第5話:狼狽
一週間の勉強漬け生活も残りあと2日となりました。
後半戦となっても毎朝の日課は変わりません。朝日を浴びながらするラジオ体操は最高です。除湿と冷房の効いた図書館の中だと、忌まわしい夏の朝日だって快楽の光に変わってしまいます。こういう心地よいのを浴びてしまうと……
「……はあ」
何をやっているのでしょう。一日の初めに出るのは色も漂い残るものも他より濃くて処理が面倒だというのに。ですけど、いけないことだからこそ、得られる刺激も興奮も快楽もひとしおですね。
★★★
さて、今日も今日とて前日の復習と理系科目を進めます。同じようなルーティンを進める勉強法は賛否ありますが、私はむしろこれを守らないと頭に入らないような気がします。基礎固めで大切な『自分を知ること』であります。
ふと、勉強中に尿意。いつまでもその場で座ったまましてるわけにはいきませんね。昨日までは「きたっ!」と束の間の快楽に浸れましたが、もうそんな日も残されていないのです。投げ捨てた常識を再び取り戻さなけ……
じょろろっ
「————っ!!?」
それは、意図せずに急に出てきました。
当たり前ですが、一度出たものは止まりません。その場でばたばた動いたって、内股になったって、前傾になったって、直接手で押さえたって、止まるべきものはとまりません。本来なら陶製の白いものに出すべきものが無情に流れ広がったのを見て、私は顔が息が荒くなるほど全身から汗が噴き出す自分に気が付きました。
事の重大さを理解しました。このままでは、私は――。
結局、それは掃除してなんとか誤魔化しました。同じ失態は繰り返すわけにはいきません。しかし、その緊張が仇となっているのか、意図してる時に限ってなかなか出ないんですよね。
時は過ぎて、英語。やってるのは一緒です。午前中と同じ失態を繰り返さないための用心は必要ですが、かといってそのことばかりに意識のリソースを向けすぎるのは勉強の妨げになるわけで。
私は今、二階の集会室にいます。二階の一般開架室に隣接している例の会議室みたいな部屋です。そこもホワイトボードがあって、その手前で全裸でシャドーイングしていると、おはなしコーナーや視聴覚ホールと一緒の快楽を得られて楽しいんですよね。
で、続けていたら、案の定、来ました。シャドーイングは中止です。どれだけ内容が頭に入っても、普段の日常の振る舞いが出来なくなれば本末転倒です。二階にもトイレがあったのは知ってます。一連の学習道具を集会室の机のひとつに置き、外に出るべくドアノブを捻ります。
「——あれ?」
開かないのです。ノブは動くのに、肝心のドアが動かないのです。押して開けるんでしたっけ? 引いて開けるんでしたっけ? いや、構造的には引いて開けるドアです。室内からは引いて開けないと、急に開けた時に部屋の外の人達の迷惑になるからです。それは分かってるんだから、引いて開かなきゃおかしいんです。なのに、誰かが向こうで押さえてるのか全然開かないんですよ。
待って。噓でしょ。なんで開かないの? 私はトイレへ行きたいんですよ? そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……!
