第14話 それでも私は生きている
まずは保健室に向かう。保健室は図書室と同じ階にある。勢いよく扉を開け、保健室に駆け込む。
しかし、そこには誰もいなかった。
考える間もなく、保健室を飛び出す。校舎のどこかに誰かがいるはずだ。とにかく人を探そなければ。
校舎中を駆け回り、職員室へ向かった。その際に誰一人と出会わなかったことを、充は不思議に思う余裕はなかった。
息を切らせて職員室に入る。すみません。声をかけながら入ったが、期待と反して、ここにも誰一人としていなかった。
一体どうなっているのだ。
ここに来て漸く、自分の身に不可思議なことが起きていることに気づいた。
誰もいないはずがない。
まだ下校時刻にすらなっていない。それなのに、生徒は言わずもがな、大人が一人もいないというのはありえない。
窓から校庭を見下ろす。やはり人影はない。
充は心臓の鼓動が、異様な音を立てて鳴り響くのを感じた。このままでは優里を助けられない。最悪の事態が脳裏を過ぎる。足が重く感じる。一歩前に進むたびに、足が廊下にのめり込んでいくような感覚。走っているのに前に進めない夢の中で足掻いているよう。異常なほど鳴り響く鼓動を抑えて、図書室に戻った。
慌てて扉を開ける。
「優里さん!」
叫びながら部屋に入る。
「優里さん!」
「優里さん!」
声はか細く、小さくなっていく。
「優里さん。どこですか」
そこに優里の姿はなかった。
先程までここに倒れていたはずの優里が、跡形もなく消え去っていた。元からこの世に存在しなかったごとく、跡形もなくいなくなっていた。
充は優里が言っていたことを思い出した。優里は確か、私も轢かれたと言っていたはずだ。
交通事故。十年ほど前の生徒。事故で亡くなった少女。都築優里。
様々な記憶の断片が脳内で生成されては、かき回され、消えていく。消えて、また生まれる。
「優里さん」
もう一度、自分でも聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。
優里という存在は既にこの世にいない。確かに都築優里という少女は、この世に存在していた。しかしそれは過去の話。今、この世界にはいない。もういないのだ。
もぬけの殻となった図書室の空気に触れ、充は不思議にも、優里がいないという現実を受け入れていた。
無意識のうちに涙が止めどなく溢れる。
優里との日々は幻想であったのだろうか。ただの妄想であり、都築優里という少女の存在自体、元々なかったのかもしれない。十年前のこの学校の生徒であったことも、交通事故で亡くなったことも、全ては妄想。その全てが作り話。
全てが嘘だ。
そう自分に言い聞かせても、涙が止まらないのはなぜだろう。どこかにまだ優里がいるのではないか、と強く願う気持ちが残り続けているからだろうか。
暖かい。
充は背中に暖かさを感じた。背中から太ももを通って、つま先に届く。足先から胸の辺りまで、全身を包み込むように暖かさが広がる。
「優里さん」
充は声に出して言った。
優里にそっと優しく抱きしめられている。
暖かさが、優しさが、余すことなく伝わってくる。朝の日差しを全身で吸い込むような感覚。
根拠はないが、これからの人生が幸せになるという確信が生まれてくる。もう大丈夫だと、心から感じられる。それくらい、暖かな感覚。
「私は、もうこの世にはいない。それも君が、ここの生徒になるよりもずっと前の話。でも、君はまだ生きている。それだけで、十分だよ」
光が差し込んだ。
背中に感じた暖かさが徐々に薄れてゆく。抱きしめらているような感覚はもうない。悲しみが胸に溢れる。涙は不思議と出ない。
ただ、優里はもういないという現実があるだけだ。
それでも私は生きている。
充は生きているということを、心臓の鼓動、無意識に溢れ出す呼吸で、実感した。
生きることが幸せなことだとは思わない。幸福より苦しみの方が多い。もう生きるのさえ辞めてしまいたくなることもある。生きる意味などきっとない。
それでも私は生きている。
都築優里という少女が本当にいたのかわからない。彼女との思い出は全て幻であったかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。現実であろうがなかろうが、記憶の中に刻み込まれていればそれで良い。ただそれだけで良い。
「優里さん。ありがとう」
充は消えてしまった優里の姿を感じて、声を出した。
消え入る光に混じって、ありがとう、とどこからか声が聞こえた気がした。
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