第2話:影と音

 せっかく貸切った図書館です。学校の図書室なんてものをはるかに凌駕する敷地の中にいるのに、ただ同じ場所でずっと籠っているのはなんだかもったいないですよね。


 というわけで、学習する科目によって場所を変えてみます。今、私がいるのは二階。一階のメインホール同様、こちらも一般開架室となってます。ヘッドホン付きの視聴覚スペースがあったりと一階とはこれまた雰囲気が違います。


 ここで学習するのは英語です。数学と同じかそれ以上に重要な教科ですね。


 数学の教師もさることながら、英語の教師もまた沢山課題を用意してくれました。英文法や英文解釈の問題集を一冊、長文読解の問題集を一冊、さらには「夏休み明けにこの範囲全てから出題するから全部覚えろ」と英単語と英熟語の本をそれぞれ渡されてしまったのです。


 幸いにも、英語は得意教科です。なので、ただ出された課題をこなしてオシマイにするだけではなく、一生使える強みにまで高めたい所。せっかくですから、貰った本にある単語は全て身に付けてしまいましょう。


 無論、どのようなペースで進めるかの計画は事前に計画済みです。計画倒れを想定した予備日も忘れてはいませんよ。


 椅子はソファ型もあるのですが、敢えてスツールを選びました。理由はタオルが敷きやすいから――というのは建前で、背中や腰が露になった方が集中しやすいからです。なんというか、腰から背中をかけて伝う冷たい空気が、背筋から脳にかけて私の頭の中をシャキッとさせてくれるからかもしれません。


 私が学習してるエリアは天井の電球だけ灯りが悪くて、採光の為にブラインドを開いておりました。おかげで、外に植わっている樹木の青々とした葉っぱや枝が良く見えてます。でも、私が座ってる場所、外から見たら多分丸見えですね。


 まあ、私がいるのは図書館の二階です。同じくらい背の高い建物こそ遥か遠くにありますが、よもやあそこから見られてるなんてことはないでしょう。そもそも、どうして向こうの方々に、ここで私が裸で勉強をしているなど想像が出来ましょうか。


 さて、英語に於いて重要なのは『書くこと』だけではありません。『聞くこと』や『声に出す』ことも大切です。ここで大叔母様から頂いた古いウォークマンの出番です。この中に、英語の問題集に付属しているCDの中身が、あらかじめフォルダ毎に分けて収録されてます。


 間違った箇所の復習も兼ねます。まずは黙読して発音を覚えます。この時、文の構造や単語、意味もしっかり覚えます。続いて、短い文毎に音を聞いてすぐに声を出すシャドーイングを繰り返します。最後には内容を暗記します。リスニング力や長文読解の速読力を鍛えるべく、昔からずっと行っている勉強法です。


「There was a full moon above the forest」


 私の声が無人の図書館内に響き渡ります。


 声を出すのが御法度である図書館で、大声を出して英語の音読。これぞ、図書館を貸切れる者の特権でございますね。


 と、いつまでも行儀よく席に座って音読していたら、なんだかまたもったいないような気がしてきました。こんな姿でこんな広い施設にいるのです。私は、この状況をもっと活かしたい。


 そう思った時には、私は席を離れていました。


「At a dinner party in New York, one of guests, a woman who had inherited ……」


 イヤホンから聞こえる長文の音声をシャドーイングしながら、私は二階を歩いています。手にしているのは、英文の書かれた問題集と同梱されたCDが入ったウォークマン。それだけです。


 手のひらにウォークマンを乗せ、更にその上に開いた問題集を乗せます。世の中、何が重宝するのか分からないもので、手から問題集を落とさないようにすべく上から押さえるのに私の大きな胸が役に立ちました。


 何度も強調しますが、私は一糸纏わぬ姿です。イヤホンから伸びたコードでは私の胸はおろか乳首すら隠せません。というか、コードがそこに触れると、なんかぞわっとしちゃって触れたくなくなるんですよね。なので、コードは谷間に通します。操作は、コードの中継地点にリモコンがあるので問題ありませんし。


 図書館の静寂の中で、私が口に出す英語だけが響き渡ります。こんな格好で、こんなに大声を出して、私は図書館を歩いています。英語力を身に付けているだけなのに、端から見れば『私は裸で歩いています』と喧伝しているのと変わりません。そう考えると、なんだか全身が奮い立つようです。


 いつまでも同じ体勢だと飽きてくるので、今度は脇を上げて……。腕の負担? それは気になりませんね。


「……!?」


 そんな体勢で、本棚が何列も並ぶエリアを歩いていた時です。本棚の奥の方で不審な黒い何かが見えました。思わず上げていた問題集を下ろしてしまうのですが、それによって前方の視界が遮られる一瞬のうちに、それは姿を消してしまいました。


