中編 何事も振り切ったら、どっちが悪人なのか分からなくなるらしい。
そして数日後、夜、八時五十五分。
俺は自分のパソコンデスクの前で、決行時間を待つ。
耳には彼女のスマホ直通のワイヤレスヘッドセットを装着済みだ。
『聞こえる?』
彼女の声に俺は答える。
「問題ない。今、どこだ?」
『E社、社長室へ通じるフロア』
「どうやって入った?」
『進路について相談したいって。父親には言いにくいから直接話をしたいって話した』
「……主語を隠してるだけで、嘘じゃないのが悪質だ」
進路というのは彼女のではなく、叔父のものだろう。
白い道へ舵を切り直すか、このまま黒い道を行くか。
どちらにせよ、叔父とやらにとっては青天の霹靂に違いあるまい。
『そんなに心配しなくても大丈夫だって。夢のある話にできるよう努めるから』
あくまで気楽そうな彼女の声を聞きながら、頭痛を覚える俺は、意味も無くキーボードのスペースキーを叩く。
イギリスだったかの有名な小説家は、ネタが浮かばなかったら、一日中タイプライターで自分の名前を打っていたという。
さぞ暗澹たるものだろうし、マネしたくないと思っていたが、なんか、そういう気分だったのだ。
一度、深呼吸して、自分の役割を思い出す。
やることは簡単。
まず自宅から、彼女が指定し、パスワードも教えてくれたA社のパソコンへアクセス。
リモート接続ではあるものの、管理者権限も付与されているので、ネットワークシステムを立ち上げ、A社グループ全体のデータベースを経由してE社のパソコンへ。
この時点で二つのパソコンのソフトを経由しているので、操作にタイムラグは出るだろうが、それはもう諦める他ない。
繋ぐのには手間がかかるが、切断なら一瞬なので、俺の安全は確保されていると言っていい。
「問題は、そこからだよな……」
事がこれだけで解決するのなら、彼女が俺に声を掛けることはなかっただろう。
最後の壁がある。
それは、目的の裏帳簿なり何なりがE社のデータベースのどこにあるのかまでは分からないことだ。
俺がブツを探す間、彼女は叔父の注意を逸らす為に、『進路相談』を続けなければならない。
彼女が叔父の、『進路』にどこまで踏み込むかは分からないが、『高校生の抱きそうな進路の悩み』をベースに時々、刺を絡ませる感じの話になるのだろう。
だが、最悪、その叔父は記録をペーパーベースに頼り、それを金庫にでも隠し、デジタル上に証拠を残していなかったなら、その時点でアウト。
怪しまれない内に、撤退あるのみ。
その進退の判断は、俺がしなければならない。
俺の口元に、引きつった笑みが浮かぶ。
「安全圏にいるヤツが、修羅場にいるヤツの命綱を握ってるだなんてな……。時代だなあ……」
時間内に、アキレス腱のデータを探すという作業自体には、何度か経験がある。
でも、それでも。
「うぅ……」
指先が震えるのは、この先、数分の俺の手際と首尾で、俺ではない、一人の少女の命運が大きく変わる可能性があるからだ。
「って、ダメだダメだ。飲まれるな……っ!」
俺は両頬を叩き、大きく深呼吸して、ディスプレイを睨む。
両手をキーボードのホームポジションに。
それで、気分は落ち着いた。
ヘッドセット越しに、小さく笑った様な吐息が届く。
『じゃあ、行くよ』
「了解」
がちゃり、と言うドアノブの音。
彼女はいつもの砕けた口調を変える事無く、話し出す。
『こんばんはー! お久しぶり、叔父さん! 元気?』
叔父の声が返って来る。
『おお、久しぶりだね。もう高校三年生か。しばらく見ない内に、美人になったなあ』
声が少し喉の奥に引っ掛かっている様な調子があるが、聞き取れない事はない。
平均的な中年男性の声だ。
俺は心の平静を保ちながら、データベースを開き、大量に出て来たフォルダの数におののく。
『またまた、ご冗談を。どちらかと言えば、美形だとは思ってるけど!』
