第3話:吐息
この図書館には地下室があります。
関係者以外立ち入り禁止のドアがメインホールにありまして、そこから地下に降りれる階段があります。
地下の敷地面積は一階と同じくらいで、半分近くを閉架書庫が占めています。閉架書庫は流石に今の私でも立ち入りは許可できなかったようです。
残りの3分の2くらいを占めているのは事務室です。ただっぴろい部屋の中に、パソコンの乗った質素なスチール机が規則的に並べられているだけ。ふかふかのスツールやソファ、学習机などが置かれている地上の華やかさと比べると、かなり殺風景ですね。
で、重要なのは、さらに残りの3分の1(全体の6分の1)ですが、なんと居住スペースです。
事務室の隅っこに、畳の敷かれたスペースがあるのです。隣接する襖の中には当然のように布団が入っており、IHヒーター付きの台所や水回りは勿論、シャワー室や洗濯機、リネン室まで完備されているという徹底ぶり。
当然、私が実際に寝泊まりする場所として使っているのはここです。そもそもなぜ私が図書館を貸切ろうとしたかといえば、この存在を知っていたからなんですよ。
しかし、なんで図書館なのに居住スペースなんてものが地下にあるのでしょうか。恐らく、この図書館が生まれた経緯と関係があるのでしょう。
目が覚め、朝食や歯磨きなどを済ませた私は、メインホールのある一階に上がります。
窓から差し込む朝日が、私を出迎えて下さりました。
カーテンを開き、身をぐーんと伸ばしながら、窓から降り注ぐ陽の光を全身に浴びます。陽の光の柔らかさに触れられて、身体中の皮膚の細胞が喜んでいるようです。普段は隠さなきゃいけない箇所も全て惜しげもなく陽光に晒すことが、これほどまで心地よいとは思いませんでした。
さて、朝のルーチンは歯磨きとかだけではありません。大叔母様のウォークマンを操作して、専用のスピーカーに差して……と。何をするって? ラジオ体操に決まっているじゃないですか。
勉強前の準備運動を侮ってはいけません。歩くなどの移動こそあれ、実際は12時間以上は座っているのが現実です。つまり、同じ姿勢を長時間続けることになるわけで、肩や背中、腰などに負担がかかりっぱなしです。きっちり体力は付けておかなければ、集中力を浪費して学習のパフォーマンスが下がってしまいます。
これは、父が言っていたのですが、ラジオ体操というのは普段は使わない筋肉をフルに稼働させるため、健康のためにはとても効率の良い運動だそうです。
まあ、健康と体力のためとはいえ、ただっぴろいメインホールの真ん中で、裸で体操というのも乙なものですね。あまり動かさないけど重要な筋肉も伸縮させるべく出来るだけ目一杯に身体を動かしているのですが、下着すら付けてないせいか色んな所が揺れてます。
さて、準備運動も終わった所で、早速始めるとしましょう。
昨日の復習を一通り済ませた私は、メインホールへ向かいます。堂々と晒しながら移動するだけで、スポーツに興じているくらい鼓動が高まるのですから、環境を変えるって不思議ですよね。
「————?」
ですが、児童開架室とメインホールの間にあるトイレの前を通り過ぎた時は、流石に私も胸と股間を腕と手で押さえてしまいました。なぜなら、昨日の夜に謎の足音を聞いた場所だったからです。
まだ早朝だからでしょうか。音どころか気配ひとつありません。でも、昨日のあれは、確かに気のせいではありませんでした。もし、あの時感じたのが本当に視線だったとしたら……。妙ですね。手で押さえている箇所が、ほんのりと汗ばんでいました。
メインホールにて数学の問題集を進めることしばし――途中から、例の重い音がこちらまで轟いていたのは分かっていましたが――ふと、顔を上げてみると、また例の業者の男達の姿がカーテンの隙間から見えました。
私は常に手元に視線を落としていますので、窓の向こうの彼らがこちらを見てしまったかどうかは分かりません。ですが、見られたかもしれないという緊張感のある環境の方が、私にとっては集中出来るようです。
二年生は基礎固めの時期と言われていますが、基礎固めとは単に学習内容の基礎レベルを習得することだけじゃないのだと思います。基礎固めの真意とは、自分を知ること。自分はこうした方が――教わったことが頭に入る。苦手分野を克服できる。弱みと強みが分かる。それこそが基礎固めなんだと思います。
というかそもそも、この炎天下の外に出て動かざるを得ない彼らと異なり、今の私は冷房の効いた図書館を貸切っている御身分なんです。あの人たちの労苦に想いを馳せれば、彼らに私の裸体を見られるとか、むしろ見せて差し上げたくらいの気持ちになりますよ。
さて、問題集の復習が終わったら、内容の定着をすべく、再び児童開架室の「おはなしコーナー」へと移動をします。
「この二次方程式が虚数解を持っている場合は――」
「『活性が高い』が正常型のホモ接合体を示し、『活性が低い』あるいは『ほとんどない』が変異型・正常型が混在するヘテロ型と変異型ホモ接合体を示します――」
今回は生物の分もまとめて行います。やはり、この手の教科というのは、自分の言葉で語れるようにならないと、真に定着したという感じにならないですね。
ふと、私の疑似講義も終盤になった所で気付いたのですが、昨日も見掛けた不自然なスツールの凹み――本来ならば私が筆記具を置いた所以外はあるはずの無い凹みが、心なしか増えていたような。