 見間違いでしょうか? 本棚の陰に隠れたような気がしたので、後を追ってみます。


 近付いて、角を曲がって本棚の影を見ますが、誰もいません。というか、誰もいなくて当たり前です。だって、この図書館は私が貸切っているのですから。


 となれば、あの影は一体なんなのでしょう。大きさ的に身の丈くらいありました。もしかして――ひとつ言えることは、それが事実ならそれは私の今の姿を見たということです。


 不思議ですね。なんか、この時の感情が上手く言い表せません。


 ★★★


 一階の一般開架室は、吹き抜けのメインホールだけではありません。英語の時に私がいた二階の真下にも、同様の一般開架室が存在します。面積こそメインホールには遠く及びませんが、天井が低く卓上ライト付きの個人用閲覧机があるスペースがあるため、じっくり学習するのには一番向いている場所かもしれません。


 ここで勉強をするのは、現代文です。現代文で重要なのは、音読とかではなく、フィーリングやセンスに頼らない、しっかりとした文章の読み方や解き方です。つい先ほどまで声を出して歩き回っていた今の自分には、ちょうどよい箸休めですね。


 1日分のノルマをこなした私は、復習した内容をアウトプットして脳みそに定着させるため、数学で行った時と同様、再び児童開架室へ向かうべく私は席を立ちます。


 その時でした。


 ぎし……


 その音は、天井からでした。正確には二階の開架室です。明らかに、誰かが足を踏みしめている音です。


 自分の耳を疑いました。くどいようですが、この図書館には今、私しかいません。そもそも、人が歩いた程度で下の階にまで音が伝わるなんてのは、図書館にあるまじき設計です。通常の営業でも、そんな音がするわけありません。


 だから、私は空耳と結論付けました。あるいは、二階のフロアの床に空洞があって、そこをネズミが通ったからかもしれません。この図書館は、何気に築年数を重ねておりますから。


 ★★★


 夏は最も日照時間の長い季節です。ですが、二階の集合室にあるブラインドを上げてみた途端に目の前に映ったのは、図書館の敷地内にある公園が夕焼けに照らされた様ではなく、夜の闇で塗り潰された一面の黒——によって窓ガラスに映し出された一糸まとわぬ姿の私でした。


 自分でもわりと自覚のある美貌、艶のある長い髪、文字通り透き通るほどの綺麗な肌に衣類の類は一切なく、手足は流れるように長く、同性をして魅了せしめる引き締まったウエスト、小振りのスイカのように実った豊かなバスト、身体の輪郭を描く緩やかなS字の終着点に相応しいヒップライン、くっきりと刻まれた左右の鼠径部、そして……全部、見えてしまってますね。


 まあ、懐中電灯の明かりすら見られないことから、夜の公園には誰もいないようです。まして、図書館に隣接するのは樹木が最も生い茂る雑木林のエリア、そもそも真昼でも人がいない場所です。なので、私の裸を見ている者はいないと踏んで間違いないでしょう。


「あ」


 思わず声が出てしまいました。なぜなら、窓に人影がいたからです。正確には、窓に反射されて映っている集合室の窓の向こうに。


 この集合室は二階の一般開架室に隣接していているのですが、集合室から一般開架室の様子が分かるようにするための窓が設置されています。普段はブラインドが掛かっているのですが、明らかに人影のような黒い何かがありました。あの影は、集合室にいた私を一般開架室から覗いていたのです。


 私は咄嗟にドアを開けました。けれども、開架室には誰もいませんでした。当然です。この図書館は私の貸し切りであり、誰もいるはずがないのですから。


 あの影は、日中に見たものと一生でしょうか。あの影は、また私の裸を見ていたのでしょうか。窓に映った裸体を晒し、恥じらいも無くポーズを決めていた私の姿を見て、どう思っていたのでしょうか。


 気にしても仕方ありませんね。私がここに来た本来の目的を忘れてはなりません。


 ★★★


 時刻は深夜を回っていたでしょうか。節電の為なのか分かりませんが、メインホール以外はほとんど消灯されています。というか、メインホールも常夜灯を兼ねる最小限の明かりが灯っているだけで、一番明るいのは雑誌スペース近くの学習机にある卓上ライトのみとなっています。


 夜なってくると、集中力も切れてきます。寝る前の数時間は、暗記科目に目を通すに限ります。英単語と英熟語、古文単語に漢文、まだ二年生なので定期考査の復習で済ます予定ですが、日本史と世界史に生物——この休み中に一週間かけてモノにしなければならない教科は山ほどあるのです。


 とは言っても、焦っては何も頭に入りません。楽しむように何度も目を通すまでです。


 さて、図書館を貸切ってるからこそ出来る特権として、『声を出せる』(『全裸で居れる』)の他に『飲食が出来る』というのもあります。というか、私が勉強中に色んな本が気になって勉学の妨げにならないように、事前にほとんどの本棚にカバーが掛けられてしまっているんですよね。しかも、うすいレースの上に分厚い塩ビの透明なシートが重なっているという厳重仕様。おかげさまで、私が今飲んでいるコーヒーを万が一本棚の方へ投げてしまったとしても、図書への被害ゼロになります。


