とある駆け出しの戦い

 狼は耳がよくそ森林の中においても九キロメートル先の音を聞き分けられるらしい、先程トーリア達が確認した彼我の距離は人間の肉眼で見える程度、数字に直すとおよそ数百メートルと言ったところだろう。

 食事中とはいえ警戒を怠るべきではなかった、特に傍で仕留めた獲物を……つい先程殺した冒険者にありつく事もせず、次の獲物を求めて知覚を研ぎ澄ませていた一頭の大狼に対しての警戒を。


 華奢なハルナでは大狼の飛びかかりを受けきることは出来なかった。しかしこれは仕方の無いことだろう、仮に飛びかかりを受けたのがトーリアであっても受け止めるのは不可能だったからだ。

 鍛え上げた王国の兵士であろうとも魔獣に飛びかかられてはひとたまりもない、ゆうに百キロを超える筋肉の塊が明確な殺意を持って襲いかかってくるのだ。


 大狼の前脚がハルナの肩と腹を踏み砕く、大狼にすれば軽く押さえつけただけなのだがハルナにとってそれは違った。

 今までも何度か男や魔獣に組み伏せられた経験はあった、その度にどうにか身を捩って抜け出してきたのだが今回はそれはできそうもない。

 鉄の塊かと錯覚するほどの重量に、ハルナは身を捩ることすら許されなかった。

 大狼が前脚を軽く、それだけで皮鎧の継ぎ目が弾け飛び、粘つく音とともに骨が砕ける音が響く。

 大狼からしてみればそれはより抑えやすい位置に前脚を動かしただけなのだが、少女の軽い体はその軽い動きにすら耐えきれなかったようだ。

 押し潰されたように脇腹が抉れ、骨片と内臓が混じりあった鮮血が大狼の前脚を濡らす。


 腹が灼ける、胸が苦しい、灼ける様な熱さ以外に何も感じられない、視界は白黒に明滅しあまりの激痛に悲鳴すらもあげられない。

 激痛のあまり思考が働かない、大狼が前脚をにじる度に意識を手放してしまいたいほどの熱量を感じる、その度に全身を駆け抜ける電流が脳に危険信号を送り意識を手放すことを許してくれない。


 およそ少女のものとは思えない絶叫が黒々とした森にこだまする、脆い人間の絶叫を聞いて愉悦でも感じたのだろうか、まるで悪鬼が如く大狼が低く唸りその鋭い牙をむき出しにする。

 黒々とした血と唾液がハルナの頬の横を濡らし、胃酸の混じった唾液が草木を溶かし白い煙を立ち昇らせる。


 しかし、鋭い牙を剥き出しにしながらも大狼はすぐにトドメを刺さない、この賢い大狼は捕まえた獲物の悲鳴が次なる獲物を呼ぶことを知っているのだ。


 さっきの獲物は弱すぎたのか運が悪かったのか、押し倒されると同時に心臓を抉り潰され、悲鳴を上げる前に絶命してしまった。

 勿体ないことをしたと巣へと戻ろうとした時、すぐ近くで囁き声が聞こえた。

 せっかく獲物がんだ、有効活用しないともったいない。

 獣皮を鮮血で濡らす黒い大狼が人ならば、そんなことを思っていただろう。



 突き飛ばされたトーリアはその凄絶な光景に脳がついていかない。視界が明滅することも無く意識が乱されるわけでもなく、ただただ目の前で親しい仲間が魔獣に食い殺されようとしている様を眺めている。

