36.
工場長が退出してからすっかり元の調子を取り戻したらしい
さっきの人は工場長で、一番偉くて、社員全員の名前を憶えている、と。
私や双葉さんのようなまだ入社して数年の若手ですら憶えているのだから、きっと良い工場長なんだろう。
「はぁ……焦った……扉明けたら工場長がいるんだもん……びっくりして寿命減ったよ、多分」
「そんなに緊張するものなの?」
「するよぉ……なんで
「だって偉いって言っても普通の人でしょう? あの人の機嫌を損ねてクビになるわけでもないし」
「そうだけど……」
すっかり疲れてしまったのか、双葉さんは机に突っ伏してしまった。休憩に来たのに余計疲れてしまっているのでは、と思う。
会話がなくなり、テレビの音だけが響く。
双葉さんは突っ伏したまま動かない。いや、動けないのかもしれない。傍から見てる私にも分かるくらい、さっきの双葉さんは肩に力が入っていたから。
疲れて動きたくない。でもコーヒーは飲みたい。時間が経って落ち着いてきたのか、時々顔を上げてずるずると自分で淹れたコーヒーを
「あ。時間だ」
あっという間に十分経ってしまった。
いくら誰も見ていないと言っても決められた休憩時間より多く居座るのは良くない。マグカップを片手に立ち上がる。
「もうかぁ……」
しぶしぶ双葉さんも立ち上がり、テレビと部屋の電気を消して休憩室を後にする。
管理棟を出て、再び第一棟に向かって歩く。
棟外を歩く時は歩行専用通路を必ず通ることがルールになっている。リフトやピッキーがずっと行き来しているから、衝突事故が起きないように設けられた通路だ。
青いペンキで塗りつぶした通路を二人で歩く。
「あ、電話だ……もしもし? 双葉です。はい、お疲れ様です——」
双葉さんは会社携帯を片手に何やら話している。
「——分かりました。今から向かいますね。え? はい、藤代さんも一緒にいます。二人で行けば良いですか? はい、じゃあ今から……はい、失礼します」
携帯をポケットに戻し、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「野中さんが製造課の事務所に来て欲しいって! 藤代さんも一緒に」
「野中さん? 何だろう?」
「品質実践研究のことじゃない? 私に電話かけてくるぐらいだし」
ひとまず行ってみようと、急ぎ足で第一棟に入る。
ステンレスを切断する音、ドライバーでネジ締めを行う音、シャッターが開け閉めされる音。
さっきまで居た管理棟とは違い、騒音で溢れている。慣れてない人からしたらうるさいだけなんだろうけど、静かすぎる管理棟より騒音が飛び交う現場の方がよっぽど良い。私に合っている。
入口から真っ直ぐ歩くとすぐに事務所の入り口が見えてくる。
左右に二か所、扉がある。向かって左側はお客さん用に、右側は従業員用に。双葉さんを先導するようにドアノブを回した。
「お、二人ともお疲れ」
「お疲れ様です」
扉を開けてすぐ目の前に野中さんの席がある。入ってきたのが私たちだと分かるとさっきまで忙しそうにタイピングしていた手を止めた。
「ごめんね、急に呼んで。ちょっとお願いがあって、この後ライン行く用事ある?」
「はい。これから行くつもりです」
「良かった。これ、俺の担当の色見本なんだけど……」
言うや否や、引出しから色見本を取り出した。
普段、部品の色はアルファベットで表記される。例えば黒なら”B”、赤なら”R”というように英語の頭文字が使われている。
慣れていないと”B”と書かれた指示書を見ても黒色だ、とすぐに分からない。
この野中さんが作った色見本はネジの現物の写真とアルファベットの表記、そしてその横に日本語で”黒色”と書かれていた。これならアルファベット表記に慣れていない人でも分かる、
「……見易いですね、これ」
「そう? 藤代さんに言われると安心だな。双葉さんはどう思う?」
「良いと思います。字も大きくて見易いですし」
「じゃあこれでいくか。二人にこれの設置を頼みたいんだけど、良いかな?」
「良いですよ。検査工程に設置すれば良いんですよね?」
「そうそう。作業者の目線に合う場所に設置しておいてほしい。それと、これも……」
野中さんはごそごそと同じ色見本をもう一つ取り出す。
……同じ色見本と思ったけど、よく見ると載っている色の種類が違う。たぶん別のラインのものじゃないかな、これ。
「これをノセに渡してきて欲しい。ほら、先週一緒にラインに行って色見本を設置しようって話になったやつ」
言われるまですっかり忘れていた。そういえばそうだ。色間違いと寸法間違いがあるから何とかしようって話になっていたはずだ。
「巻尺はまだ出来てないけど、色見本は作っといたからノセに言って設置してもらってきて。あいつ、さっき電話したら出なかったから現場で作業してるかもしれんけど、話しかけて大丈夫だから」
「分かりました。渡してきます」
「うん、ごめんね。双葉さんも」
「いえ、勉強になります」
双葉さんは野中さんが作った色見本をまじまじと見ていた。
「それじゃあ、よろしく」
野中さんから受け取った色見本を抱えて、現場に向かう。どちらかと言うとノセさんのラインのほうが近いから、先にそちらに向かおうと思う。
「ノセさん、ちょっとだけ良いですか?」
「ん? ああ、藤代さん。ちょっとこれだけやってから、そっち行くわ」
作業者が休みらしく、ノセさんはラインに入って生産作業をしていた。班長と言えど誰か休んだらフォローしなくちゃいけないから大変だ。
「ごめん、おまたせ」
きりが良いところまで作業を終わらせ、通路へと出てきてくれた。朝からずっと作業していたのだろう、袖周りがマシンオイルで汚れている。
「これ、前に言ってた色見本を野中さんが作ってくれたので設置お願いします」
「ありがとう! 手が空いてからになるけど、絶対設置するわ」
「検査工程の作業者の目線に合う位置に設置してください、とのことです」
「オッケー。ありがとね。っと、そちらは?」
私の後ろにいた双葉さんに気づき、ノセさんは不思議そうな顔をする。
「品質保証課の双葉です。初めまして」
「ああ、品証の……。初めまして、一瀬です。うちのライン、何か問題ありました?」
「いえ、品質実践研究で藤代さんと一緒に改善してて、付いてきただけです」
「そっか、良かった。不具合出たかと思ってヒヤヒヤしたよ……」
「すみません……」
品質保証課と聞いてノセさんの顔が強張ったが、双葉さんの話を聞いてだんだん緩んでいく。
双葉さんは慣れているのか顔には出さないけど、少しだけ声が沈んでいる気がした。
「じゃあ私たちそろそろ……」
「そうだね、色見本ありがとね」
会話もそこそこにノセさんのラインを後にする。
「次はネジセットラインだね。こっちは私たちで設置しないと。藤代さん、六角レンチとかって持ってたりする?」
「持ってない……」
「事務所で借りれる?」
今さら気づいた。設置すると言っても工具も何も持っていない。
さっきまで歩いてきた道を戻ることになってしまった。
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