「あっ! ああっ!」
動揺した時には既に床に零れ落ちていました。全身の力がそれに溶けて共に流れ出てくるようでした。尊厳が血のように流れ出ている感覚に、私の膝はがくがくと震え、腰が抜けました。
顔を上げた瞬間、ドアの窓にそれはいました。あの、黒い影です。
黒一色の影ですから目とか口とかは当然ながら見えません。ですが、無機質なのっぺりとした顔から、私は明らかに感じ取ってしまいました。
侮蔑。
顔は熱くありませんでした。ですが、呼吸の乱れと汗は止まりませんでした。やがてドアは何事もなかったかのように開いたのですが、暴れるように鼓動する心臓に私は動揺が止まりませんでした。まるで這うように私は集会室から出てきました。
明日には帰らなくちゃいけないんですよ。そのためには、一度身に付いてしまったこの癖をなんとかして直さなければいけません。この1日のうちに。
その場で四つん這いになっていた私から先刻の続きがまた出てきた時、これが一夜漬けで単語や用語を暗記するのとは次元の違う困難さを抱えている事実に呆然とするしかなかったのでした。
★★★
私の悪い予感は嫌というほど的中しました。
ぼたたっ
じょろろっ
3日目にふと思いついた罰ゲームをきっかけに快楽に目覚め、調子に乗って4、5、6日と続けてやり続けたツケが、事ある度に容赦なく床に零れ落ちていくのです。
床の掃除に時間を取られて勉強どころではありません。が、皮肉にもこういうプレッシャーが私の脳には効くのでしょうか、こういう時に限って脳はなんでも覚えてしまうようです。試しに思い出す訓練をしてみたら、初日から今日にかけて記憶した事柄、全て諳んじれている私がいるんですよ。でも、いくら優秀な成績を納めて難関大に進学できたとしても、日常生活に支障があればなんの意味も無いんです。
そして、なかなか克服できぬまま、日が暮れて夜。まったく、なんで勉強以外のことで焦らなくちゃいけないんですか……。
一般開架室の勉強中に尿意。すぐさま席を立たなければなりません。門が弛緩しきってる現状です。普段の感覚で行動するのは危険ですから、早め早めに動かなければなりません。
抑えるのに脚の筋肉も使いたくなります。無意識に内股になってます。小走りになってます。ちょっとの尿意の筈なのに、入り口を手で必死に押さえています。ねえ、手の平がほんのりと湿っているのですけど、これは汗ですよね? 焦っているから汗ですよね? 走ってるから汗なんですよね?
半ば特攻するようにトイレに飛び込みます。ドアの無いトイレで助かりました。白い便器が目の前にあります。そして、そこに……出す。
なんでしょうか、この安心感は。
ただの日常の一幕、それも人目に晒すべきではない部分であるのに、私はほっと胸を撫で下ろしました。これで私は日常に帰れる。
さて、洗面所で手洗いをします。幸いにも手は全く濡れていませんでした。焦りすぎて錯覚を起こしていたようです。しかし、良かった。排尿は便器でする――これが当たり前なんですよね。そう。こうやって、ずらりと並んだ便器に。
……あれ?
次の瞬間、いつも閉まっていた大便所がばたんと開きました。
洗面所の鏡はとても大きいので、そこから大便所が見えます。だから、私は鏡越しに大便所の中を見てしまいました。
人がいました。服装は良く分かりませんが、黒一色なのだけは分かります。艶の無い髪は不自然なまでに湿っていて、長い前髪のおかげで顔が隠れていて良く見えません。しかも、その人物は体系から察するに男性の様でした。
異性から裸を見られた! それは、齢17の少女である私にとって、貞操や尊厳の危機に触れる一大事です。ですが、今の重大さはそんなことではありません。
しつこいようで恐縮ですが、図書館は貸切っているので誰もいません。しかも、その人物からは生気をまるで感じませんでした。つまりは、そういうことです。夜中、トイレから出た私の身体を見ていた、あの足音の主の正体です。
ふと、私はその人物の顔を見ました。そして、どきっとしました。湿って珠のれんのようになった前髪の隙間から、真っ黒な丸い何かがこっちを凝視していることに気が付きました。それと目が遭った時、私は自身でもないのに地面が揺れるような感覚に見舞われました。
まだ、終わってないぞ。
そうです。ここは男子トイレです。本来、私が行くべき場所ではありません。そういえば、初日からずっと小水はここでしてました。立ってすることの快楽に魅せられて、無意識にここに来ていました。本来、男子トイレは少女が来て良い場所ではありません。この一週間に間違って身に付いた習慣は、もうひとつあったのです。
それは、異性に全裸を見られていること以上に私を動揺させました。ひとつの大きな峠を越えたかと思いきや、更に巨大な峠がこちらに迫ってきた衝撃です。膝が笑ってます。空間から体内に至る全てが激しく震盪しています。あれ、おかしいな。さっき全部出し切った筈なのに。
多分、これが今までで初めてだと思いますよ。恐怖で失禁するというのは。
★★★
恐ろしい光景を見ました。
次の失敗に学び、今度は女子トイレに向かっていました。
が、女子トイレが全て閉まっていたのです。
誰もいないはずなのに、みんな誰かが入っていて使えないのです。
なんで? ここは貸し切りなんですよ? というか、こちらは漏れそうなんですけど。出そうなんですけど。
焦ると余計に出そうになってうずきます。その場でばたつきます。震えます。ですけど、全ては無駄な抵抗でした。最後の手段としての排水溝が視界に入った時には、全てが手遅れでした。
急に全てのドアが開きました。中には、真っ黒な影が立っていました。
表情は分かりません。ですが、私はそれらからの視線を一斉に集めていました。
感情は大体分かります。ネガティブです。当然ですよね。だって、トイレのど真ん中で裸で垂れ流しにしているんですから。
でも、なんか様子がおかしい。なんか、出てるのは本当に――だけ?