 その非現実的な現実は数十秒、数分、あるいは数時間にも感じられたが、実際にはそのどれにも満たないわずかな時間でしかなかった。


 トーリアは大狼がいつどこから現れたのか、ハルナがどうして自分を突き飛ばしたのか、そして自分がなぜ生きているのか、自分がどうするべきなのか。

 その全てが一切理解できないほどに混乱していた。


 しかしだ、今すぐ食い殺されてもおかしくないような状況にありながらも、ハルナが生きながらえていることに気付くとそんな悩みはどうでも良くなった。

 加速した体内時間の中でハルナの悲鳴が鼓膜を震わせる度、自身の中の何かが熱を持ち燃え上がる。

 それは恐怖なのか怒りなのか、絶望なのか使命感なのか。

 自然と相棒を握る右腕に力が篭もる。鉄でできた柄を握りしめる手には確かな勇気が、踏みしめる両脚には力強い意思が現れていた。

「ウオオォォ!」

 腹が張り裂けんばかりに雄叫びをあげる、自身を鼓舞するためでなく敵を威嚇するために。

 トーリアに迷いはなかった、トーリアに選択肢はなかった、トーリアに怯えはなく、トーリアには勇気があった。


 トーリアは自身の相棒を振り構え大狼へと突撃する。

 毎日の鍛錬は欠かさなかった、道具の手入れも怠らなかった。

 冒険者になってからもそれは変わらない、実践の中で鍛錬では学べないことを学んだ、体の動かし方を学んだ、戦いの勘を磨き、そして大事なものができた。


 準備は怠らなかった、あとは土壇場でどれだけ勇気を振り絞れるかだ。


 目の前で魔獣よりもおぞましい叫び声を上げて苦しむ大切な仲間を助けるべく、トーリアは構えた長剣を大狼の脇腹へと突き刺した。



 ***


「まずは自分の出番でできることをざっくり説明しようか、といっても序盤にできることは少ないんだけどね」

 グレンダが『宿場町』付近のユニットを手際よく動かしていく、盤面にはよく見ると六角形のグリッドが引かれており、そのグリッドで仕切られたタイルの中にユニットが配置されているのがわかる。

「ユニットには移動力があって一手番ごとに移動できるタイル数が決まってるんだ、このあたりは他のゲームでもお馴染みだから大丈夫かな。で、この後がちょっとわかれるんだけど……もしユニットを動かした先が中立領土の場合、識別判定をする」


 領土には保有領土と中立領土の二つが存在している、ざっくり説明するとプレイヤーが占領しているかしていないかの違いだ。

 保有領土は都市や街、人間以外であれば巣穴などだろう。

 中立領土はいくつかの種族がごったに住んでいる地域だ、洞窟に魔獣が住みその近くで人間が隠れるように暮らしていたりだとか。もしかしたら別の場所を探せば亜人や魔族も住んでいるかもしれない、そういった区域になる。

 つまり探索するには周囲を警戒する必要がある地域ということだ。


「説明書には見つかっていないユニットと対抗判定を行うって書いてあるけど、具体的にどうすりゃいいんだ?」


 ソリッドがグレンダの置いたコマを見ながら質問する、その間の視線は片手に開いた説明書に注がれていた。

 烈火を思わせる赤髪と、見る者に絶対の畏怖と恐怖を否応なく感じさせる黒い角を揺らす破壊神。

 かの目を見たものは底なしの恐怖に精神を蝕まれ、例え武勇を極めた英雄であろうと恐怖から逃れるために自身の心臓を抉り出し自死を選ぶだろう。ととある世界では言い伝えられている。


 世界を喰らう蛇すらも素手で引き裂くと伝えられる剛腕で紙の説明書を破らないように捲り、神をも射殺しそうなほどに鋭い瞳に映るのは『もくじ』の三文字。

 下界の生物に恐れられ畏れられる彼もひとたびこうして親しい友人と集まればただのしがないゲーマーでしかない、心なしかその口元には笑みが浮かんでいるようにも見える。

 きっと彼も楽しみだろう、この世界の行く末……ではなく、これから遊ぶゲームの内容が。


「じゃあ今から説明するよ、まあやることと言ってもダイス振るだけなんだけどさ」

 グレンダがユニットのコマを叩くとステータス画面のようなものが表示される。そこにはいくつかの能力値が書いてあり、その中にある『感覚値』というのが太文字で表示されていた。


「この感覚値っていうところに書いてある数だけ六面体を振って達成値を出す。で、その達成値がタイルに書いてある『隠密値』より高ければ成功、そのタイルにいるユニットがわかる」


「対抗判定じゃないのね、こういうストラテジー系のモノだと対抗判定が多い気がするけれど」

 盤面を覗き込みながら言うのはストラノ、彼女が揺れる度に紫色の長髪が甘い匂いを漂わせる。


 とある世界では嗅ぐものを魅了し精神を蝕み、廃人化させる芳香として封印していがなされているものなのだが、ここにいる神達にとっては『ちょっと特徴的な香水』程度にしか効果を及ぼさなかった。

 ストラノはこの匂いが気に入っていたため人間にも神託として布教しようとしたのだが、素材が素材なために廃人を万単位で作りだしてしまい悪神として堕とされた悲しい過去があるが……まあ今はいいだろう。


「ボクも最初はそうしようと思ったんだけど、そうなると判定の度にみんなでダイスを振ることになるだろう? テンポ悪いし良くないなって思ったんだ。ただ固定値だとつまらないから、文明レベルで取得できる『技術ツリー』だったり、土地開拓とかアイテムとかスキルで数値は変動するようになるからさ、考えて遊ぶ方が面白いだろう?」