『ははは、度胸も据わったみたいだね。お父さんに似て来たんじゃないかな?』
『壁に耳あり障子に目ありっていうし。この会話だって誰が聞いてるか分からないから、ヘンに謙遜するのもね? いつも正直でいた方がラクだよ?』
『う、ううむ、そうなのか? 怖い時代になったものだ』
『あ、でも、相手を騙すには、ホントを混ぜた嘘を吐くのが一番っても言うしなあ。その辺りは叔父さんの方が詳しいんじゃ? 私の中で叔父さんって辣腕の経営者だし』
『あ、あはは、嬉しいが、答えにくい問いをする』
会話を交わす彼女の声色は明るいが、俺の機嫌はどんどん悪くなる。
ディスプレイに並ぶフォルダ名を一度最後まで確認するが……。
「ええいっ! 何の部署か分かりにくいっ!」
以下、表示の一例だ。
PEM事業本部
システムイギュレーション 1課
システムパラデーション 2課
インテグレーションマッチ 3課
NBE未来促進本部
企画イーストリィ A課
販売促進シェイブアイス B課
囲い込みboomrang C課
などなどが、延々と続く。
こんなのが三十くらい並んでいて、言葉を失う。
「ってか、事業内容が全く見えない! 一つずつ検索するしかないってか!?」
やっぱ、この会社ブラックだ! 超ワンマンの真っ黒だ! 叔父と泥船だけ沈め! と思いながら、俺は彼女から受け取っていたファイル検索アプリへ、フォルダを一つずつ放り込む。
これはA社のグループ会社が独自に開発した会計ソフトの簡易アプリで、その手のファイルがあれば、即座に検索可能らしい。
検索の合間に、とあるプログラムを立ち上げて、その設定をする。
そのプログラムは大抵のパソコンにプリインストールされているもので、作業の助けにはならない。
だが、俺は油断しがちな自己への戒めの為に、違法アクセスの際、必ず立ち上げる様に習慣づけていた。
それを終え、思考をメインに戻す。
検索アプリの機能や速度に問題はない。
だが、こんなに意味不明の部署とフォルダが出て来るとは思っていなかった。
時間がどのくらい掛かるのかが読めない。
今まで腹の中を覗いて来た会社は、何だかんだで、まっとうだったのだと思い知る。
最も、組織図に関しては、事前にホームページで最低限の情報を収集しておかなかった俺が悪いので、今後、猛省せねばならない。
そんなことを考えつつ、俺は検索の終わったファイルを元の場所へ戻し、次の精査を始める。
届く、彼女の会話。
『で、進路の相談なんだけど』
『ああ、なんだろう。力になれるなら』
……力になれるなら、ね。
血縁が近く、母体となっている会社の社長の娘が、内密に相談に来る。
叔父には、それが今後の飯のタネと見えているか、それとも……?
「違う。考えるべきは、そうじゃないだろ、俺……」
何にせよ、彼女が当たらず触らずの話題を続けて、時間を稼いでくれることを願うだけだ。
彼女の口調は変わらない。
『うん、叔父さんさ、会社のお金を勝手に使って、損害を出した上に、たんまり借金してるよね? どうするの、それ?』
『ブッ!?』
「ブッ!?」
図らずとも、俺と叔父のリアクションが被る。
「いや、違うだろッ!? お前のすべき『進路相談』は、そっちじゃないッ! 何やってるんだ、時間を稼げ、時間を!」
俺は思わず大きな声を出したが、彼女はどこ吹く風だ。
『グループのそれなりの立場にいる人は耳に挟んでると思うけど、放置って言うのも後味が悪いから、直接、話に来たんだ。何、考えてるのかなーって』
ダメだ。
意図を隠す気ゼロ。
パンチは右ストレートのみ。
ミサイルは核しか知らないタイプだ。
切るカードは、まだあるだろうが、モタモタしてもいられない。
俺は額をグーで殴り、鈍痛が頭に滲む。
「だからこそ、ここからだ……!」
俺は腹に力を込め、頭を回す。
ここから、どうする?
一つ、一つ、フォルダを検索して行くか?
