第7話 貴族令嬢VS富士そば

「富士そば……? このような浅ましいところに貴族の私を招くだなんて……!」




「角ハイっと」


 券売機の前で、マリーの白い指先が踊る。迷いなく押される角ハイボールのボタン。即座に券が印刷される。


「枝豆、エビ天、かき揚げ」


 さらに追加で押されるボタン。券売機の受け取り口に重ねられていく食券の数々。


「あとそれから板わさですわ」


 だめ押しにもう一枚。


「へいらっしゃーい」


 突き出した券の群。店員が小気味よく注文を受ける。


「天ぷらはそばつゆかけておいてくださいませ」


 マリーは静かに台抜きを命じた。


「へいまず角ハイと枝豆、あと板わさ! あとできたらお呼びしますねー」


 即座に出てくるつまみと酒。受け取り口前の席を陣取る。


「枝豆と、角ハイボール」


 冷凍物だろう枝豆を口に放り込み、ハイボールで押し流す。爽快感が疲労を吹き飛ばす。


「五臓六腑に染み込みますわぁ…」



 時刻は午後二時、マリーの現場仕事は早く終わった。こういう昼よりの時間帯に飲める店はなかなか見つからない。昼のランチタイムがやっていたとしてもせいぜい三時近くまで開いているのが関の山だ。呑むのには少々時間がせわしない。

 だが富士そばは違う。24時間営業だ。いついかなるどんな時、早朝深夜もそばが食いたくなった貴族と酒がのみたくなった貴族を低価格帯で心暖かく迎えてくれる。

 冷たい都市にも、人の優しさはあるのだとマリーは思う。


「ひさびさに昼に仕事が終わってゆっくりできますわ」


 ハイボールを飲みながら、つまみを待つ。このひと時も癒やしである。


「富士そばは気軽く呑めて締めにそばも頼めるから便利ですわねぇ」


 酒飲みが締めにそばやうどんなど麺類を頼むのは定番。その点でも富士そばはまさに盤石だ。


「はいエビ天とかき揚げの台抜き出来ましたよお客さん!」


「あ、はいはい私です私です」


 スタスタと受け取り口へ向かう。富士そばは食券制であるゆえ、注文は常に食券と受け取り口を往復せねばならない。この受け取り口との距離が近いほど、ゆっくりと呑める。受け取り口近くを取れるかどうかが、富士そば呑みの命運を分けるのだ。


「台抜きのそばつゆを含む汁けのある衣が、つまみに最適なのですわ…」

 

 七味をふってかき揚げにかぶりつく。じゅわりとした汁けとややカリッと歯ごたえを残した衣がマリーの口の中で弾けた。

 たまらずハイボールで迎え撃つ。


台抜きとは天ぷらそばなどからそばを抜いたものの意である。ようはそばつゆに浸った種物だが、これが蕎麦屋のみの古来よりの定番なのだ。

 そば屋の天ぷらはそばつゆとの相性を高めるために、専門の天ぷら屋のものよりも衣が厚くなっている。厚い衣にそばつゆを吸わせそば屋の命たるつゆの味を強く味わわせるためである。

