第三章 運命の灯火-アリアステラ-

036. その昔、まだ遠き春



 それは、凍えるような夜の寒さに震えた日。


 ニルヴァーナ・フォールンラプス、彼はアラスカ基地の地下、その廊下にいる。


 就寝前にトイレへ行き寝床に向かおうとしていた所、その手紙は彼の足下へ落ちた。


 胸のポケットにしまわれていたその手紙には"嬉しくなる"と明記されていた。道中はパーティをするのかとニルヴァーナは考えていたが、結局目的は分からないまま手紙を宛てた人が待っている部屋のドアの前まで来てしまった。


 グレイスやニンバスだっているのだろう、嬉しくなる出来事など自分の為だけに起きるはずがないのだから。

 彼が扉をノックすると中からドアノブを捻る許可をする声がした。


 取っ手に手をかけ開けるとそこには何十もの兵士たちがいた。

 見た限りだと上官はいない。予想通り隠れて誰かが窃取した酒を皆に渡そうとしているのかと思っていたが、そういう訳でもない雰囲気だ。

 上官がいないだけで特に集まった者達に共通点や接点などはないように見える。


 その部屋にグレイスとニンバスの姿は無かった。


「来たか、ニルヴァーナ」


 あらかじめ備えなれた長方形の机を挟み、ニルヴァーナの真っ正面に黒い椅子が後ろ向きになって置いてある。

その椅子には誰かが座っているようでニルヴァーナの角度からでは顔はまだ見えなかったが、最近聞いた声でもあった。

 キャスター付きの少し高そうな椅子が半回転し座っている者はニルヴァーナの方に体を晒す。


「よお、来てくれて嬉しいよ」


 少し偉そうにふんぞり返りながら座っていたのは、ニルヴァーナの所属する塹壕隊の全体指揮官、カンデラス・マルハリサだった。


「手紙は准尉が?」


「ああ。ちゃんと頭文字のC.Mが書いているだろ?」


 昨夜ゆうべ、グレイスとニンバスを含めて四人で少し談笑していた時、知らず知らずのうちにニルヴァーナの胸ポケットに入れていたのだろう。肩を叩いたのは合図だったのだろうか。

 経緯や過程はこの状況ではどうでもよかった。それを行うに至った意味を知りたいニルヴァーナはカンデラスに質問を浴びせる。


「嬉しいこととは一体なんです?」


 見知った顔もある大勢の人間に囲まれながら、カンデラスに日記の切れ端のようなもので書かれた手紙を見せつけた。

 しっかりと手紙を読んだことに頷いているような素振りを見せるカンデラスはその質問に回答する。


「そう言えばお前には説明していなかったな、ニルヴァーナ。では今から説明しようじゃないか」


 カンデラスは椅子から立ち上がりニルヴァーナの前に立つ。下らない話をする時には上がる口角が今回は上がらない。重大な要件であることは覚悟していた。


「次の戦闘で組まれる右舷塹壕隊は国連軍から離反して、ブレイジスに籍を置くことになったんだ」


「はあ?」


 彼の口から出た言葉は明らかに馬鹿げていた。何を考えているんだとしか言えないこのもどかしさを直ぐにカンデラス本人にぶつけた。


「意味が分からないのですが」


「そのままの意味だよ、俺が次の作戦会議の時にここにいる全員を、尉官ならではの権力で右舷塹壕隊に配置するんだ。離反し、寝返ることはブレイジスにはあらかじめその筋の人間によって伝えてある。あとは行動に移すだけだ!」


