105.

「あ。ヤバ。若葉わかばちゃん、着いたっぽい」


 双葉ふたばさんはスマホの通知を確認するとそう呟いた。そういえば今日は双葉さんは車で来てなかったな。行きも帰りも若葉ちゃんが車を出してくれるらしい。

 店内の時計に目をやると時刻は十五時半。些か長居しすぎたかもしれない。


「そろそろ出ようか?」

「だね。伝票……?」


 双葉さんの視線は机の上を行ったり来たり。探し物が見当たらないようだ。


「もう払ったから大丈夫。レジは素通りで良いよ」

「えっ! いつの間に?」

「さっきお手洗いに立ったついでに」


 ……何時いつぞやの楓さんのようにスマートに支払えただろうか。

 気になってちらりと視線を向けたが双葉さんも彩織いおりも目を丸くしている。気づかれてなかったみたいだ。良かった。


藤代ふじしろさん、いくらだった? 半分出すよ」


 双葉さんが言っている半分というのは、きっと彩織の分も含めてという意味だろう。


「良いよ。先輩の奢り」

「この前の居酒屋も結局出してもらったし、今日は払うよ。というか、本当は私が全部出すつもりだったんだけど……」


 一向に金額を言わない私にしびれを切らして双葉さんは財布を取り出した。二枚のお札を手に取り、私に押し付けようとする。


「いらない、いらない。そんな高くなかったし」

「ずっと奢ってもらってばかりで申し訳なさすぎるからー!」

「じゃあ今度飲みに行く時は双葉さんの奢りね。それで良い?」

「それなら……まあ、良いけど」

「ちょっと行ってみたいお店があるからついて来て欲しい」

「分かった。その時は私が出すからね! 全額!」


 双葉さんを宥めつつ、お店の外に出た。

 駐車場はいている。昼前に来た時とは大違いだ。これなら一目で私たちの車を見つけられる。


「双葉さん、若葉ちゃんいた?」

「いるいる。あの赤い車」


 ちょうど私の車の隣に赤い軽自動車が止まっている。そうか、あれが……。

 私たちの視線に気づいたのか、ゆっくりと運転席の扉が開く。



「こんにちは。千秋ちあき先輩を迎えに来ました」

「若葉ちゃん、ありがとー!」


 礼儀正しく挨拶をしてくれた、この子こそが若葉ちゃんだ。私たち三人は各々が若葉ちゃんを知っている。


「藤代さん……ですよね? 先日は千秋先輩がご迷惑をお掛けしました」

「え。……ああ、全然。大丈夫だよ」


 急に話しかけられて声が裏返ってしまった。隣にいる彩織も恐る恐る若葉ちゃんに視線を向けている。


「今日は……変わった組み合わせですね?」


 私と彩織、そして双葉さんをぐるりと見渡し、若葉ちゃんは不思議そうな顔で私たちに問いかけた。


「千秋先輩に藤代さん……神田さんだったっけ? 確か私の一個下の学年だったよね?」

「はい。……意外でした。全然喋ったことないのに、私のこと分かるんですか?」

「下の名前までは分からないけど、苗字と顔くらいはね。一年生の時に体育委員会やってたのを見たから覚えてるよ」

「光栄です……?」


 彩織が動揺しているのが手に取るように分かる。私の服を掴む手に力が入っているから。


「ちょっと若葉ちゃん。後輩が怯えてるよー?」

「え、ごめんね。怖かった……?」

「その質問が怖いって。ごめんねー、彩織ちゃん。怖がらせちゃって。怖い先輩がいると空気が凍るし、嫌だねー」

「どの口が言うんですか、どの口が。ほとんど初対面の時に私に睨みを利かせてきたことはまだ忘れてませんよ?」

「えー、何それ。私覚えてなーい」


 双葉さんはけらけら笑いながら若葉ちゃんを揶揄っている。

 ……こんな感じなんだ、二人は。双葉さんが何か言って、若葉ちゃんがツッコむ。傍から見ていて微笑ましい。




「……青井先輩ってこんなに喋る人だったんだ」


 似たような事を考えていたらしい、彩織がポツリと漏らした。


「高校の時は違ったの?」

「うん。私が知ってる分にはあんまり喋らない……寡黙な先輩ってイメージだった」


 彩織は目を細めてじゃれ合う二人を見ている。





「あー、ごめん。置いてけぼりで。どうする? そろそろ解散する?」

「もう四時か……。そうしよう、明日も会社だし」


 明日も会社。それを言った瞬間に双葉さんと青井さんの表情が曇った。


「嫌だ―、働きたくないー」

「明日も残業……はぁ……」


 落ち込む社会人二人を見て彩織は不思議そうな顔をした。


「会社に行くの嫌なんですか?」

「嫌! 出来れば働きたくない!」

「会社は嫌じゃないけど、残業が多いのはちょっと……」


 双葉さんの言い分は置いておいて、若葉ちゃんの残業が嫌なのは分かる。すごく分かる。

 最近は定時帰りばかりだけど、裏板ラインで生産をしていた時はほぼ毎日残業だった。繁忙期は夜十時過ぎまで残業したこともある。

 給料は増えるけど、あんなに長時間の残業は勘弁願いたい。


「羚ちゃんは? 羚ちゃんも会社、嫌?」

「私は……最近は別に。異動してから残業も減ったし、人間関係も悪くないし。あんまり仕事に不満は無い、かも……」


 自分で言って気づいた。異動先が改善チームで良かった。今の仕事は私に合っているって。

 実践研究とか報告とか。難しい内容だってあるけれど、まだ一度も無理だって思ったことは無い。野中さんも双葉さんも藤代さんなら大丈夫だって言ってくれるから。

 そっか私、恵まれてるんだ……。



「どうしたの? 藤代さん」


 考え事をしていてすっかり固まってしまった私に双葉さんが話しかけてくれた。


「何でもない。次の安全実践も品証と合同だったよね。またよろしくね」

「もちろん。こちらこそ!」


 品質実践が終わり、次は安全実践が始まる。

 まだまだ知らないことだらけだけど、これからだ。これから教えてもらって、頑張れば良い。



 私は身が引き締まる思いで双葉さんたちと別れた。

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