 古来よりの伝統を今でも楽しむ、実にマリーは貴族的であった。


「続いてエビ天……!」


 勢いよく噛みちぎる。エビの旨味がそばつゆと共に口内に溢れた。


「この地上でエビを揚げたものが美味でないはずがない……! 約束された勝利……!」


 マリーのエビへの信頼は厚い。それが油で揚げられているとなれば、自らの命を賭ける相手にも選べるとマリーは断言できる。


「追って角ハイ……」


 グビグビと、ただグビグビと酒を飲む。


「そして蕎麦屋呑みの定番板わさ先輩……道端に咲くタンポポのような癒やしだわ……」


 派手さのみではない、時には見慣れた気安さと地味さが孤独な心を救うものだ。


「富士そばは店舗ごとの独自メニューが多く、しばらく前話題になったポテトそばなどが有名ですわね」


 角ハイジョッキを片手にスタスタと店内を歩く。こういうことができるのも富士そばの良さだ。


「かくいう私もポテトそばのジャンキー路線、嫌いではないのですわ」


 券売機に小銭を入れる。チャリンチャリンと硬貨がなり、灯る光に指が動く。


「角ハイっと」


 すでに券売機のパネルの位置は確認しない。マリーの指がどこに角ハイボールがあるか覚えていた。


「ハイ角ハイ一丁」


 そして即座に出される角ハイボール。引き換えに空のジョッキを渡す。


「店の入りやすさも素敵ですわ」


 呑みながら着席。エビ天の尻尾を噛み締めながら、少しため息をついた。


「特にまだ十万円が来ない私には…」


 令嬢は特別給付金を待ちこがれていた。だが、まだ用紙は家に届いていない。


「ですがもうそろそろ用紙はくるはず…諦めずに忍耐を続けるのですわ」


 マリーは顔を上げた。目の前には富士そばの埃がかった天井があった。だが、マリーはその向こうの青空を見上げている。


「『けして諦めなければ、不可能もピンチも必ず突破できる』、そう言ってましたわよね、叔父様」


 アラン男爵、よくマリーを可愛がってくれた優しい叔父は、いつもマリーにそう言ってくれた。


「営業中に風俗行ったのがバレて首になりかけたのが奥様にバレて実家に帰られたけれど、義両親の前で土下座して離婚回避できた叔父様…」


 嫁さんから土下座してるところの写真が送られてきて親戚がなかなかの祭りになったことを思い出し、マリーは懐かしさに少し微笑んだ。


「さて、そろそろ締めを考えませんと……蕎麦屋で締めにそばは当たり前ですが、富士そばは煮干しラーメンもなかなかの味ですわ」


 富士そば呑みにそばで締める。実に定番である。しかし、定番を時に外してみたくなる日もある。一方富士そばの煮干しラーメンもなかなか評価が高い。悩みどころだ。


「そばかラーメンか、酒飲みらしくさっぱりと済ませたいものですわね……えーと、ラーメンラーメン…?」


 小銭を入れながら、マリーの視線が止まった。


「これは…」


 視線が止まる。そして指は迷う。どうするか、この一期一会。


「えい」


 ピッと券売機が鳴った。




「……なぜ私はこれを買ってしまったのでしょうか」


 席に戻り自問する。なぜか、人は時に理由のない行動をするものだ。なにかがマリーの指を動かした。


「しかし指が勝手に動いてしまった……運命に逆らわず生きろと神がおっしゃっているのかしら」 


 なぜそうしたのかはわからない。だが、自分がなにをすべきかはわかる。


「出会いとは時に理不尽なものなのですわね……しかしそれさえも甘受してみせるわ…」


「はーいカレーカツ丼のお客さん!できましたよ!」


 店員の声が、勢いよく響いた。


「はいはい行きます行きます」 




「カレーカツ丼……カレーの上にカツ煮を載せた代物ですわよね…どうみても」


 カレーの上に、カツ丼が存在しあった。カレーカロリーの上にカツ煮カロリーを重ねるという食の究極二段構造、あるいは栄養二重殺、もしくは「カツ煮おまえカレーで二千万パワーズだ」ともいうべき迫力がマリーを迎え撃っている。物言わぬ重量が貴族淑女たる彼女を圧倒していた。


「なんなんでしょうこの『バカの考えた最強のご馳走』みたいな代物は……」


 カレーはうまい。カツ丼もうまい。だから重ねれば倍うまい。そんなところだろうか、作った動機は。理解はできる。だがそれを本当にやるとは。

 狂気である。癒やしの場に突如としてむき出しの狂気が襲いかかった。マリーは、狂気を選んでしまった。


「味は…」


 一口、口に運ぶ。この狂気を確かめねばならない。


「……」


 一瞬の間、だがすぐに二口目を口に運ぶ。そして三口、四口。


「こりゃストロングなデヴの味がしますわねぇ! そりゃそうですわ!」


 スプーンが滑らかに動く。狂気とも、愚行とも思えるそれは、だが英断であった。


「カロリーはうまいということを脳に深く刻み込むようなお味! 嫌いじゃない、嫌いじゃなくてよ!」


 カツ丼のカツを、カレーが包み込む、出汁の染み込んだカツ煮をそれでもカレーの風味がまとめあげていた。カレーの懐は、マリーが思うよりもはるかに深かった。


「ふぅー…胃袋にルネッサンスが起きましたわ…」


 カランと、スプーンが器を鳴らした。




「ありがとうございましたー」


 店員に見送られ、マリーは富士そばを出る。貴族らしくたおやかにしずしずと歩く彼女の心は、それでも今日の遭遇戦の総括に追われていた。


「思わぬ野生のデヴ食との遭遇……反省はあれど悔いはありませんわ。煮干しラーメンは次にしましょう」


 時刻は三時半、まだまだ日は高かった。


「次の店はどこにしましょうか……」


 定額給付金申請用紙は、まだ届かない。

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