「少し待ってください」


 いきなり押し付けられる情報量の多さに耐えきれず待ったをかけるニルヴァーナ。焦りで本質が見えなくなりそうになるもなんとか持ちこたえて話を続ける。


「どういうことなんです?つまり、この場にいる全員でガーディアンズからブレイジスに寝返ると言ってるんですか?」


「最も簡潔に言えばそうなるな」


 嘘だろ、ニルヴァーナがぼそっと呟いたその言葉に今の感情の何もかもが詰まっていた。


「なぜ俺が呼ばれたんでしょう、俺なんて気にせずに貴方達が知らない所でやっていればいいでしょそんなこと」


 ここにいること自体が意味不明となってしまった。カンデラスは困惑し続けるニルヴァーナを落ち着かせる。


「まあまあ慌てるな、俺がしっかりと教えてやろう」











 動揺は収まった。


 彼は国際連合の掲げる世界である、ふたつの種族が歩み寄って築き上げる世界に不信感を募らせたという。

 今まさに戦争が起きているというのに何が平和か、そんな気持ちは次第に膨れ上がりいつしか酒の肴程度の話ではなくなった。


 現状の国連、ガーディアンズに不満を持っていると分かっていた人間を呼び出し寝返りの計画を企てていたそうだ。

 仲間を増やすと次第に作戦は大規模になりツテも増えていく。ブレイジスの人間と連絡が取れるのもそのお陰らしい。


 そして離反するメンバーの中にはニンバスが嫌い、ニルヴァーナ自身も苦手とする自信過剰な男、ヴィクトル・ザドンスキーの姿もあった。


 この話が本当かどうかさえ勘繰っていたニルヴァーナもそれに段々と頷いていた。


「な、悪い話じゃないだろ?」


 彼らの気持ちに理解はしていたが同意はしなかった。椅子に座るニルヴァーナは、腕を自分の体の前でメトロノームのように振り否定する。


「俺がガーディアンズを恨む理由も国連を裏切る理由もないですよ」


 少し顎を引き悲しそうな顔をするカンデラス。それを見つつもニルヴァーナはヴィクトルに何故ここにいるかを聞いた。


「ねえヴィクトル、君もこの部屋にいるということはガーディアンズを、グレイスやニンバスを裏切るということなんでしょ?」


「フッ、今更何を言うか! 私は私が輝ける最高の世界にする為に今は、今だけはブレイジスにつこうとしているだけだ。時がくれば私が最高の世界の頂点に君臨していることだろう」


 彼の相変わらずな精神にニルヴァーナも参ったような素振りを見せてしまう。

 自分と生き方も性格も違い、参考にならない彼を置いてカンデラスはニルヴァーナに語りかける。


「寝返る理由なんて人それぞれだ、俺もヴィクトルと同じようなものだ」


「では准尉はなぜ?」


 よくぞ聞いてくれましたと言いたげなにんまりとしたカンデラスの笑顔を浮かべる。それは少し悪意も込められているようだ。


「俺は弱者で、恐怖心を抱えているからだ」


「え?」


 困惑した声を漏らすとカンデラスは続ける。


「俺はありがたい事に国連というこの世で最も偉大な存在から准尉という階級を貰っている、これはとても嬉しいものだ。そのうち階級はどんどん上がって佐官や、それ以上になるかもしれない」


 何を話しているかまだ掴めないような顔のニルヴァーナを見たからなのか、カンデラスは畳み掛けるように喋る。


「だけどそれは、結局名ばかりなもんだ。機械的な制度を抜きにして、弱肉強食という観点だけで見ると俺はとてもちっぽけで弱っちいんだ」


 そしてカンデラスはあの時のようにニルヴァーナの左肩に手を乗せる。鋭い目つきでニルヴァーナを睨むかのように話す。


「俺は魔術師という、俺という存在をちっぽけにしている存在を潰したくなった」


 上昇志向の強いカンデラスは彼に夢を語る。汗の滲み出てきたニルヴァーナは惑わされまいと防戦一方になる。

 ここからは逃げ出せない。入ってきた扉には自分より体の屈強な者達が阻んでいる。ここから逃げ出したらきっと自分は近いうちに死んでしまう。ニルヴァーナはそう思い耐えた。