下を見て私は愕然としました。
真っ赤な何かが流れ出し、続いて私の内臓が流れ出し、学校の成績や自分の写真、脳みそや私の顔がトイレに広がっていました。
何もかもが流れ出ている。なのに、まるで私は普段から漏らしているように、それを止めることが出来ていませんでした。
「————!!?」
気が付いた時、私は薄暗い室内に横たわっていました。
首だけを横に動かします。時計の針は深夜の二時過ぎを指していました。まだそんなに寝ていないじゃないですか。短い時間の間になんて酷い夢を観ていたのでしょうか。
え、夢?
私は飛び起きて視線を下ろしました。
布団は……濡れていない! 臭いも……ない! 全身が濡れているのは……汗?
よかった。酷い正夢にはなってないようです。
なんて安堵したその時、私は気配を感じました。
事務室の方を見た時、私は身構えました。
素人目に見てもすぐに分かりました。この世のものではありません。
詳しい全貌は分かりませんが、見上げるほどの巨漢でした。隆起した筋肉が事務室の常夜灯の光を不気味に反射している一方、闇と輪郭が曖昧になっていて影のようにも見えます。顔は分かりませんが、目だけは現実の人間のようにリアルで、一糸まとわぬ私の裸体をじっと見下ろしていました。
そして、聞こえました。
ぷふー……。
そうです。私が吐息の主と呼んでいた存在です。初めてですよ。こういう全貌をしていたんですね。
次に私は、事務所に来ていたのは吐息の主だけではないことに気が付きました。
黒い影。もしかして、二階の一般開架室にいたあなたですか?
黒い衣装を纏った濡れ髪の霊は、先ほど男子トイレで出逢ったあなたですか?
吐息の主の足元にある白い影の皆様は、もしかして児童開架室のおはなしコーナーにいた皆さまですか?
そして、時折聞こえるパァンという木の弾け落ちたような音は、視聴覚ホールで聴いた音です。あなたもここに来ているのですか?
そう。この図書館の住民達がいつの間にか集合していたのです。
この時、私の中に芽生えた感情は……。
まず、少しだけ怒りを感じました。貸し切りって聞いたのに普通に誰かいるじゃないですか。それと、そこの影。漏れそうだったのに塞ぐだなんて酷いじゃないですか。私を日常に返してくださいよ。
ですが、それも自分勝手だなと思う自分もいました。だって、全ては自業自得なんですもの。ただ勉強さえすればいいのに、環境がつまらないから両親に無理言って図書館を貸切って、その上、格好もつまらないからって全裸でやっているんですもの。あまつさえ、誰もいないことを良いことに男子トイレに行ったり、さらには後で処理すればいいからって理由で――までするんですからね。
そう考えたら――何をすべきか分かりました。
自然と体が立ち上がりました。布団から『彼等』側へ一歩前へ出て直立しました。ぴんと背筋を伸ばし、指先まで伸ばした手をへその辺りで交差させます。リラックスした姿勢で、私は彼等をひとりひとり一瞥しました。
「この一週間、本当にお世話になりました。色々ご迷惑をおかけしましたが、実りある一週間でした。誠にありがとうございました」
そして、私は深々とお辞儀をしました。
次の瞬間、頭を垂れている私に向かって一斉に何かがやってくるような感覚に見舞われました。身体中で吐息や音がして、全身を温かい何かが触れたり駆け巡ったりするような感覚がして、私が立っているのか座っているのか分からなくなりました。
気が付いた時、私は横になって夜明けを迎えていました。
★★★
最終日の朝はいつもと変わりません。
ただ、今日するのは家庭内模試です。つまり、今週の……いや、二年生一学期までの総ざらいです。
驚くべきことに、私は満点を取ってしまいました。別に、家庭内模試が中間のよりも簡単すぎたとか、私が不正を行ったというわけではないんですよ。本当に、なにもかもが定着していたのです。復習は簡単に終わってしまいました。こんなのは初めてです。
何より嬉しかったのは、ごく普通に女子トイレで排泄出来ていたことです。
昨日までの苦労が嘘のようです。四方を囲うトイレの壁が、これほどまで有難かったことはありません。安堵していた分、いつもよりたくさん出てしまいましたよ。冗談ですけど。
ふと、私は上方より視線を感じました。
見上げると、真っ黒な影に人間の眼が付いた何かが、私をじっと見下ろしていました。
吐息の主!? まさか、地下だけで活動しているわけではなかったのですか?