アプリを使えば、一つのフォルダの精査に、それほどの時間は必要ない。
二つ、或いは、三つのフォルダの同時検索も出来なくはないが、それは通常のパソコン環境での話だ。
問題は通信のラグ……つまり、遅延だ。
たとえば、「1」というファイルの検索が終了し、元の場所へ戻した後、「2」というファイルの検索を始めたとする。
一見、通常通りに動いている様に見えて、実は「1」のファイル移動に何らかのエラーが発生していたという場合があるのだ。
その注意メッセージが通信ラグによって表示されず、「2」の処理と混同が起こり、ファイルが混在、欠損すると、頭を抱える他ない。
というか、俺は過去にそういうのをやらかして、肝を冷やした事がある。
これは違法アクセスを行う上でも、最上級にやらかしてはいけないミスだ。
百歩譲って単純に、ファイルの読み込みが出来なくなったという程度なら、内部のミスと片づけられることもあるかもしれない。
だが、ファイルがレジストリに紐づけられていて、それが破損し、基幹システムが起動しなくなったら、完全にヤバい。
相手が悪い事をしたので、俺も悪い事で反撃し、関係のない人達にまで損害を加えましたという、真っ黒で、家族も友人も傷付ける最悪の結末。
俺はもう一度、「どうする……?」と呟いて、爪を噛む。
彼女達の会話が続く。
叔父の口調から、友好的な響きが消える。
『なんの、話をしているのかな?』
『個人の借金モデルで言っても、弁護士に依頼して、任意、或いは法的処置が必要な状況だよねって。月の利益の余剰で、利息を返せてない。毎月、赤字』
『はは、俺が、その辺りの多重債務者と同じだと?』
『返せない利息の為に、新しい金融業者からお金を借りて返済。自転車操業じゃん。法人レベルでもやっているとしたら、末期だよ?』
『小娘が知ったような口を叩く。企業は無借金経営でないとブラックと決め込む、若者の典型だな。仮にそう言う状態だったとしても、今だけだ。今、新しい事業計画を立てている。それが上手くいけば、何もかもが元通りだ』
俺は指先を走らせるのを止めないまま、苦い気持ちになる。
元通り……ね。
自身の企業が下火になっているという認識はあるようだ。
まあ、ただ、『そうだ、そうなれば、出て行った妻も、娘も……』と追い詰められた響きのある呟きが気になるが……。
だって、新しい事業計画の部署名が既にアレだったし……。
「……って! 違うだろ……!」
いや、今、人の心配をしている暇はない。
検索し終えたフォルダは八。
残りはまだ二十二……!
焦りが、絶望的な予感を呼ぶ。
これは……会話が終わるまでに、間に合わない。
途中で叔父が気付く公算が酷く高い。
「なら、どうする? 撤退か……?」
だが、それは中途半端過ぎる。
仮に俺と彼女が逃げおおせたとしても、今後、開き直った叔父が彼女の父親や、グループ会社の役員、その家族達にどんな嫌がらせじみた行動を取るかが予測できない。
となると、この場で叔父の『進路相談』を正しい方向へ導いて、終わらせる他ない。
俺は懸命に頭を回転させ、打開策を考える。
激しい鼓動と発汗を自覚しつつ、敢えてパソコンから離れ、エアコンを入れて、冷風を受ける。
デスクのペットボトルの麦茶を口に含み、冷静になると、思わぬ所から、一つの疑念が湧いてきた。
彼女がいきなり絡んで来た放課後。
叔父は腐っても、巨大企業の社長。
そして彼女は、その叔父の会社の……意味不明な業務実態も、外部者以上に知っていたはずだ。
その上で、俺にリモートデスクトップでA社を経由させ、管理者権限を付与し、専用のアプリまで手渡して、会話まで丸聞こえの状況に自分達を置いている。
なのに、今の現実を悲観し、絶望している様子もない。
つまり、徹頭徹尾、現状打破を疑っていない。
それはなぜだ?
俺の仕事を信頼している?
何を根拠に?
このままでは負けるのに。
俺が何か読み違いを……勘違いをしているのか?
「いや、ちょっと待て。最初から考えろ。視点を変えろ……!」
そもそも、客観的に判断して、俺がファイルを特定出来る勝算は、かなり薄かったんじゃないか?
そして彼女は、俺が見つけられない事を前提に、この案件を振って来ていたのだとしたら……?
