85.

「これ。良かったら」


 早速、かえでさんに貰ったバームクーヘンを彩織いおりに勧めた。


「ありがとー。これ、あの店のやつじゃん。駅前の。結構高くない? 良いの?」

「貰い物だから。……昨日の人から」


 楓さんからだと伝えると、彩織のフォークを持つ右手がピタリと止まった。


「……今日も会ったの?」

「家に来てたよ」


 彩織はもう知っているはずだ。楓さんと私が過去にどんな関係だったか。

 それを知っていながら今朝、私に聞いてきた。あの人とはどういう関係なの、と。

 ……彩織は私から聞きたいと思っているんだ。楓さんからではなく、私の口から。

 もう、知らないふりは出来ない。今ここで、ちゃんと全部話さないといけない。

 既に彩織の家庭環境の話は聞いてしまっている。私だけ何も話さないのは……不公平だろう。


「……朝、仕事関係の人って言ったよね」

「うん。ホームページとか作る人、だっけ」

「それは嘘じゃないんだけど。……ごめん。私、まだ彩織に言ってないことがある」


 楓さんのことはこれ以上何も聞けないと思っていたんだろう。彩織は驚き、目を見開いたまま固まってしまっている。


「話すから……聞いてくれる?」

「聞きたい。れいちゃんが話して大丈夫なら……聞きたいよ」


 手元にあった水で喉を潤す。

 きっと、長い話になるだろうから。

 私と楓さん。二人の関係を彩織に理解してもらうためには……四年前のあの日の出来事から話さないといけない。

 そう。四年前の春、私と楓さんが初めて出会ったあの日のことを——。










 高校を卒業したと同時に今の会社に就職した。

 私が通う高校は商業高校だったから。それが普通で無難で。だけど私は周りとは違う、家から逃げるために就職の道を選んだ。

 前向きな理由なんて一つもない。ただの逃避。それでも私にとっては生きるために必要なことだったのだ。


 十八歳の春。家を飛び出し、今のアパートに転がり込んだ。

 初めての一人暮らしに胸が躍ったことは今でも覚えている。

 最初はお金がなくてベッドも買えなかったっけ。

 ベッドもソファーもテーブルも。ないない尽くしの部屋だったけれど、不思議と不自由には感じなかった。

 私の、私だけの家。他の誰もいない空間が安心出来て、居心地が良かったんだ。


 高校生の頃にバイトして貯めたお金は一ヶ月も経たないうちに底を尽きた。

 アパートの家賃、必要最低限の家具家電、日々の生活費。必死に三年間働いて貯めた大金は、全てそれらの支払いに消えてしまった。

 給料日直前、ゼロになった通帳の残高を見た時、悲しいというよりは苛立ちを覚えた。

 家を出て働き始めたのに、結局自分一人じゃ生きていけない。自分の情けなさに腹が立ったんだ。

 給料日になるまでは収入は得られない。副業も禁止だから会社以外でお金を得る術もない。


 カップラーメンも買えず、途方に暮れていたあの日、楓さんが声をかけてきた。




「大丈夫?」

「…………え?」

「何か困っているように見えるけど……。何か私に手伝えること、ある?」


 優しい笑みを浮かべた女の人。歳は……私よりいくつか上。

 コンビニの前で膝を抱えていた私に声をかけるなんて、相当変わっていると思った。

 だって、見るからに厄介な存在だったし、私。コンビニからしたら良い迷惑だっただろう。


「財布を忘れたの?」

「……」


 無言で首を横に振る。


「誰か……待ってるの? 待ち合わせ?」

「……」


 それも、違う。


「じゃあ……どうしたの?」

「……」


 お金がなくて困っている。

 そんなの言えるわけがない。このお姉さんに言ったところでどうにもならない。

 ……ここにいて、ずっとそれを聞かれるのならば早く立ち去ったほうが良い。


「……なんでもないです」


 よろよろと立ち上がり、小さな声で返事をした。

 せっかく声をかけてくれたお姉さんには悪いが、今の私は愛想を振りまく元気すらない。

 これ以上、嫌な気分にさせないためにも足早に立ち去る——


「待って!」

「……ッ!」


 ぐぅ。

 お姉さんに腕を掴まれた瞬間、ずっと我慢してきたそれが鳴ってしまった。今日一日、会社でもずっと我慢してきたのに。

 恥ずかしさのあまり、掴まれていた手を振り払った。


「お腹、空いてるの?」

「……」


 小さい子供に声をかけるように、私の顔を覗き込んで尋ねる。



「ねえ、良かったら……うち、来る?」

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