167.

「そ、それって……!」

「同棲じゃん!」


 彩織いおりが返事するより早く、相川さんが声を張り上げた。


「ルームシェア!」

「いーや、違う。それ絶対、同棲——」

「もう。相川さんには聞いてない。私は彩織に聞いてるの!」


 もう一度大きな声を上げようとした相川さんを制し、彩織に向き直る。どうかな……?


「それ、着いて行って……良いの?」

「部屋が二つもあるんだよ。一人じゃ広すぎる」

「邪魔にならない……?」

「ならないよ。あ、もちろん家事は分担制ね。私、掃除やるから。料理は彩織が担当したほうが捗りそうだね」

「本当に? 本当に大丈夫?」

「大丈夫だってば。何をそんなに気にしてるの?」

「だって……」


 不安そうに。だけど縋るように。彩織はその矛盾の狭間をさまよいながらも手を伸ばした。

 私はその手を——



「大丈夫。一緒にいて。私がそうして欲しいって思ってるの」



 離さない。これから先、どんなことがあろうとも。私はこの手を握り続ける。



「……行きたい」

「うん」

「私も、れいちゃんに付いていきたいよ……!」

「もちろん」


 がばりと私に抱き着き、顔を埋めた。少し湿っぽい。今日は大雨だな……いや、大洪水と言っても良い。




「…………」


 彩織を抱き留めながら、相川さんに視線を向ける。手を握ったり、話したり。何か言いたそうにしている。


「なに? 言いたいことがあるなら言って」

「こんなタイミングで申し訳ないんだけどさぁ……その……」

「分かってるよ。彩織のお母さんには……ちゃんと話す」

藤代ふじしろさんが? 一人で乗り込むの?」

「乗り込むって……喧嘩じゃないんだから。三人でちゃんと話すよ。どれだけムカついても彩織のお母さんは一人しかいない。あの人しかいないんだから」

「そう、だね……」


 私がなりたいのは彩織の家族だ。だけどお母さんの席には座れない。座っちゃいけないんだ。

 どんなに彩織に暴力を振るおうとも、きっと心の中では娘を大事に思っている。そうであると信じたい。


「引っ越しは八月だよね。早めに話さないとね。学校にも連絡欲しいなぁ」

「住所変わるなら届いるよね、確か」

「いるいる。そういうのをしっかり出しておくの大事だから」

「分かった」


 テーブルの上のメモ帳……には手が届かないから頭の中に書き留めておく。

 お母さんの説得、学校への書類提出、引っ越し手続き。やらなきゃいけないことは山ほどある。それこそ、猫の手を借りたいくらいに。

 だけど、ここにあるのは二人分の手だ。私たちでなんとかしないといけない。他人の手は借りられない。


「藤代さんの会社も忘れずにね。あるでしょ、住所変更届」

「あ、そうか。私も出さないといけないんだ」


 相川さんに言われてようやく気付いた。意外と余裕ないのかも、今の私。



「羚ちゃん……」

「落ち着いた?」

「……うん。ありがとう」


 胸元からくぐもった声が聞こえ、視線を落とす。まだ涙は止まらないけど、強引にそれを拭っている。……強い子だ。


「明日、お母さんに話してみる」

「私も一緒に行く」

「駄目。羚ちゃんまで殴られたら嫌だから」


 きっぱりと言い放ち、立ち上がろうとする。このまま、帰るつもり……?


「それ、私もだから。彩織がこれ以上傷つくのは嫌。同じ気持ちなんだから、私の気持ちも分かるでしょ?」

「分かるけど……。でも、これは私の家の問題だから」

「だとしても。お母さんも心配でしょ、知らない大人の人と一緒に住むって言ったら」

「心配なんか……しないよ、きっと。だから、挨拶なんかいらないよ」


 やっぱりお母さんのことを語る時は、どこか諦めたかのような表情を浮かべる。

 だけどそれは完全な諦めじゃない。信じたいんだ、心の奥底では。お母さんに愛されていたいんだ。


「駄目だよ。ちゃんとお母さんに挨拶するから、私」

「でも、危ないよ。何をするか分かんないし……」

「平気。殴られるのは……慣れてるよ」


 彩織はどんな気持ちでそれを聞いたのか。ひどく傷ついた表情で私を見ている。相川さんは……目を瞑って、何か考え込んでいるようだ。


「私のことは良いんだよ。今は彩織のことを考えたい」

「本当に私のお母さんと話すの……?」

「もちろん。彩織、明日は学校どうする?」

「え、学校……?」


 風邪を引いていなくても本調子ではないだろう。この家に来てからずっと腕を押さえているし、痛むんだと思う。さっきはお腹しか確認しなかったけど、他にも痕があるはずだ。

 それに、見せたくないだろう。痛みに苦しんでいる姿を学校の友達に。


「あんまり行きたくないなぁ……。まだ動くと痛いし。でも行かないといけないよね……」

「休んでも良いんじゃない、かな? 無理しなくても……。どう? 相川先生」

「ん! 休んじゃえ!」


 とても先生とは思えない発言とこの独特なノリ。流石、相川さんだな……。


「毎日学校に行くのはとてもすごいことだけど、無理してまですることじゃないかなって思ってるよ、私は。しんどいなら立ち止まれば良い。しんどくなくなったらまた歩き始めたら良いんだよ」

「……はい。ありがとうございます、先生」


 その言葉には私では言い表せないほどの説得力があり、するりと飲み込めた。先生らしい、良い言葉だ。



「って、誰かに言われたことがある。結構、昔に」

「締まらないなぁ……」

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