32.

 昨日とはまるで違う一日だった。


 朝はゆっくりと、ほとんどお昼のような時間に起きた。冷蔵庫には昨日買った卵やウインナーがあったけど、食べる気分になれなくて冷蔵庫を閉じた。

 どこにも出かけないから、と部屋着のまま洋室に戻る。

 ソファーに座り、テレビを付けてみたものの特に見たい番組はない。BGM代わりにつっけぱなしにしておくことにした。

 何もやることがない。やりたいこともない。

 昨日は彩織いおりと一緒に出掛けて、買い物して、珍しく外食もした。一日があっという間に過ぎるくらい濃い一日だった。

 今日は時間が長く感じる。時刻はまだ午前十一時。起きてからかなり時間が経ったつもりだったのに、全然そんなことはなくて。

 彩織に出会う前だっていつも土日はそうだった。

 なのに、この喪失そうしつ感は一体何なんだろう。


 結局その日は無気力に、何もせずに過ごした。





「おはようございます」


 昨日は早く寝たせいか、いつもより早く会社に着いた。事務所の席はまばらに埋まっている。


「藤代さん、おはよう」

「おはようございます」


 珍しく野中さんより先に多井田おいださんが出勤していた。既にパソコンを開いて、何か文字を打ちこんでいるみたいだ。



「うーっす」


 いつも通りの時間になると野中さんと松野さんがやって来た。


「なんだ、多井田早いな」

「やる事がいっぱいあって……。やっぱ、主幹しゅかんって大変っすねぇ……」


 しみじみと多井田さんは言う。今回の品質実践研究は多井田さんが主幹で活動している。聞けば、初めての主幹らしく毎日緊張しっぱなしだそうだ。


「慣れだよ、慣れ。何回かやってれば緊張しなくなる」

「人見知りが大勢の前で声張るのってなかなかキツイっすよ……」

「だから今、何度も練習して克服すんだよ。お前、今期、塾生じゅくせいだろ? それぐらいの気概じゃないとやっていけねぇぞ」

「それは……そうなんですけど」


 塾生というのは何だろう。初めて聞いた。


「……あの、塾生って何ですか?」

「ん? ああ、塾生っていうのは……そうだな、なんて言えばいいかな。うちの会社では品質とか安全とか何でもそうなんだけど、実践研究の進め方を講義で学ぶんだ。基礎コース、上級コースって二種類あって、上級を合格すると指導員になれるの。で、多井田は上級コースを受講中の塾生なんだ」

「それってみんな受講するんですか?」

「みんなってわけではない……かな。受けたいって言った志願者と上司の推薦かな。藤代さんには基礎コースだけは受講してもらおうと思ってるよ」

「え……」

「あ、大丈夫、大丈夫。そんなすぐじゃないから。もう少し改善チームの仕事に慣れてからのつもり」

「そうですか……」


 思わぬところで自分にも関係する話を聞いてしまい、動揺した。講義っていうくらいだから机上きじょうだけなのかな……。

 私より一つ年上の松野さんはもう受講したんだろうか。気になってちらりと視線を向ける。


「ん? 俺? 俺は基礎コースだけ受講済みだよ。上級は受けるか分かんないけど……。そのあたりどうなんすかね、野中さん」

「松野かぁ……。基礎コース終わったばっかだし、もうちょい後のつもりでいたなぁ。受けたかったら来期の推薦出しとくけど」

「いや、まだいいっす。もうちょっと実践研究に参加して慣れてからが良いっすね」

「そうか? まあ、まだ若いし焦らずやっていこうか」

「うっす」


 始業の音楽が鳴り始めた。ぞろぞろとみんな揃って事務所の外へ出て行く。さっきまで暗かった棟内に明かりがき始める。



「おはようございます! えー、今日の連絡事項は——」


 体操が終わり、改善チームの朝礼が始まった。野中さんが手帳を見ながら連絡事項を伝えていく。


「安全に関してなんですが、災害速報が来てます。他工場でカッターを使っていて誤って指を切ったみたいです。左手の人差しを切創せっそう、ですね」


 そう言って、野中さんはあらかじめ用意していた一枚の報告書をみんなに見せた。 


「いつも思いますけど、切創って難しい言い方しますよね」

「そうだな……たまに漢字読めん時あるからな、この災害速報。えーっと、じゃあ藤代さん。この写真見て、この怪我した人の作業は何がまずかったのか分かる?」


 急に話を振られてドキリとした。

 改めてじっくり災害速報を見てみる。写真には右手でカッターを持ち、左手で厚紙を押さえている作業の様子が写っている。


「……刃物の進行先に手がある?」

「おお、正解。藤代さんが言ったようにカッターとかハサミとか何でもそうなんだけど、刃物の進行先に手を置くと勢い余ってざっくり切っちゃうから。基本的には刃先より後ろに手を添えること。あとは……そうだな、写真じゃ分かりにくいけどこの人は多分普通の手袋を使っているから、カッターは必ず耐カット手袋を使うようにお願いします」

「特に今日から品質実践で改善作業が多いと思うから、藤代さんも松野も気をつけてな」

「多井田塾生、良いこと言うじゃん。そうだな。今、多井田が言ったみたいに今週は特にカッターとかハサミを使う機会が多いと思う。じゃあ今日はそれについて指差しさ呼称しようか。多井田、頼む」

「はい。構えて!」


 多井田さんの合図で右手を伸ばし、前に向かって指を指した。


「刃物の進行先に手を置かない、ヨシ!」

「「刃物の進行先に手を置かない、ヨシ!」」

「ゼロ災でいこう、ヨシ!」

「「ゼロ災でいこう、ヨシ!」」


 全員で復唱ふくしょうした。指差呼称は作業をする前に行うことによって安全に対する意識を高める。特に非定常作業で災害が起きにくいから、改善作業の前には指差呼称を行うルールがある。と、入社した時に教えてもらった気がする。


「じゃあ、この後は品質実践研究だから。野中チームは九時に手袋持ってネジセットラインに集合!」

「多井田チームも同じく九時に集合で」


 朝礼が終わり、事務所に一度戻る。確か手袋は書類棚の横の引出しにあったはずだ。


「すみません、手袋一組ください」

「はーい、どうぞ」


 近くに座る消耗品の担当の人に声をかけてから引出しを開ける。前に松野さんが何かを持っていく時は必ず記録を残す、もしくは誰かに言うことって言いてたからちゃんと気をつけている。

 多井田さんが無断でインパクトを持って行って、怒られているのを見てからはなおさら気をつけるようになった。消耗品担当のおばちゃんは怖い。事務所内での共通認識だ。


 さて、そろそろ時間だ。現場に向かおう。

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