208.

 帰り道の車の中、ふと横を見ると彩織いおりが舟をこいでいた。一日はしゃいで疲れてしまったのだろう。


「寝てて良いよ。着いたら起こすから」

「悪いよ。長い時間ずっと運転してもらってるのに」


 そうは言うものの、目がトロンとしている。きっと県境けんざかいを過ぎる前に寝てしまうな、これは。




「…………」

「……すぅ……すぅ……」


 会話はなくなり、隣からは寝息が聞こえる。ギリギリまで頑張っていたけど、眠気には勝てなかったようだ。

 ここから三十分とかからないくらいかな、私たちのアパートまで。国道を真っ直ぐ行くだけだから迷うこともない——









「彩織、着いたよ。起きて」


 アパートに着いた頃にはとっくに日が落ちてしまっていた。県を跨いですぐのところで渋滞に巻き込まれるとは……。


「彩織?」

「……すぅ……すぅ……」


 さっきから声をかけているものの、起きる気配はない。もちろん寝息だけで返事も返ってこない。


「仕方ないな……」


 鞄を肩にかけ直し、両手で彩織の身体を持ち上げた。力が入ってない分、重さを感じるが持ち上がらないというほどじゃない。むしろこの身長にしては軽すぎるくらいだ。



 ガチャリ。

 右手で彩織の足を支えつつも、なんとか鍵を開けた。後はベッドに寝かせれば……よし。


「……すぅ……」


 なんとか起こさずに部屋まで運べた。車の中に置いて来てしまった荷物を回収してくるか……。



 カンカンカンと小気味良いリズムで階段を下りた。一日外で遊んで疲れているはずだけど、何故だか体が軽い。

 ポケットに仕舞っていた車の鍵を——


「よお」

「……ッ!」


 唐突にかけられた声。


「な……んで……?」


 バクバクと悲鳴を上げる心臓。震える右手。いつの間にか呼吸をすることさえ忘れていたみたいだ。


「久しぶり。元気だったか?」


 人の気も知らないで、目の前の男はヘラヘラと笑っている。少し、お酒の匂いもするな。飲みに行った帰り、とか?

 ……いや。いい。そんなことはどうでもいい。

 どうしてここにいるのか。どうして今さら声をかけてきたのか。そっちのほうが重要だ。


「……何の用? 夏軌なつき

「なんて目してんだ。久しぶりの再会なんだからもっと喜べよ」

「喜べるわけ、ないじゃん。急に会いに来るなんて悪い予感しかしない」

「そう言わずに。積もる話もあるだろう?」


 ここまでバッサリと言っても夏軌の表情は変わらない。変わらず薄い笑みを浮かべている。……本当に、何の用なの。


「そういうのいらないから。用件を話して」

「冷めてんなぁ、相変わらず。愛想の欠片もない」

「用がないなら帰る」


 くるりと背を向けて、階段に向かって歩きだす。荷物は後で良い。夏軌が去った後にでも取りに行けば良い。


「あー、待て待て。悪かった。ちゃんと大事な用があって来てんだ。話を聞いてくれ」

「……手短に話して」


 肩に触れた手を払いながら、ゆるりと振り向いた。どうせロクな話じゃない。聞くだけ無駄だって分かってる。けど……。


「単刀直入に言うとだな、家に帰ってこい。来週末にでも」

「嫌」


 ほらね、ロクな話じゃない。


「別に実家で暮らせとは言ってない。ただ一度、顔を出せってだけだ」

「嫌」

「一時間……いや、三十分でも良い。な? ちょっとで良いから顔を出してくれよ」

「無理」


 今まで一度もそういう話はしてこなかったのに、どうして急に……。


「頼む。十分でも良い。ほんの少しで良いんだ。頼むよ」


 さっきまでのヘラヘラとした笑いは微塵もない。私よりも年上で、私よりも背が高いお兄ちゃんが頭を下げている。他でもない私に。


「嫌だって。どうして急にそんな話を持って来たの。家を出る時、この家とは今後一切関わらないって言ったよね、私。その時、夏軌もそれで良いって言った。なのに、どうして?」

「あの時は、な。だけど今は状況が違う。どうしても家に来て欲しい」

「だから、それはなんで——」

「親父が病気なんだ。来月の頭には入院する」

「…………は?」


 何、それ。どうしてそれを私に……?


「胃ガンなんだってよ。まだ初期段階だから治療すりゃ助かるって先生からは言われてる。だけど親父、すっかり弱気になっちまってよ。これじゃあ治るものも治らねぇよ」

「……それ、私が行ってなんの意味があるの?」


 お父さんが病気になってしまったのは驚いたけど、私が会いに行く意味が分からない。余計に体調が悪化しそうな気さえする。


「会いたがってんだって、親父が」

「嘘でしょ。そんなはずはないよ」

「あの時のことは親父だって後悔してる。お袋を失ったショックで正気じゃなかったんだ」

「ない。今さら顔を出したところでまた殴られるだけだよ」


 今さらそんなことを言われても。

 十八歳で高校を卒業して、家を出て、ずっと一人で生きてきたんだ。今さらそんなことを言われても私の心には響かない。


「そう言うな。何かあったら絶対俺が守る。だから顔を出してくれよ」

「…………」


 それを言われると弱い。昔からお父さんと揉めた時に間に入ってくれていたのはお兄ちゃんだから。私に殴りかかってきたお父さんを幾度となく止めてくれたのもお兄ちゃんだ。


「…………来週末って土曜日と日曜日、どっち?」

「どっちでも。れいの予定に合わせるさ。……来てくれるか?」

「一瞬だけ顔を出したら帰る。それでも良い?」

「良いさ。十分だ」


 そう言って笑うお兄ちゃんは昔と何も変わらない、あの頃のままだ。


「今日はどうする? 飯でも行くか?」


 行かない。と、言いかけた瞬間、部屋の扉が開いた音が聞こえた。続けて足音も聞こえるし、このままここに降りてくるだろう。

 彩織とお兄ちゃんが鉢合わせるのは避けたい。早くここを立ち去らないと。


「行かない。家で食べるから」

「なら、俺も——」

「駄目。待ってる人がいるから」


 端的に告げて、背を向ける。さっきとは違い、引き留められることはない。お兄ちゃんの右腕はだらりとぶら下がったままだ。


「じゃあ、また来週。土曜日か日曜日か決めたら連絡するから」

「……ああ」



 早足でアパートの階段まで戻ると眠たそうに目を擦る彩織が居た。


「あ、羚ちゃん。ごめん、寝てた……」

「良いよ。さ、部屋に戻ろう?」

「うん」


 このままベッドに行けば、またすぐに彩織は夢の中だ。そうなってから車に荷物を取りに行こう——

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