45.

 れい。私をそう呼ぶ人間は決して多くない。

 会社でその呼び方をする人と会うなんて夢にも思わなかった。


「羚、だよね? 久しぶり。そっか、この会社だったんだ。羚の勤め先」

「……すみません、お話を遮ってしまって。わたくし、改善チームの——」

「そんなのいいよ、気にしないで。私もびっくりしたし。それより、もっとよく顔を見せて?」

「……ッ⁉」


 言うや否や私の顎を右手で持ち上げ、顔を覗き込む。左手は私の頬に添えられ、時折撫でるように動かす。

 変わって、ない。相変わらずこの人は——。


「やっぱり可愛いね、羚は。髪は黒に染め直したんだ。ああ、ピアスの穴も塞がっちゃってるね」

「……止めて、ください。仕事中ですよ」

「仕事が終わった後なら良いんだ?」


 突き放すように肩を押すと、意外にも引き下がってくれた。

 ……ここが応接室で良かった。とても他の人に見せられる光景じゃない。


「なんで、ここに……楓さんがいるんですか」


 営業スマイルを浮かべ、懐から名刺入れを取り出した。


わたくし、日本デザイン工房の三ノ宮さんのみや かえでと申します。どうぞよろしくお願い致します」

「……製造課、改善チームの藤代ふじしろ れいです。よろしくお願い致します」


 名前なんてお互い分かりきっていることだ。でもここは会社。筋は通さなければならない。顔が引きつったが、何とか名刺を交換した。


「……さっそく写真とコメント取りに行きましょうか。ご案内します」

「そんなかしこまらなくても良いのに。それに、せっかく二人きりなんだし、もうちょっとゆっくり話そうよ。まだ紅茶も飲み終えてないしね」

「……紅茶を、飲み終えるまでなら」


 再びソファーに座った楓さんに合わせて、向かいの席に座った。


「……いつ、転職したんですか?」

「今のデザイン会社は今年の四月から。結構やりがいあるし、しばらくは続けるつもり」

「今日ここに来たのは——」

「全くの偶然。先月までは違う人が担当だったんだけど、諸事情で私が引き継いだの。別に羚に会うために来たわけじゃないから。そこは安心してね」

「安心って……」

「ああ、でも……」


 ティーカップをソーサ―に戻し、狡猾こうかつさを隠そうともせずに笑う。


「食べられるなら食べたいと思うよ。ほら、だって私って食欲旺盛だし」

「……そういうの、止めてください。面白くないですよ」

「冗談じゃないよ?」

「……」

「そんなに怖い顔しないでよ。可愛い顔が台無しだよ」

「……誰のせいだと思ってるんですか」

「私のせいだね。ごめんごめん」


 軽薄そうな笑い方も、隙あらば手を出そうとするところも何も変わっていない。四年前に恋人セフレだった頃と何も変わっていない。


「このままここにいると、どんどん羚の眉間に皺が寄っちゃうね。そろそろ行こうか」

「……ご案内します」


 飲み終えたカップはそのままに、応接室の扉を開ける。

 時刻は九時五分。予定では午前中全てを使って写真撮影とコメント取りをすることになっている。

 正直、気が重い。楓さんが隣にいるだけで心臓の音がうるさくなる。


「どこから案内してもらえるの? 私、工場って入るの初めてだから結構楽しみなんだけど!」


 私の緊張など気にもせず、楓さんは楽しそうにはしゃいでいる。

 さっきみたいな狡猾な楓さんは苦手だが、こういう無邪気な楓さんは好きだ。見ていて私も楽しくなるから。

 ……そうだ、ちゃんと仕事しないと。野中さんから任された大切な仕事なんだから。


「まずは事務所から。課長に会って頂いて、そのあと順にラインを回ります。場所によっては結構音がうるさかったりするので気をつけてくださいね」

「オッケー、分かった。課長さんからもコメント貰うんだよね。ああ、写真もか。可愛い女の子の写真が撮りたいなー」

「……課長は男性です」


 そうだよねと、ものすごく残念そうに苦笑いしている。

 楓さんは昔から面食いだ。私に初めて話しかけてきた時だって、顔が可愛いから声をかけたって言っていたくらいだし。


「羚の写真も撮っていい?」

「え、私ですか……私は、写真があまり……好きじゃなくて……。それにホームページに乗せる用ならもっとほかの人のほうが……」

「仕事じゃなくてプライベート用に」


 ほら、と仕事用のカメラではなくスマホを掲げる。

 てっきりホームページ用かと思っていたから驚いた。でも、それなら私も強気で断れる。


「工場内は私的撮影が禁止なので」

「ええー」


 第一棟に向かう途中にある看板を楓さんに指し示す。もちろんそこには赤字で大々的に書かれている、私的撮影禁止と。


「分かった……諦める……」

「ちゃんと生産しているところの写真を撮りましょう? ホームページ用だったらどれだけ撮影してもらっても構わないので」

「会社の中ではそうする……」


 そうこうしているうちに事務所前に着いてしまった。いつもとは違う向かって左手の、お客さん向けの扉を開ける。


「失礼します。デザイン会社の方をお連れしました」

「お世話になります」


 すっかりビジネスモードになった楓さんが深々と頭を下げる。


「どうも、私が課長の谷崎たにざきです。いやぁ、こんな美人さんが来るとは思いませんでした! 楽しくなっちゃいますねぇ」

「はじめまして谷崎さん。そんな、美人だなんて…」

「いえいえ、そんな謙遜なさらず」

「谷崎さんもお若いのに課長なんてすごいですね」

「いやぁ、私など――」


 一気に会話のペースを掴んだ楓さんは軽快に話題を広げていく。流れるように名刺交換も済ませてしまった。

 ……慣れてるな。外部の人とのやり取りも、歳上の人とのやり取りも。


「では、お写真撮りましょうか。どこで撮るのが良いですかね?」

「うーん、せっかくだし事務所の入口で撮るか……? 製造課の看板もあるし」

「良いと思いますよ。製造課の課長さんって一目で分かりますし!」

「じゃあ、そうしようかな!」


 課長と楓さんに続き、事務所の外に出る。


「その位置でお願いしますね」

「分かりました。では、お願いします」

「じゃあまずは一枚……はい、チーズ! もう少しにこやかに、肩の力を抜いてください」

「お、おお。こんな感じか?」

「良いですよー、笑顔が素敵です。でも、もう少しだけ体の力を抜いてもらって……はい、良い感じです。かっこいいです! 何枚か撮れたので確認して頂けますか?」

「どれどれ……おお!」


 課長は楓さんのカメラを覗き込むと、驚いたように声を張り上げた。


「良かったら藤代さんも確認ください」

「見ても良いですか?」

「ああ、見てくれ。いつもより良く写ってる気がするんだ!」


 課長に了承を貰い、楓さんの手元を覗き込む。


「わ……良い笑顔……」


 そこには自然な笑顔を浮かべる課長がいた。


「だよな、藤代さん。俺も良いと思った。いつも写真を撮られる時は顔が強張って人相が悪くなっちゃうんだけど、三ノ宮さんに撮ってもらったのは良い感じだな! これなら娘の友達にも怖いって言われないかも!」

「ふふ。怖いだなんてきっと言われませんよ。良かったらこの写真のデータを後で送りましょうか? 社内で顔写真が必要な時にも使えますよ?」

「そうだなぁ、せっかくだし貰おうかな」

「承知しました。後ほどメールで送らせて頂きます。あ、それとこの中でホームページで使う写真なんですが——」



 写真を撮り終え、コメント取りもスムーズに進んでいく。

 課長は三ノ宮さんが相手だとなんでも話せちゃうな、と絶賛している。初対面とは思えないくらいに楽しそうに課長は笑っていた。


「——では、そのように」

「ホームページが更新されるのが楽しみですよ! ありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました。この後は現場の方を回らせていただきます」

「ええ、どこでも好きに見に行ってください。藤代さん!」

「はい。ご案内します。こちらに」


 にこやかに課長と会釈を交わすのを待ってから事務所の扉を開けた。



「ふー、緊張したぁ」


 一歩、事務所の外に出ればいつもの楓さんが顔を出す。とても緊張していたなんて考えられない。あんなに楽しそうに話していたのに。


「だって、良い笑顔と良い話を引き出すのが私の仕事だからさぁ」

「……顔に出てた?」

「意味分かんねーって顔してた」

「んむぅ……」


 楓さんは両手で私の頬を包み込むようにして撫でた。変な声が出てしまって恥ずかしい……。


「このもちもち感。久々だわぁ……」

「はにゃしてくだしゃい……」

「ちょっとだけ! もうちょっとだけ!」


 ふにふにと伸ばしたり、押し込んだり。まるでおもちゃのように私の頬を弄ぶ。

 縦に。横に。何度か弄ぶと満足したように手を離した。


「懐かしいなぁ、この感触。…………ねえ、羚。もう一回、付き合おうよ」


 呼吸が止まるかと思った。なんで楓さんが、そんなこと言うの。

 四年前のことを忘れたとは言わせない。私がなんて返答するか、楓さんだって分かっているはずだ。



「……無理です。もう、戻れませんよ。あの頃に」

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