……考えすぎるのはやめましょう。次の教科の学習を進めなければ。
★★★
英語の音読ですが、いくら座り続けるのが嫌だからとて、同じ所を歩き続けるのも飽きるもの。
というわけで、面白い場所を見つけました。視聴覚ホールです。
二階の一般開架室に隣接している部屋なのですが、面積は私が昨夜いた集会室とは比べ物にならないほど広大です。コンサート会場にありがちである会場席が段々になっているような構造ではありませんが、壁も床も防音仕様であり、収容人数は120人程に相当するそうです。
中に入ると、椅子は既にずらっと精緻に並べられており、当然ながら誰も座っておりません。部屋の向こう側には二段になっている古い黒板があり、その手前に収納型のスクリーンが垂れ下がっています。また、隅っこには司会進行の人が使う演台が置かれており、発表者の立つ所は他の場所より一段高くなっています。
私は、その壇が私を引き寄せているように見えて仕方ありませんでした。導かれるまま壇の上に立ち、座席の方を見た瞬間、私の鼓動はより高まりました。
席がみんなこちらを向いているのです。誰も座っていないはずなのに、一斉に皆の視線を地肌で浴びているような気がして、私は身震いしました。児童開架室のスツールとは数が違うだけで、こんなにも感覚が違うなんて。顔が熱いのに皮膚が震える感覚、児童開架室でもありましたがここの比ではなかったですよ。
あまりにも興奮しすぎてしまったので、いちどシャドーイングを中断。教材を全て演台に仮置きし、壇上でちょっと色気のあるポーズをしてみたくなりました。陳腐で恐縮ですが、両脇を露にさせて前傾し……。
パァン!
突然、聞こえてきた音に、私の身体がビクッと跳ね上がりました。
音がしたのは室内です。木と木が何かにぶつかったような、木材がはじけたような、そんな音でした。
木製のものなら、それこそ室内に沢山あります。壁だって木製ですし、隅に置かれた机の上には奇怪な模様の木工細工が並んでいます。そこから音が出たのでしょうか。
そういえば、聞いたことがあります。さっきの音、この世のものでない何かが自身の存在を示すために出す音でもあるのだとか。
もしそうだとしたら……いや、そうだとしても、私はこの部屋から出る気は起きませんでした。私はすぐさま演台に置いた教材を手に取ると、音読を続行しました。
「The couple married eight years ago, after they had been dating for a year, ——」
もういっそのこと、全部見られてるつもりで続けました。凄いですね。そう思うと、何も怖くなくなった気がして、更に気分がハイになっている自分に気付きます。
幸いにも、ここにいる何かは、音声の乱れなどで、私の邪魔はしてきませんでした。ですけど、興奮しすぎたあまり色々と汗をかいたようです。下半身に汗をかくとか、部活動以外にありませんでしたよ。
★★★
一応、強調しておきますが、歩き回ってるのは英語学習の一部だけですよ。常に節操なく歩き回ってるわけではありません。今、私がやってる日本史・世界史の定期考査の復習とか、机に座ってやってますからね。
二年生なので、日本史・世界史の学習時間は合わせて1時間強くらいでしょうか。実際の所、数学と英語が学習時間の過半数を占めていて、次に国語、日本史・世界史、生物の順番といった感じ。まあ、英語と数学は基礎固めが非常に大切な教科。今のうちはほとんどそれになってしまうのは当然かもしれませんね。
現在はすっかり深夜になってしまって、私は地下の事務室で勉強しています。
事務室と言っても、流石に従業員の誰かが使用しているのを借りるのは良心的な抵抗がありました。ですが、事務所の隅っこで良いのを見つけましたよ。なぜ、図書館の事務室にあるのか分かりませんが、学校の教室にありそうな机と椅子が積み上げられていたのです。
かくして、私は机と椅子をワンセット拝借して、今に至ります。もちろん、タオルは敷いてますよ。学校の椅子って、台座とフレームを固定する鋲がありますけど、そこが緩んで隙間が出ていると、自重と鋲で尻の肉を挟んだりして非常に痛かったりするんですよね。
それと、普段の座り方は飽きたので、逆座りです。裸で逆座りって興奮するんですよ。なにせ、背もたれが前方になりますから、背中や尻は背後から丸見えです。背もたれは胸元までの高さしかないので、胸を隠すことは出来ません。むしろ、ひんやりした背もたれの上に私の大きな乳房が乗ってます。
何より、背もたれのフレームが邪魔をして、太腿を閉じることが出来ません。おかげで、私の秘部が丸見えです。まあ、机は壁際に置きましたし、地下室だから窓もありません。だから、見られるなんてことは無いのですが、肝心な時に隠せないというのは、なんとまあ……ゾクゾクしますよね。
というわけで、そんな調子で勉強です。定期考査で外した場所って「ここが分かってなかったんだ!」という発見が刺激になって、忘れられなくなるんですよね。
なんて、思っていたその時でした。
ぎぃぃぃぃぃぃ
背後から扉の開く音がしたのです。
地下室にある扉といえば、トイレや浴室、それと――閉架書庫しかありません。方向から察するに、閉架書庫の方からしたような。
おかしいですね。閉架書庫は立ち入り禁止の区域。鍵がかかって開けられなかった記憶があります。そんな扉が自動的に開く? そんなことってあるんですか?
