第9話 暗転

 なぜ優里は図書室に来なくなったのだろうか。充は想像することができなかった。そのうちに、優里を探している理由さえもわからなくなってきた。わからなくなり、図書室の椅子に座って外を茫然と眺めていると、不意に優里との会話が頭で再生された。

 胸が温かくなる。頬に涙が伝い流れているのを感じる。

 優里は言っていた。必ず自分の口から説明すると。図書室でしか会えない理由を。その約束を破って、優里を探していたことが、禁忌を犯した罪人のように思えてくる。

 そして今までの行動を省みて、深い後悔の底へと落ちていく。

 もしかしたら、優里は、探していたことを知っていたのかもしれない。どこかで見ていたのかもしれない。

 充は全て優里に見透かされているのではないかと、思えてならない。ただそれは、ネガティブな意味だけではない。優里が近くにいるのではないかと感じた。

 根拠はないが、強くそう感じた。だから、改めて優里を信じて待つことにした。

 それから数日後に優里は図書室に現れた。

 それはいつもと同じ登場の仕方であった。充が意識を他所へ向けているとき、初めからそこにいたかのようにして、優里はいた。

「何だか久しぶりですね」

 初めてのことかもしれない。充は、自分から冷静に声をかけたことに、我ながら驚いた。

「ごめんね。ちょっと色々あってね。なかなか来れなかったんだ」

 優里はいつもと同じように、優しく空気を包み込むように答えた。

「いえ、優里さんがまた来てくれて嬉しいです」

 言ってしまった後で、充はしまったと思った。後悔先に立たず。言ってしまったことは、もう変えることができない。言ったことは本心であった。本心であるからこそ、恥ずかしい。

 見る見るうちに顔が赤くなっていく。それを充は、自分でも痛いほどに感じた。

 優里は、充から言われたことが心から嬉しかったのか、いつもの明るい笑顔をより一層輝かせた。その頬はほんのりと成熟した林檎のような赤みを帯びていた。

「ありがとう」

 普段の優里に似つかわしくなく、視線を少しだけ充から逸らすようにして、優里は小さく笑う。

「私も嬉しいよ」

 優里はいつもの調子を取り戻して、答えた。そしてもう一度ごめんねと謝ると、充に向き直って続ける。

都築優里つづきゆり

 優里の口から発せられた言葉の意味を咀嚼できずに、充は困惑する。

「私の名前。みやこに築地のつきで都築。優しいに里で優里」

優里は優しく微笑む。

「そういえば、下の名前しか言ってなかったから、教えておこうかなと思って」

「都築って珍しい苗字ですね」

 充は何を言えば良いか分からず、咄嗟にそう返答した。

「そうかなぁ。そうかもね」

 自問自答しているように優里は答える。

「ねぇ、充君」

 優里はそれまでの優しく柔らかい表情から一転、思いつめた表情になる。時折見せる悲しげな表情。希望の中にひっそりと潜む絶望を覗き込むような瞳孔。独り、大きく重い何かを抱えているように映る。

「私を救って......」

 時が止まった、ように感じた。

 頭がぐらぐらと揺れる。

 息が苦しい。

 記憶が脳内で渦を巻く。

 優里との記憶が廻る。

 息ができない。

 ここはどこだ。

 視界が暗転する。

 深海に飲み込まれたみたいだ。

 真っ暗で息が苦しい。

 手を伸ばす。何も掴めない。

 背後から壮絶な音が響く。

 クラクションに似た音。

 背中から全身へと衝撃が走る。

 意識が途切れた。

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