166.

「どういう関係って……お隣さんだよ?」

「お隣さんの距離じゃないでしょ、それ」


 慌てて彩織いおりから離れ、なんでもない顔をする。私はなにもしてませんけど、何か?


「ハグぐらいするでしょ、仲良かったら」

「えぇ……。それ、藤代ふじしろさんが言う?」

「言う」


 これ以上、何も言う気がない私を見て相川さんは大きく息を吐いた。


「……まあ、良いけど。彩織さんはこのお姉さんと仲が良かったんだね」

「はい。よくお世話になっています」

「そっかぁ……」


 なかなか上手い言い回しだ。相川さんもその含みのある言い分には何も言えず、口を閉じた。


「先生こそ。なんでここに?」

「ん? 藤代さんと久しぶりに会ったから喋ろうと思って」

「二人は知り合い……ですか?」

「高校の同級生。三年間ずっとクラスが一緒だったんだよー」


 三年間。そのワードが相川さんの口から出た瞬間、彩織の眉がピクリと動いた。

 少しだけ頬を膨らませ、ポツリと呟く。


「…………いいなぁ」


 先生が心底羨ましい。妬ましいほどに。それが私たちに伝わってしまうくらい、表情に出てしまっていた。


「へえ……」

「なに、その顔」

「別にぃ。そういうところも変わってないなーって思っただけー」

「なに言ってんの?」


 にやけ顔でまた要領を得ないことを言う。よく分からないな、相川さんのことは。高校の時もこんな感じたったっけ?


「まあ、二人のことは置いといて」

「……誰にも言わない?」

「言わないよ。だって私だよ? 言うと思う?」

「…………職員会議とかで言わない?」

「だから言わないって。信用して? そろそろ」


 このまま突っかかってたら話が進まない、か。ここまで彩織に親身になってくれているし、下手なことは言わないだろう。相川さんは……信頼出来る人だ。


「これからどうする?」

「どうしようか……」


 結局のところ何も対策が思いついていない。警察に言うにしろ、児相じそうに言うにしろ。彩織はここにいられなくなるかもしれないな……。


「彩織さんはどうしたい?」

「私は……このままで良い、です」

「痛い思いをしているのに?」

「いくら暴力を受けていても……私はお母さんのこと、嫌いじゃないので」


 前々から気付いていた。家の話をする時、辛そうにしているけど、彩織は決してお母さんのことを嫌いだとは言わない。

 どれだけ理不尽な暴力を受けようが心の底では信じているんだ、お母さんのことを。


「そうは言っても……このまま傷が増えていくのは先生見過ごせないな」

「今日は学校を休んでいてお母さんと顔を合わせているけど、普段は活動時間が違うので平気です。土日も出かけて滅多に家にいませんし」


 力のない笑みを浮かべ、彩織は諦めの胸中を語った。


「高校卒業したらどうするかって決めてる?」

「……就職するよ。まだ具体的には決まってないけど。就職してこの家を出る」


 彩織からは予想通りの返事が返ってきた。就職すると聞いたあの日から、卒業後はここを出て行くんじゃないかってずっと思っていたんだ。だからさほど驚きはしない。


「そうは言ってもねぇ……卒業までまだ半年以上あるし。家を出るまでの間、また同じようなことが起きないと言えないし……。藤代さんはどう思う?」

「私は……」


 実は頭に一つだけ思い浮かんでいることがある。実現性は乏しいし、何より彩織が、彩織のお母さんがなんて言うか分からない。だけど……言わなければいつまでも実現しない。


「……私も、ここを出ようかと思ってるんだ」

「え……いつ……?」

「夏くらいに。ここより会社に近くて、部屋数も多いところが良いなって思ってる」


 何を言い出すんだと言わんばかりの顔で相川さんはこちらを見ている。彩織は……脈絡の無さより、私がここを出て行くことに関心が向いているようだ。


「そう、なんだ……。全然知らなかったな。いつから考えてたの?」

「つい最近だよ。本当に……ここ数日の間」


 彩織と出会う前の私は引っ越しなんて考えたことがなかった。住めるうちは同じ場所に住んでいたい。その程度にしか思っていなかったから。

 だけど今は明確にやりたいことがある。そのためにはこの部屋では手狭だ。


「夏って……七月? 八月? 会社の近くって……このアパートからどれくらい離れるの?」


 今にも泣きそうな顔で彩織は私を問い詰める。

 こんな話をされるなんて思ってなかった。彩織の目がそう訴えている。出て行かないで、と強く私に語りかけている。


「八月の夏季休暇の間に引っ越そうと思ってるよ。会社が休みじゃないとなかなかまとまった時間が取れないからね」

「八月……。あと一ヶ月とちょっとしかない……」


 指折り数え、とうとう彩織の目には涙が浮かぶ。ぽろぽろと涙が頬を伝う。


「ちょっと藤代さん。一体なんの話を——」


 つい数時間前の相川さんと同じように人差し指で唇に触れた。すぐにそれを察した相川さんは憮然とした表情で食い下がる。


「私が引っ越す部屋はね、ダイニングキッチンと洋室が二つ。築年数もここより浅いんだよ。十年経ってないんだって」

「…………そうなんだ」

「それと、これが一番決め手だったんだけど。私が目を付けてる物件は……二人暮らし可なんだって」

「…………え?」


 ようやく言いたいことが伝わったようで涙を拭う手をピタリと止めた。


「だからね。一緒に住まない? ルームシェアって言うのかな。彩織となら出来ると思うんだけど、どうかな?」

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