007.5 その名は




 あの時、彼女の奥底に眠る気持ちは彼はなにも聞いていなかった。


 覚えているはずがない記憶を呼び覚まして彼女はその記憶を知る由もない彼に与える。





「お父さん! 次はどこに行くの?」


 彼女は家族と旅行に来ていた。

 二人の姉と父、母親と共に色鮮やかな街へやってきていた。


 のどかでありながら活気溢れる、澄み渡る空とカラフルな建物が、彼女の瞳には輝いているかのようにも見えていた。


「お父さん! お父さん……?」


 滞在二日目のその日は初日とは真逆とも思えるほど曇りに満ちた街だった。

 彼女は楽しさを優先し先走ったせいか、いつの間にか家族と離れ離れになってしまった。


 ついさっきまで家族といた場所とはどんどん離れ、表情にも陰りが見える。


 何度呼びかけても出てこない両親と姉たち。


 顔に涙が浮かび上がり始める。


 若干4歳の子供は知り尽くしていない街の中でひとりぼっちになっていた。


 どこの道がどこへ繋がっているか、この建物はさっき見たのか、周りの人たちは一体なんなのか、新天地のせいか、脳内はその子供を大きく悩ませる。


 でも、こんな時でも泣いてはいけない。彼女はそんなことを父親と母親と約束していた。


 涙が溢れそうになると両親との約束を守るため必死にこらえる。


 空は彼女の悲しさを表現するかのようにぽつぽつと涙を少しずつ流していく。


 彼女の目に涙が溜まりに溜まるとついには動いていた足も止まり、そこにかがみ込んでいた。


 外の世界を知らなかった彼女はその場で声を押し殺しながら眼から雨を降らせる。




 いま彼女が思えばそれが無ければ彼とは出会えていなかったかも知れない。




 女の子が泣いているとそこに独りの男の子がやってきた。


「ねえ、大丈夫?」


 彼女が見上げるとそこにいたのは、彼女より年上ながらもまだ子供の体つきの男の子だった。


「迷子?」


 男の子が彼女に問いかける。普通じゃない呼吸をする彼女は黙ったまま彼を見つめていた。


「お父さんとかお母さんとはぐれちゃったのかな……」


 このような時の対処法を心得ていない男の子は小降りな雨の中、そこから逃れられる場所を探す。


「歩ける?」


 悲しみにくれた彼女、泣くとそこに歩く力など残されていなかった。


「じゃあ」


 男の子はしゃがみ、女の子より一回り違う小さな背中を彼女にみせる。


 黙ったまま彼女はその背中に寄ると、男の子は彼女をおぶる。


 風邪をひかせないように、だが怖がらせないよう彼は雨の降る中でも歩きながら雨宿りが出来る場所を探し求める。


「普段は友達と遊ぶんだけどその子が今日は用事で遊べないって言っててさ、だから今日は買い物するだけして家に帰ろうって思ってたんだ。 そしたら君が……」


 独り言かのようにぺらぺらと今日あったことを喋る彼は泣きじゃくっていた彼女の心を落ち着かせる為に話していた。


「家はどこなの……?」


 彼女の声が聞こえると彼は一層嬉しそうにして話す。


「おれね、実は山の中で熊と一緒に生活してるんだ!」


「ほんとに?」


「本当本当! でも時々喧嘩することもあってさ……」


 雨宿り場所を見つけてその場に立ってもおんぶはしたまま、子供二人は話し続けていた。


 彼女が見せた笑顔は彼にとっては忘れられず、彼が見せた心は彼女にとって忘れられなかった。




 やがて両親と姉たちと出会う時にはおんぶはせずに隣に居ただけだった。

 彼女の親は自分達が彼女から目を離した事を彼と彼女本人に伝えるとともに、彼に感謝をする。


 父がなにかお礼をしたいと言っても彼はその気持ちだけで充分だという。

 結局そのお返しはいつかと言い、彼は自分の家に足早に帰ろうとしていく。


 母親と手を繋ぐ彼女はその小さな背中を見て大きな声で問いかける。



「わたし、アイリーン!  あなたはなんて言う名前なの?」



 その声が聞こえると七歳ほどの男の子は彼ら家族に振り返りこう言った。




「おれ? おれの名前は────」



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