夜の彼方
小山雪哉
第1話
弟の失踪に居ても立ってもいられず、深夜の住宅街に飛び出したのは、決して義侠心や家族愛からではない――少なくとも
弟を憎いと思ったことはない。それどころか口論した覚えもない。傍目には不和のない兄弟に見えていたはずだ。それでも今こうして、しんと
「僕は冷たい」
何かを確認するように、幾度となく振り向けられた言葉を口に出してみる。その通りだ、と思う。生まれて十七年、英司は自身の情緒の欠落を、はっきり認識していた。犯罪的な衝動がないのが唯一の救いだ。ただ周囲に「冷たい」「反応が薄い」「面白くない」と言われるだけで済む。他人の言動も、自分自身の考えにすら興味はない。――そうやって生きてきたのに。
この胸の熱さは何だろう。街灯の光をくぐりながら、英司は呼気の白さを確認する。一つの生命のように膨らんだ吐息は、身体に当たって霧散すると、ふわりと温かかった。それは、自分の腹の深いところで煮え
もしやと思い、試しに弟への哀憐を呟いてみる。すぐに気付いてやれなくて悪かった、暗くて怖いだろう、兄ちゃんが助けるからな――やはり感慨は湧かなかった。自分は弟の安否など気にしていない。普段と変わらぬ冷酷さに安堵してはみるものの、冷たい思考とは裏腹に、どうしてか足は先へ先へと地面を蹴った。
(僕はなぜ、急いでいるのだろう)
弟がどうなろうが、知ったことではないのに。
静まり返った住宅街の歩道を、街灯から街灯へ光を紡ぐように歩く。瞬く間に霙は乾いた牡丹雪へと変わり果てていた。重量を増した雪片が顔に触れる。時折肌についた結晶が溶けていくたびに、英司の思考も、どろりと
午前一時過ぎ、弟の
最初に異変を感じ取ったのは母親だった。異変というより疑問。午後九時、パートから帰宅した母は、雨に濡れた髪を拭きながら、「悠、今日はどこに泊まってるの」と英司に尋ねた。
高一の弟は奔放な性格に反抗期が相まって、ふらりと友人宅に泊まることが多い。母親はある程度許容していたが、さすがに雨宿り感覚で泊まるのは相手の家庭に申し訳ないと思ったのか、今日は帰ってくるよう伝えてほしいと言った。
リビングのソファでテレビを眺めていた英司は、慣れた手つきでスマホを取り出し、メッセージを確認する。
弟は素行こそ褒められたものではなかったが、母親の説得に応じて高校進学を了承したり、兄である英司だけには、泊まり先を
母子三人の暮らしも影響しているのだろう。弟が生まれる前に亡くなった父親の分まで、母親は泣き顔ひとつ見せず二人の息子を育てた。献身的な愛を注がれながらグレた弟。きっと悠は、真っ直ぐな人生を歩んでいない己に気付いたのだ、と英司は思う。母親と口論になるたび、「オレはあんたらとは違うから」と寂しげに吐き捨てた。家にいれば、嫌でも家族の中の自分という構図を直視してしまう。それが嫌で外へ出たがっている。
今日はどこに避難したのだろう、とそこに表示されているはずの名前を読み上げようとして、英司は息を詰まらせた。
三途の川へ行きます
短い一文を何度も読み返して、勢いよく立ち上がる。二階へ駆け上がった。
弟の部屋の扉が、拳ひとつ分あいていた。在否に関わらず必ず鍵を閉めるはずだ。尋常ではない事態を察知して、部屋に上がり込んだ。
服の脱ぎ散らかされた部屋の隅に、リュックが置いてあった。どこへ行くにも持ち歩いている鞄だ。チャックを開けてすぐ、革の財布が見えた。その横にカードケース。二、三小物を掻き分けた奥には、スマートフォンが、真っ黒な画面に持ち主の微かな指紋を反射させていた。
弟の知り合いに電話を掛けた。英司自身が知っていた番号と、部屋をひっくり返して見つけた連絡先のメモから、弟の友人と思しき名前に片っ端から電話を掛け、そちらにお邪魔になっていないか、と尋ね回った。
消息はつかめなかった。しかし幾人かの口から「三途の川」という言葉が飛び出した。どこにあるか訊かれ、四丁目だと答えた、という。
警察には連絡しなかった。二階の騒がしさを訝って来た母親にも、適当な名前を言って、今晩はそこに泊まっていると嘘をついた。――だって、弟はもう戻ってこないのだから。
午前一時前、電気を落とした弟の部屋に佇み、ほんの僅かに開いた窓の間隙から入り込む冷気を肌で感じていた。最後のメッセージが届いたのは夕方五時前。学校から帰ってきて、確かにこの部屋にいたのだ。そして消え去った。三途の川へ行くと書き残して。
「なんで……お前が」
窓を閉め、部屋を出る。音を立てぬよう勝手口の鍵を静かに開けて外へ出た。
ぼんやりと白く浮かび上がった家を見上げる。コートのフードを被り、深夜の住宅街を西へと歩き出した。
(あの路地は、もう既に十人を吸い取っている)
二度と戻ってこられない、闇の彼方へ。
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