 で、身体に入れば出るのもありまして……


 尿意を催した私は、何度も入っている化粧室に向かうわけですが、ここでふと「貸し切り」という事実が再び脳裏を過りました。


 魔が差すとは、まさにこれを表すのですね。


 化粧室に入ったら、普段は右へ曲がるはずなのに、今回に限って左へ曲がってしまったのです。


 初めて生で見ましたよ。男性の使うものが壁際に何列も並んでいる様を。


 初めてですよ。ただ要らないものを外に出すだけの行為なハズなのに、これほどまで背徳感とか好奇心とか色々な感情が湧き上がってしまうのは。


 これ、どうやるんですか? このままこの方向へ出してしまっていいんですか? 姿勢はこのままでいいんですか? ほんとに立ったままやるんですか? 膝を外側へと向ける体勢になっているんですが、これでいいんですか? 随分としんどい姿勢なんですが、男性の皆さんは本当にこうやっているんですか?


「……っ!」


 出すのに少し時間がかかりました。なにせ、初めての経験ですもの。慣れない体勢でやるもんですから、上手く出ないに決まってるじゃないですか。まして、全裸ですよ今は。ですけど、なんというか、開放感が全然違いますね。


 ですけど、気が付いた点がいくつか。これ、事前に気付いたから良かったんですけど、トイレットペーパー要らないんですか? 残ったのどう処理するんですか?


 あと、離れた瞬間に水が流れて驚いたのですが、なんでひとつ飛んで隣の便器からも水が流れたんですか? あと、物置以外に閉じてる大便所の扉がひとつあったのですが、あれは普段から閉まってるものなのですか?


 困りました。後で誰かに訊こうにも、これは色んな意味で尋ねづらい疑問ですね。仕方ないので、疑問ごと水に流してしまいましょう。世の中には、分からないままでもよい事柄だってあったのです。


 化粧室を出ると周囲は真っ暗です。児童開架室や二階への階段が隣接しているのですが、そこら全てが消灯済みだからです。メインホールの明かり、化粧室から頭を出している光、存在を主張している非常口の看板や消火栓のランプを除けば、辺りは足元すら分からない一面の暗闇――


 ばんっ!


 突然、背後から音がしました。化粧室からです。あの音は聞いたことがあります。蝶番のばねに引っ張られた大便所のドアが、仕切りとなっている薄い壁板に勢いよくぶつかる音です。


 続いて、背後から聞こえてきたのは、断続的なリズムの音でした。


 床を踏みしめるような、ひた、ひた、ひた、ひた……。


 どう考えても足音です。


 しかも、明らかに、次第に大きくなっています。


 背中から視線を感じました。


 目の前に明かりの照らされたメインホールが見えますが、そこと私を隔てる暗闇に無限の距離を感じます。音に反応したのをきっかけに、私の足が歩き方を忘れてしまったようなのです。


 ひた、ひた、ひた……。


 徐々に足音は大きくなります。


 誰かがいるのは感じるのです。でも、後ろを振り向けないのです。どうしてでしょうか。まるで鉛を流し込まれたかのように、身体が動かないのです。


 足音が近付いてきます。


 そして、私の真後ろで止まりました。


 背中を伝う感触。これは汗でしょうか? 皮膚の表面がさざ波立つような、嫌な感覚が込み上げてきます。


 私の息が荒くなってきました。心臓の鼓動の音が、妙に激しく聞こえてきます。


 また、足音。後ろから前へと歩いているようです。


 けれども、目の前には何も見えません。でも、同じように皮膚の表面がざわつく感覚は、私の胸や下半身からしていました。


 やがて、ふたたび足音がします。足音は私から離れると、どこからともなく消えていきました。


 足から重さが消え、本来の軽やかさを取り戻した瞬間、私は速やかにメインホールに戻ります。


 メインホールに備え付けられた時計を見るに、時間はほんの少ししか経っていませんでした。かなり時が経ったように感じましたが。


 あれは、一体なんだったのでしょうか。二階で見たあの影と同じような何かでしょうか。


 音の出所から察するに、あれは男子トイレから来たと判断して良いでしょう。男子トイレにいたということは、その性別も容易に推測できます。ということはつまり、あれは私の全身を眺めていたのではないでしょうか。


 ここでやっと、私は手で前をちっとも隠していないことに気付きました。


 この時、私の顔はどんな色をしていたのでしょうか。


 熱帯夜に備えて冷房はまだ効いている筈なのに、こめかみに汗が流れていました。


 でも、今一番私が困惑していたのは、今日の一連の奇妙な出来事から導き出される結論に対し、変な高揚感を抱き始めている自分自身でした。

 


 

 

 

 

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