィース」


 電話を切る。休みの予定は無くなった。このニンニク臭さ、どうするべきか。

 しかし、稼げるうちに稼がねばならない。


「ふぅ……明日も頑張りますわよ!」


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