「手始めに今この世界で頂点に立つ魔術師と言う生物を絶滅させ、蹴落とすんだ。そうしたら恐怖に怯えることなんてなくなる、俺達が一番だからだ」


 ニルヴァーナは自分で決断をすることが少なかった。訓練校の時からグレイスやニンバスと一緒になり、選択を任せきりで自分で判断する機会を自分で無くしていた。内気で弱気で、優柔不断な自分よりもグレイス達の方が確実に良い選択をすると思っていたから。

 そのツケが回ってきたのか、ここで選択しろと言わんばかりのカンデラスの視線が痛い。ニルヴァーナは彼と目を合わせようとはしていなかった。


「迷ってるのか? 無理もない、こんなに辛い選択をするなんて嫌だもんな? やってられないもんな?」


 焦りを見せるニルヴァーナの顔を見たからなのか、カンデラスは両肩を掴み同情する。

 他人からの一時の同情はその後の全ての人生を壊す時もある。なおも耐えようとするニルヴァーナに対してカンデラスは顔を後ろから近づけ、誰にも聞こえないような声量で話す。




「他人に自分の身を委ねる、内気で弱気で心に迷いしかないニルヴァーナはもう終わりだ。お前はもうお前じゃない、ニルヴァーナ・フォールンラプスではない。お前は再び世界を築き上げる者だ」




その言葉を聞いたニルヴァーナは椅子から立ち上がる。頭を真上に上げ目を見開く。それが引き金かのように身体中に強い電気がほとばしり、それまであった自我が保てなくなる。今まで生きていたニルヴァーナ・フォールンラプスというモノの何もかもが変わってしまうかのごとく。


 優しさ溢れる目は殺意と明確な意志を持つ刃物のような目付きになる。


「良いだろう、乗ったよ」


 カンデラスに対して過去一度も怠ることの無かった敬語も無かったかのように話しかける。


「そうかそうか」


 それを見ているカンデラスは悪意のこもっていない微笑みを見せる。

 言葉遣いも態度も豹変したニルヴァーナは彼に続けて話す。


「いつ、実行するんだ?」


「週末だ、今日が確か火曜だから三日後くらいか?」


 様変わりした彼は扉の方へ向かう。ドアを開けようとしたその時、カンデラスはニルヴァーナを止める。


「ニルヴァーナ」


「なんだ、カンデラス」


 上官である彼を呼び捨てにするニルヴァーナに対してカンデラスはたった一言。




「その意志は不滅だ。どんなに忘れようとも誰の心にも根付いていて、消えはしない」


「それを最も理解しているのは俺自身だ」






 それからのニルヴァーナにグレイスとニンバスは一度も会うことは無かった。


 週末、予定通り行われた離反作戦は見事に成功した。

 砲弾の雨に晒されたと思われた彼らは、あらかじめ用意された死体の肉片を使って死亡を偽装していた。

 それに気づくことも出来なかった彼らはただ絶望していた。泣くことも、喚くことも出来ずただ心に穴を開けた。


 グレイスが尊敬していた者の一人、フェリス・デヘールはグレイス自身に激励を送った。

 この世界で起きるこのような出来事が常に起こると思ってはいけない。それは仲間を殺す事になりかねないと声をかけた。


 その後、グレイス・レルゲンバーンは新兵でありながら現地で多大な戦果を残し、"アラスカの英雄"とまで言われた。彼自身はその名を嫌っていた。仲間を何人も殺されて何が英雄かと。


 そして、フェリス・デヘールはアラスカでの三ヶ月に及ぶ戦いののち、極秘作戦で行方不明となった。


 その日からグレイスという男は英雄という名の悪魔へ成り下がった。結局すべてが無駄だということに気づいた彼は長きに渡り意味の無い、終わることを知らない殺人を続けていた。


 アイリーン・グリーンフィールドや今いる信頼における仲間たちに出会うまでは。


 意志を取り戻そうと生きる男と意志のために生きることをやめようとする男。

 二人は再び出逢った。生きようとする者すべてにくる、春に。

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