第2話

 雪は、ぼたぼたと落下音の聞こえそうなほど、強く垂直に落ちている。いつの間にか肩に積もっていた綿雪を手で払い、頭を振って冷たい雫を飛ばした。

 顔を上げると、異臭が鼻をついた。――三途の川だ。

 もう四丁目に入っているのだ。英司は一度その場に立ち止まり、深呼吸をひとつしてから再び歩き始めた。

 三途の川、とは、もちろん宗教的な意味ではない。地元の若者にそう呼ばれる、いわくつきの側溝そっこうが、四丁目の歩道脇を走っているのだ。側溝はある路地との境で、溝蓋の隙間から原因不明の強い腐臭を放つ。壁のように臭いの立ちはだかる路地の入口。勇敢に――あるいは愚かにも、その壁を抜けて路地へ入り込んだ若者が、相次いで消息を絶った。


 腐臭が強い。三途の川の目の前にきた。街灯は五十メートルに一本ほど。ちょうど光の届かない中間に、路地の入口はある。

 一寸先は闇とは、このことを言うのだ、と思う。空が分厚い雪雲で覆われているとか、路地の両側が民家の高い塀や垣で囲まれているとか、そんなことでは説明のつかない真の闇が、路地の奥にわだかまっている。夜が単なる地球の影だと忘れてしまいそうなほど、黒い。

 英司はしばし歩道から、路地に向かって立ち尽くした。

 雪は目前を真っ直ぐ降り注ぐ。無風のはずなのに、背後から気圧される感じがした。通りから路地へ空気が押し寄せている――いや、路地が吸い寄せている。

 糸に引かれるように、ゆっくりと流れに乗って身体を動かす。

 一歩目を踏み出した、そのときだった。右肩に何かが触れたと思った瞬間、ぐわりと背後へ引っ張られ、上半身が崩れた。英司は咄嗟に膝を曲げて尻もちをついた。

 ああっ、すんません、と背後から、上擦った声が聞こえた。慌てた様子で英司の両脇を支え、立ち上がらせようとしたが、手が滑って上手くいかない。英司は声の方を向いた。なおも焦って、手にしていた懐中電灯を地面に落とすのを苦笑しながら見遣り、「大丈夫、自分で立てるから」と尻をはたきながら立ち上がった。

「……ごめんなさい、驚かすつもりはなくて」

 帽子を取って頭をぺこぺこ下げる。声と、ぼんやり見える輪郭から察するに、小柄な少年のようだった。

「気にしなくていいよ。こんな時間と場所で、驚かずに人と出会う方が難しい」

 それで何の用が、と訊く前に、少年の方から言葉が飛び出す。

「悠の、お兄さんですよね?」

 一拍置いて英司は頷く。

「良かった。あの、オレ、宮森です」そう名乗って、懐中電灯を点ける。顎の下から自分の顔を照らした。「さっきは電話、ありがとうございました」

 うらめしやと言いそうな、滑稽な明暗に浮かび上がった顔に見覚えはなかったが、名前には聞き覚えがあった。

「宮森……弟の同級生、かな」

 宮森は激しく首を縦に振り、安堵の息をつく。

「オレ、お兄さんから電話もらったあと、考えてたんです。悠に三途の川の場所を訊かれたときのこと。肝試しでもするのかって訊いたら、心霊とか無理だって笑われて。じゃあなんで訊くんだって言っても、話を逸らされちゃうんです。……でも今考えれば、その頃から考え込むことが多くなって。だから――」

 言葉が途切れた。宮森は英司の体越しに路地を覗きこむ。顔に当てていた懐中電灯の光を地面に降ろし、路地へと滑らせていく。

 どこかで細い声が聞こえた。猫か赤ん坊のような声。泣き声と叫びの中間点。

 ぎゃ、と宮森は短い悲鳴をあげる。背後へ飛び退ると同時に、英司のコートの裾を掴んだので、二人は組み合うように倒れこんだ。

「人、皺くちゃの人がっ」

 じたばたと藻掻く宮森から身体を離し、落ちていた懐中電灯を拾い上げる。膝立ちになって路地へ光を差し込んだ。突き当たりまで五十メートルほど。その間の塀や電柱ひとつひとつに光を当てたが、動くものの気配はなかった。

「誰も、いない」

 言いながら立ち上がり、蒼白になって震える身体に手を差し伸べる。宮森は動転しているのか、英司の脚やら胴やらを矢鱈やたらに掴んだ末、ようやく手に辿り着いた。背負っていたリュックがクッションになったようで、怪我はなさそうだ。立ち上がらせ、身体についた雪を払ってやる。最前からの雨雪によるものか、ウィンドブレーカーが雨滴でびしょ濡れだった。

「見間違いじゃない、誰かいたんです! やっぱり――」

「やっぱり?」

「誘拐犯ですよ!」想定外に大きな声が出てしまったのか、宮森は辺りを見回して声をひそめる。「この三年で十人も消えてるんですよ、十人。異常です。それなのにみんな、マジの心霊スポットだ、神隠しだって噂するだけなんです。マスコミも一度だって取り上げない。それどころか、失踪した奴の親も単なる家出だって、警察に届けもしないんですよ。おかしい……きっと連続誘拐犯がいて、家族に口止めしてるに決まってる。きっと、さっきの皺くちゃの奴が――」

「すこし落ち着こうか」パニックで過呼吸になりかけている宮森の両肩を叩く。「さっき見たのは光の残像だよ。直前に懐中電灯の強い光を見たろう。真っ暗な路地に映った残像が、顔に見えただけだ。君が倒れた後すぐに路地を照らしたけど、どこにも人はいなかった。どれだけ皺くちゃの年寄りでも、あの速さで路地から消えたり、電柱の細い影に完全に隠れることはできない」

 冷静に説明され、ようやく宮森は元の呼吸を取り戻す。

「……でも、これは事件としか思えないです」

「うん、僕も誘拐は否定できない。都会に隣接した住宅街だ。多少住人は多い、けれど静かな、潜むには恰好の場所だからね。それに、誰も行方不明者届を出さないのもおかしい。犯人の口止めというのはどうかと思うけど、何かしら行方不明だと思わせないような仕掛けがあるのかもしれない」

 淡々と語る英司を、宮森は凝視する。

「オレ、悠が心配です」

「うん」

「こんな危ないこと、子供だけでするなんて馬鹿げてるけど……」迷うように言って、リュックから懐中電灯をもう一本取り出す。恐る恐る前に突き出した。「路地、一緒に探してくれませんか。……本当はひとりで探そうと思って来たけど、どうしても怖くて」

 小さな身体を震わせる宮森に微かに苦笑を漏らし、懐中電灯を受け取る。

「いいよ。僕もひとりで探そうと思って来たんだ。君がいれば心強い」

 断られると思っていたのか、宮森は目を丸にして英司を見つめ、それから勢いよく頭を下げた。「あざっす!」

 二人は、さくりと音を立てるほど積もった雪を照らしながら、三途の川を踏み越える。鼻をつまんで顔を顰める宮森の隣、細長く聳える電柱の根元に、赤ん坊ほどの黒い影が四肢を畳んで蹲っているのを視界の端で捉えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る