90.
シないと駄目ですか。
それを聞いた瞬間、
私だって気まずい。だけど、ご飯を食べさせてもらったお礼をしないといけないのなら……仕方がないことだと思った。
「…………昨日と同じことだったら……全然、大丈夫。……ちゃんと、出来ます」
口から出るのはそんなはしたない言葉ばかりで。楓さんの顔もまともに見られないくらい今の私は卑しい。
だけど、それをシないと本当にもう——
「……シなくて良いよ」
「え?」
「昨日の夜ご飯も今日の昼ご飯も、
だんだん言い辛くなってしまったのか、最後はほとんど聞き取れなかった。
「とにかく! そういうのじゃないから。別に見返りが欲しいわけじゃないの。ただ羚が好きで抱いただけ!」
そこまではっきり言われてしまうと、いっそ清々しい。
「本当に……? 本当に私のことが好き、なの……?」
「好き。好きだよ。どうしたら信じてくれる?」
「どうしたらって……そんなの分からない、です。自分の気持ちだって分からない。楓さんのことは嫌いじゃないけど……好きなのかどうか分かりません」
それが私の正直な気持ちだった。
好きって気持ちが分からない。嫌いじゃないのは間違いないんだけど。
「じゃあこの先に期待だね」
「先……?」
「落としてあげる。完璧に、徹底的に、完膚無きまでに落とす。覚悟してなよ」
思わず息を呑んだ。
鼻と鼻がぶつかるほどの近い距離でそれを囁かれるのは心臓に悪い。しかも見たことないくらいの真剣な顔で。
そんなこと言われたら……冗談って笑えないじゃないか。
「…………落ちた?」
「……そんなすぐに、落ちるわけないじゃないですか」
そりゃそうだ。楓さんはくすりと笑うと再びキッチンへと戻って行った。
「…………」
本当に楓さんがよく分からない。なんで私のことが好きなのか、全く理解出来ない。私と一緒にいたって面白くないだろうに。
そもそも恋愛ってこんなに出会ってすぐ好きになるものなの? 恋愛経験がないから何とも言えないけど……。
「羚。ちょっと手伝ってくれない? こっちでピラフ作るから、スープ見といて」
「はーい」
難しいことを考えるのは止めた。何も考えずに楓さんの隣に立ち、ポトフを温める。
そういえば一人暮らしを始めた最初の頃はよく作ってたっけ。じゃがいもとニンジンとウインナーが入ったシンプルなポトフ。
楓さんのポトフは食材の種類が多くて私が作ってたのより豪華だなー……。
「ん? どした?」
「いや……具だくさんで美味しそうだなって。何が入ってるんですか?」
「んー……キャベツ、ニンジン、じゃがいも、玉ねぎ、ウインナー。あ、あとブロッコリーとカリフラワー」
「そんなに……?」
「正直、いつもはスープだけで済ませちゃう。かなりボリューミーだからね」
昨日のビーフシチューも美味しかったし、楓さんは料理上手なんだろう。同じポトフでも私が作るものより美味しそうだ。
「もうちょっとでピラフ出来るから待ってね」
「ポトフはもう良い感じなんですけど、どうしましょうか」
「食器、そこの使ってよそってくれる?」
楓さんは食器棚の真ん中の段にある器を指差した。
「苦手なものとか入ってない? 大丈夫そう?」
「はい。全部食べられます」
「へえ。偉いね」
そう言って私の頭を撫でた。なんだか子供扱いされてる気がする。もう私は十八歳。働いているし、大人の一員のはずだ。
「どうしたの、頬っぺた膨らませて。可愛いー」
怒った顔をしてみたものの楓さんには逆効果だったみたいだ。
「これ、テーブルまで運んでくれる?ピラフも出来たから一緒に」
「はい」
昨日と同じ革のソファーに腰を下ろした。
目の前には食器もスプーンも二人分。お揃いの食器が仲良く並んでいる。
……ふと気づいた。
楓さんが持っている食器やグラスは全てペアセットだ。
「楓さん。ここって他に誰か住んでる?」
「え。どうしたの、急に」
「だってこれ、ペアセットだし……」
「ああ、これ?……友達とか来ることが多いから。何かと必要なんだよ、食器もグラスも」
「……そう、ですか」
料理も出来て、優しくて、友達も多くて。私とはまるで違う。
……なんで私のことが好きなんだろう、この人。
「……なんで私のこと好きなんですか?」
「え、もう落ちた?」
「違います。気になったから。昨日初めて会ったのに、どうして好きって分かるのかなって……」
「そんなの……」
ああ、やっぱり私とは違う。即答出来ちゃうんだ、楓さんは。
でも、ようやく聞けた。私のどこが好きなのか。ずっと考えていたけど、見当が付かない——
「顔!」
「……は?」
「顔が可愛くて好きだなーって。喋ってみたら中身も可愛かったし。こんなの好きになっちゃう。致し方なし!」
……積み重なっていた良い人のイメージが崩れたかもしれない。良い人なのか、悪い人なのか良く分からないな、楓さんは。
「顔、ね……」
「何? 見た目より心が大事とか言うつもり?」
「いや、可愛いってあんまり言われないから珍しいなって。楓さんは——」
隣に座る楓さんに近付いた。太もも同士が当たって生温かい。
「——この顔が好きなの?」
すぅ。
息を呑む音が聞こえた。もちろん私じゃない。楓さんの息を呑む音。
「それは反則じゃん。顔が好きって言ってんのに、この距離……」
「楓さんが照れてる。可愛いー」
「待って、恥ずかしい。無理」
してやったり、だ。
ずっとやられっぱなしだったから、こうして楓さんが赤面しているところを見ると優越感に浸れる。
「そういう羚だってさ……結構、私のこと好きじゃん」
「そう……なんですか?」
「普通、ほぼ初対面の大人にこんなに心開かないでしょ。こんな近くに来てくれるってことは相当好きだね、私のこと」
してやったり。
今度は楓さんがしたり顔で私を追い詰める。だけど、それは……。
「そうかも。結構、好き……かもしれませんね」
「…………マジ?」
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