無論、人がトイレで休んでいる時に上から覗かれるというのも、本来ならばあるべきではない一大事です。まして、私は裸。昨日も言いましたが、尊厳の問題にまで相当する一大事です。
ですが、今はそんなことを話すのは野暮というものです。
じっとこちらを見る目に、私はネガティブな感情を感じました。むしろ、どこか安らかなものを感じ取りました。
「お見送りですか? ありがとうございます。またいつか、会えるといいですね」
私が答えると、吐息の主はうっすらと姿形を薄め、やがて目の前から消えていきました。果たして、そんな存在が先ほどまでいたのかと言わんばかりに。
さて、もうすぐ帰る時間です。事前の準備は万端です。荷物よし。最後に施設中を見回しましたが、異臭も変なシミもなし。痕跡なし。1時間かけてじっくりチェックしましたよ。
図書館の出入口の前で私はメインホールに向かって深々と頭を下げました。そして、私は外に出ます。本当に、今までお世話になりました。
外に出た途端、真夏の日差しが天上から容赦なく降り注ぎ、地面からの暑い照り返しと濃い湿気が全身の皮膚にまとわりついてきました。一週間いた環境からの急激の変化に身体が驚愕しているようです。全身から汗が噴き出してきましたよ。
冷蔵庫からいきなり炭火の上に乗せられたかのような温度差に、ちょっと眩暈を起こしそうになりました。だって見てくださいよ、図書館に隣接する公園にいる子供達とか。酷暑の中、皮膚を真っ黒に焼きながら元気に遊んでますよ。ほら、あんなに可愛らしい服を着ちゃって。
服といえば、そういえば、外にいるにしては、あるべき感覚が無いような……。
「——!!? しまっ!」
真下を見て愕然としました。一週間見慣れた豊かな乳房と乳首と舗装された広場のコンクリートの床が同時に見えた時、私は全ての違和感の正体に気付きました。
どおりで湿気を全身で感じてたわけでした。どおりで汗が背中から腰に掛けて一直線に流れるわけでした。どおりで普段は湿っぽい胸元の感触とか無かったわけでした。
まるで見えないゴムに引っ張られたかのように、私は日陰に飛び込みました。一週間の間に失った常識や良心や通念が一気に蘇ってきて、冷房の残滓が漏れる涼しい日陰にいるにも関わらず、私の顔は発火しそうなほど熱くなっていました。
最後の最後で何をやっているんですか私は!
というか、服の着方が曖昧になっている自分がいるんですが。初日に着てた服をバッグから引っ張り出しているんですが、大丈夫ですよねこれ。見えてないですよね? スカートとかこの履き方で合っているんでしょね? てか、照り返しで足元が熱くなってる時点で気付いてくださいよ私! 火傷するほど熱を持つんですよあれ?
旅行をしているわけでもないのに、後悔と反省という立派な土産まで生まれてしまったじゃないですか。
ですけど、最高の一週間でもありました。
こういう夏休みの1ページも、ありだと思うんですよね。
—完—
真面目なお嬢様が貸し切った図書館で全裸で1週間勉強漬けするだけ バチカ @shengrung
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