第3話 私たち友達にならない?
気づいたら少女の姿が消えていた。
机に置いたはずの本も全てなくなっている。
充はとっさに辺りを見回した。一体どこへ消えてしまったのだろう。物音一つしなかったはずだ。
嫌な汗が額を流れる。
今度こそ本当に消えてしまったのではないだろうか。
漸くまた会えたのだ。せめて、名前くらいは聞きたい。
充はそう思うやいなや、少女の姿を探し始めた。
どさり。また音がした。さっきと同じ音。本が床に散らばり落ちる音が響く。
充は音がした方へ、少女の姿を求めて小走りで駆け寄る。果たして、そこに少女の姿があった。
「ごめんなさい。棚に戻そうとしたら、また落としちゃった」
少女は自嘲交じりに笑いながら言った。
少女がまだ図書室にいたことへの安堵と、どうしても拭い去れない疑問との狭間で、充は呆然と立ち尽くした。その様子を見た少女が、続けて言う。
「君……。いや、充君、何か考えごとしてるみたいだったから。本片付けようと思って。」
「充君……?」
充は、少女に名前で呼ばれたことに気づいた。まず、驚嘆と羞恥が同時に沸き起こった。続けて、それが現実味を帯び、喜びへと変わる。充の表情はそうした感情に揉まれて、自分でもわかるくらい歪んでいた。
「だめ、だったかな?」
嬉しさを必死に堪えるあまり、ひょっとこのような顔になっている充を見ると、少女は堪えられず、声を立てて笑い出した。その笑顔はまるで天使のようで、外では雨が降っていることを忘れさせた。それにつられて充も笑った。
一頻り笑い、落ち着いたところで、二人の間に神妙な空気が流れた。
「名前で大丈夫です。名前で呼ばれたことあんまりなくて、それで、少し驚いてしまいました」
「そっか。君、友達いなさそうだしね」
少女はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
確かにそうだ。友達と呼べるような人は一人としていない。今まではそれが当たり前だと思っていた。だが、それは違ったのかもしれない。
ただ名前を呼ばれただけである。何も特別なことはない。そう分かっていても、やはり、充にとってそれは、この憂鬱な世界に光差すほんの少しの希望であった。
少女の一言にどう返答して良いかわからずにいると、少女はその様子を見て、「嘘だよ、冗談だから」といたずらっぽく続けた。
「いえ、友達いないのは事実なので」
充は努めて明るく言おうとするが、こうした場面での返答の仕方が分からず、俯き加減で、暗い反応となってしまった。
ひんやりとした場の空気を感じとった少女は、自らもその空気に浸透していくかのように、言葉を返す。
「じゃあ、私と同じだね。私も、今は友達いないから」
少女の言葉には、友達がいないという現実を受け入れつつも、そこから脱却したいと強い願いが込められているようであった。しかし、そこには同時に強い後悔の影が潜んでいた。
充は、「今は」という言葉に何か含みがあるように感じた。
「今は」ということは、以前はいたのだろうか。聞き返そうとして、少女のどこでもない虚空を見つめるような目に感じるものがあり、言葉を返すことができなかった。
それまでの様子とは一転、少女は明るい口調で充の目を見て言う。
「それなら、私たち友達にならない? 友達いない同士で友達になるの。私も、充くんも、読書好きっていう共通の趣味もあるし。どうかな?」
少しの間があった。嬉しさと恥ずかしさとで、顔を赤く染めながら、充は答える。
「あっ、はい。よろしくお願いします。」
こうした時に、上手く舌が回らない自分に嫌気がさす。
「よかった。それじゃあ、改めてよろしくね」
少女はあどけない笑顔を充に向ける。
その笑顔のあどけなさに、どこか大人びていて、もの悲しげな影が見え隠れしていた。
「よろしくお願いします」
頭を下げながら充は、同じ言葉を繰り返す。
少女は柔らかく微笑み、手にしていた本を棚に戻していく。全て戻し終えたところで、二人は一息吐く。
激しく地面を叩きつけていた雨は既に上がっていた。
「じゃあ、よろしくね。また、来るね」
そう言うと少女は、じゃあと手を振りながら、図書室を後にした。
「ちょっと待ってください」
充は咄嗟に少女を呼び止めた。
これで別れてしまったら、また暫く会えなくなってしまうかもしれない。それどころか、二度と会えなくなるかもしれない。明るく振る舞う少女の内に潜む影を感じて、充は強くそう思った。
しかし、呼び止めるその声は、少女に届くことはなかった。一歩遅かったか。後悔するより先に、すぐに少女の後を追いかける。僅か数秒の出来事。しかし既に少女の姿はそこになかった。
前と同じだ。何故もっと早く呼び止めなかったのだろうか。自身の消極さへの不甲斐なさと後悔が同時に襲う。
雨は降り止んだが、それと同時に日は沈む。幸福のすぐ側には陰鬱な現実が待っている。
充は待つことしかできない自分に不甲斐なさを感じながら、図書室を後にした。
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