「————!?」
次の瞬間、見えない何かで背中を刺されたような感覚が私を襲いました。実体こそありませんが、のけぞりそうになるほど強い念のこもった何かの感触。どう考えても、視線です。明らかに、何かが私の背中を見ています。
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ――。
続いて聞こえたのは、何かが床に触れた音。素足の足音です。徐々に大きくなっています。
ふと、ここで脳裏に過ぎったのは、両親から聞いたこの図書館設立の歴史でした。
実は、両親が子供だった頃、ここは図書館ではなかったそうなのです。誰かが泊まり込みで使うセミナーハウスのような代物だったそうで、地下にあるシャワー室などはその名残なんだとか。ですが、設立後、館内で何らかの事件が発生。セミナーハウスは閉鎖され、私が生まれる少し前にとある財団法人が買い取って私立図書館としたそうなのです。
もしかして、私の前で起きた一連の現象は、過去の事件と関係がある……?
ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ――。
そう思った時には、足音はすぐ後ろにまで近付いていました。
おかしいですね。さっきまで熱帯夜だったはずなのに、私の周りだけ気温が冷たくなっている気がします。皮膚の表面がざわついていて、無い筈の無駄毛が一斉に逆立っているような感じがします。呼吸の仕方も良く分からなくなってきて、息が荒くなってきました。
逃げなきゃ――という選択肢はありませんでした。なぜなら、もう背中から感じているのです。私の背中を見ている何者かの気配が。
脚は上げられませんでした。背もたれのフレームが引っ掛かって……、いや、引っ掛かるどころか両腿で背もたれを挟み、腹部を背もたれに当て、半ば巨大なぬいぐるみのようにしがみ付いてました。
身動きが取れない私。足音。そして、私の耳はハッキリと聞いてしまったのです。
ぷふー……。
吐息です。私の吐息ではありません。私の吐息だったら、なぜ私の右上から聞こえるわけがありません。
『ぷ』という吐息は、唇をしっかり合わせながら出す音であり、遠くから聞こえる音ではありません。つまり、吐息の主は私のすぐ隣にいるのです。
振り向く度胸はありませんでした。いや、見る気すら起きませんでした。まるでカンニングを取り締まる試験監督が近くにいるようなイメージです。そんな方向を見るより、私は机の方を見なければいけません。
ぬっとした暖かい感触が背中からしました。実体のない何かが、背中の上を這っているようで、私の背中がぴくりぴくりと小さく飛び上がります。
ふぅー、ふ、ふ、ふ……。
続いて、光らないスポットライトを当てられているような変な感触が、今度は私の胸からしました。どうやら、吐息の主は背もたれの上に乗っかった私の乳房を見ているようなのです。しかも、どこを見られているのかなんとなく分かります。豊かな輪郭を舐めまわすように見た後、その視線は両先端の方へ――本当に全部見られてますね、私。
ふー、はー、……。
やがて、視線は更に下がり、フレームが邪魔して閉じられない下半身の方へと向かいます。見られている箇所が、じっと熱くなるのを感じます。
はあ、は、は、はあ……。
これは、どちらの吐息でしょうか。乱れるような吐息と、ぬめっと暖かい感触と、じっと見られているような視線が、座っている私の全身を駆け巡っています。
も、もういいでしょう。寝る前の最後のひと頑張りの集中力も下さいよ。
………………………。
……その想いが続いたのか、今夜はこれくらいで勘弁させるだけなのか、謎の現象はあっさり終わってしまいました。
改めて周囲を見渡しましたが、誰もいない事務室があるだけでした。後で確認しましたが、閉架書庫も閉まっていました。隅っこにある姿見に、一糸まとわぬいつもの私が映っているだけです。
気のせいでしょうか。いいえ、そうとは思えません。なぜなら、三枚も敷いた椅子のタオルが、板の層までぐっしょりと濡れていたからです。そんなの、通常ではありえません。
なんて気味が悪い出来事だったのでしょうか。
でも、私が本当に怖いと思ったのは、あの吐息の主ではありません。
吐息の主が近付いている間、ずっと頬が吊り上がっていた、私自身でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます