38.
知ってるよ。
双葉さんは涼しい顔でそんなことを言う。
そんなはずは、ない。だって私たちは会話らしい会話をしたことがない。せいぜいすれ違って挨拶した程度だ。
その程度でもし私のことを覚えていると言うのなら、それはちょっとおかしい思う。
「……いつから、気づいてたの?」
「最初に大商って聞いたとき、かな。年齢も私より二個上だし、藤代って名前の人そんなにいなかったからすぐ気づいたよ」
「そう……」
「でもさ、それを聞くってことは先輩は私のこと気づいてたんだよね? 言ってくれれば良かったのに……」
「そんなこと、言われたって……双葉さんが私のこと、覚えてるなんて思ってなかったから」
「そう? 藤代先輩のこと忘れたことなんて一度もなかったよ」
一度も、と強く言われると困る。私だけが忘れていたみたいで心苦しい。
「なんで、そんなに——」
「待って。きっと話すと長くなるから、この話はお昼休憩の時にしよう? ほら、今は仕事しないと」
「……分かった」
仕事の話を持ち出されては頷くしかない。あくまで今この時間は勤務時間中だ。確かに、私語はあまりよろしくない。
私たちは早足でネジセットラインに向かった。
「すみません、ちょっとここで改善作業しても良いですか? 色見本を作って来たので取り付けたいのですが……」
双葉さんが検査台で作業していた人に話しかけた。
「ハイ。ダイジョウブ、デス」
検査していたのは海外からの研修生だったらしく、片言な日本語で返事をしてくれた。
「えっと、ホンさん? 他にここで検査してる人っていますか?」
双葉さんは名札を見て、彼女のことをホンさんと呼んだ。
「ワタシダケ、デス」
「分かりました。なら、この色見本はホンさんの高さに合わせますね」
巻尺をズボンのポケットから取り出し、床からホンさんの顔までの高さを測る。
「藤代せ……さん、ここにしようか」
「分かった」
作業台の、色見本を取り付けられそうな場所に色ペンで印をつけた。
この検査台はアルミフレームを組み立てて作られているから、ナットとジョイント、タッピングネジがあれば簡単に取り付け出来そうだ。もちろんそれらは全て工具箱に入っている。
さっそくジョイントをアルミフレームの溝に入れ込み位置を調整する。うん、このへんかな。あとは色見本を……。
色見本を手に取ったところで、はたと気づいた。まだ、穴を空けていないことに。
「ごめん、双葉さん。このジョイント、ちょっと持ってて」
「分かった」
ジョイントを双葉さんに任せ、再び工具箱を漁る。探しているのはインパクトドライバーとドリルビットだ。これで色見本のボードに穴を空ける。
「藤代さん、慣れてるね」
カチャカチャとビットをはめ込んでいると双葉さんは感心したように手元を覗き込んだ。
「現場にいた時からこういう改善はちょくちょくしてたから。工具はそれなりに使い慣れてる、かも」
「すごいなぁ。私は全然だよ」
「商業高校出ただけじゃ、こういう技術は身につかないよね。私はずっと製造課だったから練習する機会があった。それだけだから気にしなくても良いと思う…………出来た」
手早く色見本の上部二か所に穴を空けた。これなら作業台に取り付けられる。
ドリルビットを外し、ネジ止めに使うものに差し替えた。
「私、どうしたら良い?」
「ここを押さえといてほしい」
ジョイントと色見本のボードを双葉さんに任せ、再びインパクトを使ってネジで固定していく。
ネジがこれ以上回らない、限界まで締める。ホンさんが作業している時に外れでもしたら最悪だ。安全があってこその改善だから。
「……出来た」
「うん、良い感じ。これなら外れないし、高さもぴったりだね」
さっそく色見本の説明をするためにホンさんに声をかけた。
検査する時は必ず指示書と現物、そしてこの色見本を見比べて間違いがないか確認すること。合っていれば指示書にレ点チェックすること。
双葉さんがゆっくりと、丁寧に説明していた。ホンさんは必死にメモを取りながら話を聞いている。
これなら任せても大丈夫だと思い、さっき穴を空けた時に汚してしまった床を掃除することにした。ラインにあるモップとちり取りを借りて軽く
「アノ……」
「はい?」
双葉さんから説明を聞き終えたホンさんがおずおずと私に話しかけてきた。
「アリガトウ、ゴザイマシタ」
「…………いえ、どういたしまして」
片言の、不慣れな日本語で感謝の気持ちを伝えてくれた。
彼女にとっては当たり前のこと、だったのかもしれない。自分のために何かをしてくれたらお礼を言う、小学生でも知ってる当たり前のこと。
そんな当たり前の言葉でも私に十分すぎる衝撃を与えた。
思えば会社に入って人のために何かをしたことがなかった。改善はしたことあるけど、それは自分の持ち場だけだったから。
人から感謝されるのは嬉しい。
そんな当たり前の喜びを私は初めて実感した。
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