「やけに真剣に考えてるじゃない、いつもはテストプレイなんてしてないようなもの出してくるのに珍しい」

 その言葉を聞いてむくれたように拗ねるグレンダ、一見子供にしか見えない彼も立派な神の一柱である。


「あんまり言っちゃダメですよ〜スーちゃん、グレちゃんもやる時はやる子なんですから〜。まあ、この前の大喜利ゲーは酷かったかもですけどあれはあれで楽しかったですし~」

 イデアがすかさずフォローに入る、フォローになっているのか微妙なところではあるが単純な『創世神』の機嫌を持ち直させるには十分だったらしい。


「そうだよ! ボクだってたまにはまじめにやるんだた、たまには!はい、次行くよ!」

 そうしてグレンダはダイスをとる、とった六面体ダイスの数は三つ。

「ここの森の目標値は本来は七なんだけど、『宿場町』は二タイル以内の識別判定にプラス一の修正を加えてくれるから、六以上を出せば成功だね……それ!」


 ふわふわと空中を漂ってグレンダの元に来たダイステーブルからダイスを三つ取り、振る。

 これは過去にストラノが「ダイス袋漁るの面倒くさいわね」と言って作ったモノだ、グレンダはこれをダイスボットなんて呼んでいる。


 そうして黒髪の創世神が出した出目は六と六と六、最大値だった。


「わ、最大値ですね〜」

「そうね、目標値は六だったわよね?」

「うん、達成値は十八だから余裕で成功だね、それじゃあこのタイルにユニット置いてる人はいる? あと、ユニットには識別判定の時に使えるスキルとかもあるからよく見てね!」

「俺だな、今出すわ……ええと、これとこれでいいのか?」


 ダイスボットの上には燦然と輝く六六六のダイスの出目、確率にして一パーセントにも満たないはずだが、もはや日常すぎて誰も突っ込まない。

 ソリッドが盤面にコマをふたつ置く。ひとつは木でできたコマで名前は『ウェアウルフ』、特に変哲もないただの狼で特徴と言えば繁殖力が少し高いくらいだろう、テキストにそう書いてある。

 しかしもうひとつはグレンダのコマと違いそのコマは赤色に塗られていて、まだ塗られたばかりの塗料がツヤツヤとした光沢を滲み出していた。


「ええとなになに? 『ブラッディウルフ』、ウェアウルフに混じって産まれることがある特異個体、血を求めて徘徊するその様子から名付けられた。獲物を殺したあとも死体をその場に残し次の獲物を釣る餌として使うことで有名で、もし放置された死体を見つけた場合には注意が必要と言われている。識別判定を受けた際に未行動状態だった場合先制攻撃が可能、この先制攻撃でダメージを受けたユニットは『怯えトークン』をこのユニットのレベルだけ置く。なおこの効果は自身よりレベルが高い相手には無効となる。注釈、怯えトークンに関してはサマリーを参照とのこと……ちょっと待って、なんでこんなのがこんなとこにいるのさ!? ソリッド!!」

 テキストを読み上げたグレンダがソリッドにまくし立てる、赤コマのウインドウに表示されたレベルは四、グレンダの使う『初級冒険者』のレベルより三つも上だった。


「んな事言われたって仕方ねえだろ、初期配置がここだったんだからよ。俺だってこの町のテキスト読んだ後に驚いたっつの……」

 至近距離で叫ばれたソリッドが思わず耳を抑える、ソリッドの言う『宿場町』の概要には次のように書かれていた。


 人族の国家の交通の要衝であり比較的安全な地域、複数の都市の合間に存在するこの町の周囲は安全確保のため厳重に見回りが行われている。東の森には魔獣が生息しているものの特産品の『コンブ茸』が採れることから冒険者がよく立ち入っている、そのため比較的安全な狩場として駆け出しの冒険者には特に人気がある。


「ボクだってこのコマ見た後に驚いたよ! 全然安全じゃないじゃん! むしろこんなに近くにいて気付かないなんて超危険じゃん!」

 うがー、と頭を掻きむしりながら発狂するグレンダ。その様子をイデアが「1D6くらいですかね〜」と呟いきながら慰めるように頭を撫で始め、叫ばれたソリッドは耳を抑えてしかめっ面になっている。

「わかりやすいからって選んだ動きで特殊な事例に当たるなんて、どんな運してるのよ。それで、この場合はどう処理するの? うわ、この怯えトークンとかいうの面倒ね、なりたくないわ…」

 呆れ顔のストラノが手元のサマリーを眺めながらそう呟く、端正な顔を苦々しく歪めてサマリーに書かれた効果を黙読している。

「まあ初期配置なら仕方ない、戦闘のチュートリアルもできるしちょうどいいいね。まずは『ブラッディウルフ』の先制攻撃からかな?」


ダイスボットがふわふわとソリッドの元へと移動する、非常に弛緩した空気の元で初戦闘が始まった。

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