232.

「今日は帰り何時になりそう?」

「七時過ぎくらいかな。バイトは無いけど、ちょっと学校で残って勉強してくる」


 毎日彩織いおりが家を出る時に必ず聞いている帰宅時間。今日も私のほうが早く家に着くみたいだ。


「夜ご飯、なんか食べたいものある?」

「ん、なんでも良いよ。簡単なヤツで」

「なんでもかぁ……」


 こうやって夜ご飯の献立を聞く時はなんでもいいって彩織はよく言う。遠慮なのか、本当になんでも良いのか。料理する側は一番頭を抱えたくなる回答だ。


「本当になんでも良いんだって。ちょっと遅めでも良いなら、帰ってから私が作るし」

「嫌。私が作る」

「もう。最近のれいちゃん、頑固なんだから」


 それだけ言うと彩織はトントンと踵を鳴らし、玄関を開けた。そろそろ家を出ないと電車に駆け込むのが厳しい時間だ。


「行ってきます」

「いってらっしゃい。遅くなりそうなら連絡してよ? 学校まで迎えに行くから」

「分かった!」


 元気よく返事して急ぎ足で駅へと向かって行く。その背が小さくなるまで見送ってから食器の後片付けに戻る。

 基本的に私のほうが彩織より家を出るのが遅い。電車と違って車は自分次第だから、会社に間に合う範囲でゆっくりしていられる。

 とは言いつつも今日はあまり余裕がない。八時までには家を出ないとな……。

 カチカチと動く秒針を気にしつつ、いつも以上にテキパキと朝のルーティーンをこなした。







「おはようございます」

藤代ふじしろさん、おはよう」

「おはよ!」


 事務所に着いたのは朝礼が始まる十五分前だった。間に合っているけど、いつもよりかなり遅い到着時間だ。

 既に改善チームのメンバーは揃っている。パソコンに向かってメール確認をしているようだ。


「藤代さん、おはよぉ」

「おはよ。小野寺おのでらさん」


 ゆらりと歩み寄り、小野寺さんは私の肩に手を置いた。なんだか圧が強い。振り返るのが怖いなぁ……。


「ちょっと。ちょっとこっちに。私とお喋りしよう?」

「いや、もうすぐ始業だって。昼休みにして——」

「すぐ終わるから。ね?」


 結局、笑顔の圧には逆らえず付いて行くことに。

 本当なんなんだろう。ああいう言い方は怖いから止めてほしい。まるで今から私が怒られるみたいじゃないか。小野寺さんに怒られるようなことなんて…………したかも。




「ねえ。昨日さぁ!」

「あー……」


 事務所の外に出るなり、小野寺さんは勢いよく振り返った。

 すっかり今の今まで忘れていたけど、昨日は北山きたやまさんに小野寺さんを押し付けて帰ったんだ、私。それならこの小野寺さんの表情にも納得だ。


「その顔! 絶対忘れてたでしょ!」

「いや、忘れてないよ。……うん、ちゃんと覚えてたよ。当たり前じゃん」

「藤代さん、めっちゃ目泳いでるよ⁉」


 ぐわんぐわんと私の体を揺さぶりながら、小野寺さんは問い詰める。昨日は散々だったと。


「あの後、ご飯作ってもらったんでしょ? 良かったじゃん」

「ご飯は美味しかったよ。北山があんなに料理得意だとは知らなかったし」

「じゃあ尚更良いじゃん」

「私のイメージがね……?」

「そんなこと気にしてたら上達しないでしょー?」


 今度は私がゆさゆさと小野寺さんの肩を揺らす。自分の体裁とか威厳とか。そういうのを気にしてたら何も出来ないと思うんだよ、私は。


「だってぇ……」

「だって、じゃなくて。これからも教われば良いじゃん。家も近いんでしょ?」

「うん。歩いて行ける距離……」

「毎日教わりに行ったら?」

「北山にもそれ言われた。毎日来いって……」


 一体何が不満なのか、小野寺さんは頬を膨らませたまま俯いている。駄々を捏ねる子供のようで少し可愛い。


「何がなの?」

「嫌っていうか……」


 小野寺さんにしては珍しく、言葉を濁す。もごもごと口を動かしているが、何一つとして明確な理由は言わない。


「それを教えてくれないと、どうにもならないんだけど」


 私が困ったように言うと、小野寺さんは意を決したような表情を浮かべた。何度か深呼吸を繰り返し、私の耳元に唇を寄せる。


「…………恥ずかしいの。年下に、しかも、幼馴染に教わるのが。馬鹿にされるの嫌じゃんか」


 蚊が鳴くような声で小野寺さんはそう言った。


「大丈夫だよ。馬鹿になんかしない、北山さんは」

「だって昨日もこんなことも出来ないの? って……」

「揶揄ってるだけだよ、きっと。それより小野寺さんの食生活をなんとかしないとって思ってるはずだよ」

「そうかなぁ……」


 自信なさげに小野寺さんは言うが私には分かっている。昨日の北山さんは真剣に心配している顔をしていた。それこそ会社であまり見ないほどの真剣さで。

 だから、ほら——


「小野寺先輩!」

「え、なに……? どうしたの、北山」


 急ぎ足でやってきた北山さんは肩を上下し、息を整えている。会社の中は走っちゃいけないんだけど…………まあ、目を瞑ろう。


「はぁ……はぁ……疲れた……。今日は家を出るのが遅くなっちゃってギリギリだ……」

「早く第二棟行きなよ。朝礼始まるよ?」


 さっきまでの弱りきった小野寺さんは何処に。小野寺さんは先輩らしく毅然とした態度で話している。


「いや、これ。第二棟行く前に渡しておこうと、思って」


 北山さんのバッグから出てきたのは小さなランチバッグ。北山さんがいつも使っているものと色違いだ。


「今日のお昼に良かったら。って、言っても昨日の残り物とか詰めただけなんですけど」

「え、私に……?」


 小野寺さんは戸惑いながらも恐る恐る受け取る。困惑した表情のまま私と北山さんに交互に視線を送る。


「どうせ今日も社食かなって思って。ちゃんと自炊出来るようになるまで教えますから、私が」

「……本気で言ってる?」

「一人分作るのも二人分作るのも、そんなに変わりませんし。私も練習になるから良いですよ。小野寺さんが嫌じゃなければ、ですけど」


 すぐには返事が出来ず、ぐるぐると逡巡していたようだったが北山さんのトドメの一言で小野寺さんは頷くことになった。


「料理出来ないって実家にバラされたくなかったら、ちゃんとうちで勉強してください」

「…………はい」


 ほとんど脅しのような言葉だったけれど、北山さんなりに小野寺さんが素直に頷けるように気を遣った結果だろう。……言われた本人からしたら、気が気じゃないだろうけど。

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