俺は作業の手を止めないまま、彼女の言動を発端から思い返し始める。
現状を打破するヒントは、そこに必ずあるはず。
ヘッドセットから彼女の声。
『自己破産は考えてないの? 基本的に個人の借入なら、住宅ローンを組んで数千万の債務があっても、目安として50万円程度の弁護士費用でゼロに出来る可能性がある。高価な資産がないのなら、35万円前後まで下がる。もちろん、身の丈に合わない持ち家や車、貴金属の様な、処分して20万円以上の価値があるものは原則として換金される。弁護士費用が払えなければ、国の援助はあるし、もしも、個人事業主として車が仕事に必須というのなら、当然弁護士は考慮する。相談に応じた判断がされるはず。スマホやパソコン、テレビだって残されるでしょう?』
叔父は何も答えず、彼女は続ける。
『……生活レベルは落ちるけど、豪邸から身の丈にあったアパートになるだけじゃない? 取締役が自己破産すると退任の必要があるけど、原則、失職はしないはず。衣食住に困る事はないわ。顧問弁護士だっているのに』
『ふん、さかしい浅知恵だな。ネットで検索すれば、すぐに理解出来るレベルだ。弁護士ではない人間……資格を持たない人間が法的業務を可能と断言すると非弁行為……つまりは弁護士法の違反となるから、『基本的に、可能性がある、原則として』と条件付けして、明言しないのは感心だが。しかし、ハイ、そうですかと俺が応じると? どこで、そんな小賢しい知識を得た? 正義の味方にでもなるつもりか?』
彼女は苦笑する。
『正義の味方かあ……。遠いなあ……。非弁うんぬんは途中で得た、副産物みたいなものだから、胸は張れないし……』
俺は必死にファイルと記憶の整理をしながら、彼女に同意する。
そうだろうとも、お互いに胸は張れない。
しかし、その瞬間、閃いた。
「あ……」
そして、この状況から脱する方法を導き出す。
「あ、あー、そういうことか。なるほど、なるほど。最初からオーダーを勘違いしていたワケだ、俺は」
呟きながらディスプレイを見る。
検索したフォルダは十二。
残り、十八。
彼女の話題も打ち止めらしく、気まずい沈黙が落ちているが、俺は気にしない。
検索する手すらも止めて、浅い自己嫌悪の呼吸を一つ。
そして、アプリとは全く違う場所で立ち上がっていたプログラムへ意識を向ける。
E社にアクセスした時、検索の合間に、保険の為に用意していたモノ。
それは時計……アラームだ。
違法アクセスの命綱、それは時間。
俺は今までの経験から、作業中の時間管理意識が薄くなることの危険性を知っている。
だから、没頭し切ってしまわないように、意識の浅い部分に、時間切れを忘れない為の刺を残していたのだ。
完璧な仕事など存在しない。
自分を守る為に、引き時をわきまえろ、と。
何事も命あっての物種なのだ。
後で、『目的の達成は、どうなった?』と彼女に問われるだろうが、その解答もある。
俺はヘッドセット越しに、彼女へ語り掛ける。
「さて、じゃあ、撤退だ。サインは出すから、合わせて逃げてくれ」
『……』
彼女は何も答えない。
だが、笑っている様な気がした。
ようやく答えに気付いたか、と沈黙が雄弁に語っていて、俺は苦笑する他ない。
さて、残り三秒。
叔父の声。
『どうした、黙り込んで。もうネタ切れか? 安いブン屋でも、もう少し粘るぞ?』
明らかな嘲笑を含んでいるが、若干余裕を無くしている響きは残っている。
そこから、個人として、会社としての危機は去っていないことが伺えて、切なくなった。
残り、二秒。
次は彼女の声。
神妙な声。
『叔父さん、私、正義の味方なんかじゃないよ。一番にやりたいことが出来ない……道から外れている、むしろスタート地点で負けてる人間』
『?』
残り、一秒。
妙に清々しい彼女の声。
『進みたい道を選んでも、結果は出せないって痛いくらい理解してる。私はヒーローになれない。……でも、好きだから止められない。それだけの度し難い存在なの』
ゼロ。
『ビイイイイイイイイイイ!!』
社長室のパソコンが突然、けたたましいアラーム音を放つ。
俺の設定したそれは、尻上がりにボリュームを伸ばし、金切り音の様な音が周囲を満たす。
『なっ、なんだっ!?』
慌てた叔父の声。
きっと、目を白黒させて、心底動揺しているであろう彼とは反対に、弾んだ彼女の声が続く。
『でも、最近、似た様なヤツを見つけて、悪くはないって思ってる! 叔父さんも、思うまま、自由に生きて! じゃ、言いたい事は言ったし、私は逃げるね!』
どかん、ばたん、がちゃん。
走る音、開く音、閉じる音。
とっとと踵を返してトンズラを決め込んでいるであろう彼女の無事を祈りつつ、俺はネットワークシステムのアクセスを解除する。
そして最後に、俺のパソコンのデスクトップに新しく増えた一つのフォルダを見つめて、達成感のこもった吐息を漏らした。
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